猿みたいなジジイ
その後も散々絞られたが、昼休みになったので解放された。午後も会議は続くが、キューピットでも昼は食べる。営業マンは支店ごとに固まって、それぞれ会議室から出て行った。
俺も天野達に昼食に誘われたが、成績の良い奴らと一緒に行くのも惨めなので、適当な言い訳をして一人で会議室を出た。エレベーターに向かうと、ちょうど社長と羽田がエレベーターを待っているところだった。俺は咄嗟に向きを変え、非常階段の扉を開けると、身を隠すように急いで中に飛び込んだ。非常階段には、俺の侘しい靴音だけが響いていた。
時間をかけてゆっくり階段をおりたので、一階のフロアーには鬱陶しい奴らの姿はない。思った通りキューピット達はすでに外に出てしまったようだ。なんで俺はこんなに卑屈になっているのだろう。益々惨めになってくる。
会社の玄関を出てやっと開放された気分になり、両手を上げて大きく伸びをした。相当縮こまっていたのか、腕やら肩がボキボキ鳴るし、少し捻ると腰までバキバキ鳴った。
ひょいと顔を横に向けると、玄関横のキューピットの銅像が、ちょうど目線の高さに矢を向けている。俺はズボンのポケットに両手を突っ込み、近付いて話しかけた。
「お前はいいな、呑気な全裸で。俺を見ろ、同じキューピットなのに背広だぞこっちは。お前は気楽だよ。まったく愛だの恋だの、人間同士が勝手にやれってんだよな」
銅像のキューピットは、チンチンをぶら下げたまま何も言わない。俺は右手をポケットから出し、金色に輝くチンチンを握った。これで少しは愛のご利益があるのだろうか。
「なにやってんだ?」
いきなり話しかけられ、慌てて手を引っ込めた。驚いて銅像を見たが奴ではなさそうだ。
「なにやってんだ、九ちゃん」
後ろから名前を呼ばれ振り返ると、小柄で皺だらけの猿みたいなジジイが笑っている。この老猿ならよく知っていた。
「弓吉さん」
「よう、久しぶり」
二十七年前、俺の家にスカウトに来たキューピットの守矢弓吉だった。
弓吉は三代目社長の秘書だったが、恋愛営業部を立ち上げるためにスカウトマンになった。俺が入社したあとは一緒の恋愛営業部に所属していたが、十年以上前に定年になった。定年後は再雇用で会社に戻り、今はお客様相談室の顧問をしている。確か今年で七十七才になっているはずだ。
「どうした九ちゃん、キンタマ握ってしょんぼりして。四代目以外に握る奴がいたとは知らなかったな。気持ちいいのかい?」
弓吉も自らチンチンを握り、首を捻って確かめた。十回以上しつこくニギニギすると、今度は手のひらで転がすようにスリスリと摩る。
「結構すべすべしてるな」
満足したのかニヤリと俺に笑いかける。キューピットの銅像の前で、ジジイと中年の男同士がチンチンを握って笑っているので、会社から出てきた女子社員は眉をひそめて避けて通る。
「弓吉さん、場所変えましょう」
弓吉の左肘を掴み、引っ張って歩き出した。弓吉はまだ摩り足りないのか、右手を伸ばし指先だけで摩った。
特に行く当てはなかったが、弓吉が蕎麦好きなのを思い出し蕎麦屋に連れて行った。
注文したざる蕎麦が二人前テーブルに置かれると、弓吉は箸をしごいて、「待ってました」と嬉しそうに蕎麦を覗き込んだ。江戸っ子の弓吉は、つゆに入れる葱やわさびの入れ方も小気味良く、蕎麦をさっと摘まむとちょんちょんとつゆに付け、ズルズルっと一気にすすった。噛む間もなく舌鼓を打ち、満足した顔でうなずいた。一連の動作を何度も同じように繰り返し、あっと言う間に蕎麦を平らげてしまった。俺はまだ二口しか食べていないのに、弓吉はもう爪楊枝でシィーシィーとやってる。
