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寂しい老人

 会社を出ると、雨が降っていた。

 降り始めて間もないのだろう、アスファルトが濡れたばかりで雨の匂いがする。

 気を利かせた真弓が、俺達の置き傘を取りに部屋に引き返した。真弓を待つ間も、羽田はまだ放心状態だし、弦さんも天野も肩を落として元気がない。いつもなら誰かが、飲みに行こうと言い出すのだが、そんなゆとりもないようだ。

 それぞれの置き傘を手に、無言で駅まで向かった。

 駅に着き、改札口に近付くと後ろから、「おじさん」と声をかけられた。

 しょぼくれたおじさんの俺達が一斉に振り返ったが、声を出したのは俺だけだった。

「正太君、お千代ちゃん、どうした?」

 正太は二本の傘を両手に抱えて、千代は黄色いフード付きのカッパを頭からかぶり、正太の洋服の端を掴んで立っていた。

「雨が降ってきたので、お父さんを迎えに来ました」

 ぼんやりと間抜け面した他のおじさん達は、興味なさそうに見ている。俺が、先に行ってくれと告げると、口々に、「じゃあ、明日……」と力なく答えて改札口に消えて行く。後ろ姿は、キューピットと言うよりは、苦労人なので痛々しい限りだ。

 正太に駅にいる訳を聞くと、父親から今から帰ると電話があり、雨が降ってきたので迎えに来たようだ。傘ならコンビニで買えるのに、わざわざ迎えに来なくてもと思ったが、母親が留守で寂しいのと、父親が久しぶりに早く帰るのが嬉しいのだろう。

 改札口周辺は、会社の退社時間が過ぎたばかりなので人の行き来が激しい。

 千代は改札口を、目を皿のようにして見続けて目を離さない。父親を見逃すまいとして必死だ。

「あっ、おとうたん!」

 千代はいきなり駆け出し、改札口から出てきた父親にしがみ付いた。父親は驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔を返して抱きとめた。正太にも気付き、千代と手をつないで近付いて来た。

「二人で迎えに来たのか、子供だけで危ないぞ」

 父親は少し困った顔をしたが、正太の頭を撫でると、「ありがとう」と言って嬉しそうに笑った。

 正太の、「エヘヘ」と照れくさそうに笑う顔を見ると、問題がある家族には思えなかった。

 父親の顔を見て、十年前に京都で会った人物と確信した。少しの懐かしさも感じる。

 正太の隣でにやついている俺を、父親は首を傾げると不思議そうに見ている。

「お父さん、このおじさんは、キューピットの会社のおじさんだよ」

 つたない正太の説明を聞いて首を傾げていた父親だが、何かに気付いたのか納得したようにうなずいた。

「あー、あのキューピットの銅像の会社ですね。キューピットマヨネーズでしたよね」

「そうですその会社です。銅像で分かりますか。結構有名なんですね。知らなかった」

 キューピットの銅像が有名なのは、キューピットの俺としても喜ばしい事だ。俺がニコニコと答えると、父親はプッと噴出した。

「ええ、有名ですよ。おかしな銅像ですから近所の人も可笑しがってます。でもあれですか、キューピットの股間だけが金色なのは、わざとなんですか?」

「……」

 社長が毎日触っているから色が変わったなどと、恥ずかしくて言えない。俺は答えられずに曖昧に笑うだけだった。正太も千代も笑っている。子供の間でも有名なのだろうか、恥ずかしい。父親は正太と千代の顔を見比べると、笑うのを止めた。

「でも、正太と千代とは……なにかこの子達が迷惑かけましたか?」

 父親が心配そうに聞く。知り合いでもないサラリーマンと、幼い子供が一緒にいれば心配もするだろう。俺は手を振って明るく答えた。

「いやいや、ご心配なく。うちの会社に寂しい老人がいまして、正太君と千代ちゃんが遊び相手になってくれているんですよ。年中暇な偏屈で寂しい老人の遊び相手になってもらって、こちらが助かっています。良く出来たお子さんですね」

 言ってから不味いと思った。もう俺の知る弓吉は、猿でとぼけた老いぼれキューピットではなかったのだ。あれでもれっきとした大神様だと忘れていた。どこかで聞いているかもしれない。

 俺は辺りをキョロキョロと見渡した。

「どうかしました?」

「いえ、猿が……」

「猿?」父親も怪訝な顔で辺りを見渡した。

「いやいや、うちの社員で猿面の男がそこを通ったと思いましてね。気にしないで下さい」

「弓吉じいちゃん?」

 正太が首を傾げて聞いたので、俺は顔を引きつらせて曖昧に笑った。

 雨とラッシュ時に重なって、俺達が改札口のそばにいると邪魔のようだ。帰ろうと思い別れの挨拶をしかけたが、父親も昔の事を覚えているか一応聞いてみた。

「お父さん、十年前に奥さんと京都に行った事があるでしょ?」

 予期せぬ質問に父親は目を丸くした。

「ええ、行きましたけど、どうして知っているんですか? 正太にでも聞きましたか?」

「俺の事を覚えてないですかね? 旅館で会ったんですけど、十年前だから忘れちゃったかな」

 父親は首を捻って俺を見ていたが、あっと口を開けると意外な事を言った。

「キューピットさん、ですか?」

 俺は驚いて、はっとバカ見たく口を開けると、父親はそのバカ面で確信したようだ。

「やっぱりキューピットさんだ! あの節はお世話になりました」

 父親の言葉を聞いて、正太と千代は俺を見て目を輝かせた。憧れと言っても良いほどキラキラしている。俺はなんと答えて良いか分からずに引きつった顔で笑うと、父親はなおも喜んだ。

「懐かしいな。どうです、僕の家に来ませんか?」

 父親は社交的な性格らしく、誘うき満々で人懐こく笑いかける。突然の申し出に戸惑っていると、正太と千代が俺の腕を両方から掴んだ。

「行こうよ、おじさん!」

「いこうよ、おじたん!」

「来て下さいよ。家内もキューピットさんと会えれば喜びますから、と言っても京子はまだ帰ってないかな。でも、時機に帰ってきますから、是非来て下さいよ。お忙しければあれですが、どうですか、時間ありませんか?」

 人からこんなに喜ばれると悪い気はしない。お調子者の俺ならなお更だ。

 父親の名前も、母親の名が京子と聞いて思い出した。父親の名は、ヒロシだ。

 俺がガキの頃に良く見たアニメで、平面ガエルの話に出てくるキャラクターと、名前が一緒なので覚えていた。だが、なぜヒロシは俺がキューピットだと知っているのだろうか。

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