太平洋横断
静かに潮風が凪ぐ中、私達は東京湾に放り出されていた。何人いるかも分からない全裸の人々が海に浮かんでいる。そのうち何人かはすでに出発しており、もう肉眼では見えない。強化視力を使って……いや、無駄なことはよそう。
まるで人間じゃないみたい? そりゃあ、私達はもはや人間ではないですから。詳しいことは記録には残ってないから思い出せないのだけれど、元々私達は人間だったらしい。分かるのは、私達が強化人間と呼ばれていること。感触はほとんど変わらないけど、ナイフごときじゃ傷さえ付けられない強化された皮膚。筋肉や視力もコンピュータで管理され、疲れという概念は存在しない。海水の冷たさなどさえも関係ない。ただ、私の素体は豊富な脂肪の塊を胸部に持つため、非常に泳ぎにくいのが難点。
「だとしても、いくらなんでも、無謀過ぎない……?」
私達が与えられたミッションはただ一つ、日本からアメリカまで休憩なしでクロールで泳ぐこと。東京からサンフランシスコまで、なんと約8000km!私の頭脳にあるコンピュータが弾き出した数字。なぜそんなことをしなければならないのか。記録に存在しなければ思い出すこともできない。ミッションのために不必要な記録は残されていないようだ。人間になりたいだという欲望や、怪人を倒さないといけないという使命さえも存在しない。ただ目的だけを与えられているだけ。でも、どうやら人間だったときの私は無気力だったらしく、今の私もその目的を果たそうという気力を出せない。あら、私にもまだ人間らしさが残っていたなんて。
「ハァイ、彼女、みんなもう出発してるよ」
裸体の青年が声をかけてきた。当然彼も強化人間。彼の言う通り、私達以外はもうほとんどいない。
「でも、なんとなく気後れしちゃって」
適当な言い訳をする。こいつもさっさと行ってくれないかな。
「それじゃあ、俺の背中に乗っていきなよ」
わけのわからない提案をしてくる。もしかして性的アピール? まだそんな人間的な機能が残っていたんだ。この脂肪の塊にそんな価値があるだなんて。
「ふぅん、まあ、楽できるならいいけど」
彼の背中に座り込んで後ろを振り向くと、海岸には迷彩服を着た人たちが並んでいるのが見えた。彼らが送る信号灯の光信号を眺めていると、敵地へ赴く心の準備ができた。侵略し、我らの子孫を残すのだ。