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猿のオモチャ

 オフィス街の裏手には、こんなに住宅があるとは思っていなかった。

 少し離れて高い近代的なビルが並んでいるが、今歩いている町並みは普通の住宅街だった。六時で薄暗くなったが、子供達が遊んでいる姿もチラホラ見かける。

 弓吉が正太と手をつないで歩く姿も、孫とジジイでこの町並みにマッチしている。俺は千代と手をつなぎ、前を歩く弓吉に声をかけた。

「会社の裏手がこんな風になっているなんて、気付きませんでしたよ」

「雰囲気がガラッと違うだろ。正太の家はもう直ぐなんだ。今日も両親が仕事に行ってるから、学校終わったら会社に遊びに来いって言ったんだよ。おっ、見えてきた。ほら、あそこのマンションだ」

 弓吉の指差すのは、レンガ色の八階建てのマンションだった。

 エレベーターのボタンを押すとすぐにドアが開いた。みんなが乗り込んだのを確認してから、正太は六階のボタンを押した。到着するまでの間に俺は正太に聞いた。

「お母さんかお父さんは帰っているの?」

「ううん、いつも八時過ぎだから、まだ帰ってないです」

 正太はいつもの事で慣れてしまっているのか、さほど寂しそうな顔はしていない。だが、千代は寂しいのだろう、詰まらなそうな顔を俺に向けている。その顔を見たお節介ジジイは調子に乗った。

「じゃあおいらが、この前のようにおかあちゃんがけえて来るまで待っててやっか。なぁ正太、お千代坊」

「ほんと!」

「ほんちょ!」

 弓吉の意外な人気に驚いた。正太も千代も目を輝かして喜んでいる。この子達は弓吉を、猿のオモチャだと勘違いしているのではないだろうか。正太も千代も、弓吉の腕を取ってはしゃいでいる。弓吉は二人と程度が同じと言う事だろう。

 エレベーターのドアが開くと、弓吉ははしゃぐ二人に引っ張られて降りて行く。廊下を少し進んだ所で千代が叫んだ。

「おかあたん!」

 数メートル先で呼ばれた女性は、ちょうど玄関のドアにカギを入れるところで、その体勢のまま顔だけこちらに向けた。

「あら、正太、千代」

 千代と正太は弓吉の手を離すと一緒に駆け出した。女性の足に千代はじゃれ付き、正太はカギを受け取りドアに差し込んだ。

「あの人が、母親ですか?」

「そうだ。母ちゃんがいるなら、おいら達は挨拶だけしてけえろうか」

 弓吉のあとに俺も続いたが、途中でたちすくみ一歩も進めなくなってしまった。弓吉はついて来ないのに気付き振り返った。

「どうした、九ちゃん?」

 俺が母親を見て怪訝な顔をしているので、弓吉は、「知り合いか?」と聞いた。俺は力なく首を振り、背中を見る仕草をした。

「背中の弓が……俺の弓が背中で震えています……」

「弓? 震えてるっておめえ、どうして……えっ」

 弓吉は母親の方に振り返ると、直ぐに俺に向き直り怪訝な顔をした。

「おめえがあの子達の両親に矢を撃ち込んだって言うのか?」

「そうでしょう」

「そうでしょうって、知り合いじゃねえんだろ?」

「母親の顔は見ても思い出せないけど、矢を撃ち込んだのは、間違いないでしょうね。弓が震えてます」

「そうか、顔を覚えてないのはしょうがねえよ、いくら成績の悪い九ちゃんでも、年間何百はカップルに撃ち込んでるだろうからな。成績の悪い九ちゃんでもよ」

 どさくさに紛れてこのジジイは、何度も成績が悪いと言いやがって。

 しかし実際、弓吉が言うように撃ち込んだのは数少ないカップルなのに、母親の顔はまったく覚えていなかった。

 そのあとは、風邪気味で早く帰宅した母親と、二、三言葉を交わしただけで別れた。

 帰り道でも弓吉に覚えてないのかと言われたが、全く記憶になかった。弓吉の話だと、父親は長崎で母親は仙台の出身らしい。年は二人とも三十歳で十年前に結婚して長崎で暮らしていた。五年前に東京に引っ越すまでは、一度遊びに来た位で暮らした事はないそうだ。俺も今までに仙台も長崎も一度も行ったことがない。余りにも接点がないので、撃ち込んだのは本当かとしつこく弓吉は疑っていたが、弓は正直だ。間違うはずがない。

「まぁ、家にけえってゆっくり思いだせよ。ほんじゃあな、また明日」

 人がショックを受けているのに無責任なジジイだ。早々、毎日じいさんなんかに会っている暇など俺にはないのだ。

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