「九ちゃん、食わねえのか?」
俺は首を振ると急いで蕎麦をかき込んだ。落ち込んではいるが食欲はある。これが中年の卑しいところだ。
蕎麦を平らげ蕎麦湯を飲んで落ち着いていると、弓吉が懐かしそうな顔をする。
「九ちゃんと初めて会ってから、何年になるかね?」
「もう二十七年になります」
「そうかい、そんなになるかねぇ。九ちゃんも若かったよな。今じゃくたびれた中年のおやじだけどな。かっかっかっ」
そんな黄門様みたいな笑い方してるあんたも相当なジジイだ。くたびれたどころか、棺桶に両足を突っ込んでいるジジイから、くたびれたと言われてしゃくに障るが、ここは何も言わずに穏便に済ませよう。
「弓吉さんがうちに来た時は驚きました。まさか、わざわざスカウトに来ると思いもしませんでしたからね。そんなに俺の事を目にかけてくれてたんですか?」
弓吉は下を向いて猪口の蕎麦湯をすすっていたが、一度上目ずかいでじっと俺を見ると、再び目線を猪口に戻した。
「ありゃ最後だ」
「最後?」
弓吉は猪口をテーブルに置くと、すっとぼけた顔をして笑った。
「そう最後だったんだなぁ。九ちゃんの家に行ったのはよ。どこ行ってもキューピットから断られて、どうしようか途方に暮れちまってな。よし、もうこうなったら九蔵さんしかいねえってな感じよ」
「九蔵ってうちの爺さんですか?」
「そう、九ちゃんの爺ちゃん。おいらと九蔵さんは、キューピットの釣りクラブで顔見知りでね。九蔵さんは亡くなって、息子さんがいるとは聞いてはいたんだ。でもほら、九蔵さんはあの通り、なんて言うか呑気な人だろ。だから息子さんもさ、どうかなと思ってたのよ」
苦笑いをしながら言う弓吉の気持ちは、俺にも痛いほど分かる。九蔵は呑気と言うよりとんちきだった。やる事なす事、間が抜けていた。俺がキューピットになって、婆さんからとんでもない話を聞いたことがある。
九蔵爺さんは、キューピットの使命を遂行しようと新宿に行った。そしてこれだと思う一組のカップルを見つけた。体格の良い男と、背の高くて髪の長い女が、仲良く歩いていたそうだ。両者とも矢を互いのハートに撃ち込んでいたが、残念なことに的がずれていた。爺さんは気を利かせて、ど真ん中に撃ち込み直してあげたそうだ。見事、仲むつまじいカップルに仕上げたと思ったら、女だと思ったロン毛は男だった。世間ではそう言うカップルも中にはいる。結果的にはそのカップルにとっては良い事だったかもしれないが、しかし、わざわざキューピットが手を差し伸べることではない。だが二度と矢は抜けない。そのあと爺さんは、「あれはあれで良かったんだ」と婆さんに呑気な事を言っていたらしい。そんな爺さんに似て親父の久作も同じような男だった。
弓吉は自分の猪口に蕎麦湯を足しながら俺の顔色を伺っている。俺はただ苦笑いをするしかなかった。苦笑いでも安心したのか、弓吉は話しを続けた。
「そんでよ、行くとこがもうねえし、まあいいかなと思って、息子の久作さんを訪ねたんだよ。どうしようか迷っちゃいたんだが、背に腹は代えられねえやな。でもまさか久作さんも亡くなっているとは思わなかったよ。そしたら、九ちゃんがいたじゃない……飲む?」
蕎麦湯を俺の猪口に足そうとするので黙ってうなずいた。弓吉は言い辛いのか、継ぎ足しながら言葉を捜しているようだった。
「弓吉さん、この際だから何でも言って下さい」
「そうかい、悪いね。じゃあ、言っちまうよ」
俺は目を閉じてうなずいた。そして、覚悟を決めると腕組みをして弓吉の言葉を待った。
「ぶっちゃけて言うと、九ちゃんを誘ったのはたまたまなんだよな。はっきり言っちまうと、誰でも良かったんだ。それによ、九ちゃん若かったから都合がいいじゃねえか。お袋さんも喜んでたしよ。人数も揃ってこちとらも万々歳よ。かっかっかっ」
目を閉じる俺の頭の中で歌が聴こえる。人生楽ありゃ苦もあるさ……。
「さぁ、出よ」
俺は何事もなかったように立ち上がり、弓吉も会計も無視して出口に向かった。表に出て弓吉を待たずに戸を閉め、会社の方向に歩き出した。少し遅れて店から出て来た弓吉は、辺りをキョロキョロ見渡している。俺を見つけて急いで駆けて来ると隣に並んだ。
「怒っちまったのかい?」
「いいえ、ご馳走さまです」
「いいてことよ、蕎麦ぐらい」
その返しが妙に頭にカチンときて、俺は立ち止まると横目で弓吉を睨んだ。弓吉はご馳走したのでいい気になっているのか、人の気持ちも知らずに満面の笑みを浮かべている。俺は益々カチンときて大股で歩き出す。
「そうですよね。蕎麦ぐらい。安いもんですよね。俺の人生に比べれば蕎麦なんて大したことはないでしょうね。どうせ俺は人数合せですからね。まったくね。たまたまですからね。キューピットになんか、どいつもこいつもろくな奴がいやしねえ」
ぶつぶつ文句を垂れ、大股でズンズン早歩きで進んだ。小柄な弓吉はヒイヒイ喘ぎながら、二、三歩遅れて必死について来る。
「ハアハア、待てくれや、九ちゃん。そう怒るこたぁねえだろ」
それでも無視しようと思ったが、「ハアハア、ヒイヒイ」と今にも死にそうなので、仕方なく速度を緩めた。それでもまだ歩くのが早いのか、弓吉はよろめきながら片手を伸ばし、なんとか俺の背広の肘を掴んだ。
弓吉は荒い息を整えてから言った。
「あぁしんど。そう怒るなよ。今じゃ立派な営業マンじゃねえか」
俺は背広の肘を弓吉に掴ませたまま、するりと背広を脱いで立ち止まった。弓吉は脱げた背広の肘を掴んでポカンとしている。
「弓吉さん見て下さい、背中の弓を」
俺は上体を捻ると背中を弓吉に向けた。
「何だよ弓矢じゃなえか。それがどうした? しかし、ずいぶんと薄汚れてるな。ちゃんと掃除しろ……あっ」
弓吉は口を開けた状態で固まってる。
「どうです。いい色してるでしょ」
嫌味な言い方に弓吉も察しがついたようで、口を閉じると今度は目を見開いた。
「今日はおめえ会議か?」
「フン、そうですよ」
ふて腐れて言うと、弓吉は手の平でパチンとおでこを叩き、オーバーに空を見上げる。
「あっちゃ~」
おでこに手を置いたまま俺を見て、申し訳なさそうに言った。
「それ、見せちゃったの? そんな小汚い弓を、みんなの前で、見せちゃったの、やっぱり……」
「いけません?」
弓吉の目は泳いでいる。小刻みに顔を左右に振ると、気の毒そうな顔で言う。
「いけなかないけど……そうか、会議で見せちまったか……やっぱ血かな……」
「血?」
俺が眉間に皺を寄せて睨むと、弓吉はぶるぶると顔を振った。
だが、今さら弓吉に八つ当たりしてもしょうがない。スカウトに来たが、会社に入るのを決めたのは自分の意思だし、営業成績が悪いのも自分の責任だ。
小さく縮こまっている弓吉から背広を受け取ると、俺は一人で歩き出した。だが弓吉はついて来ない。下を向いて頭を掻いている。しょげてる姿を見て、今度は弓吉の方が気の毒になった。まだ午後の会議まで時間がある。
「弓吉さん、茶でも行きましょうか。俺がおごりますよ」
弓吉は顔を上げるとニンマリ笑った。
「わりいな、九ちゃん」