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プロローグ

「彼」が誕生したのは、どこか古い冷凍倉庫の中であったという。

どうして、どうやって、また何のために彼が生まれてきたかは誰も知らない。

ただ確かなことは、彼がドライアイスであり、常に体温を氷点下に保っており、そして、どこまでも孤独だということだ。


 人と同じ形をもって、人と同じように思考でき、人格を持ち、言葉を操ることのできる彼が、徹底的に人と違うところは、彼の全身が二酸化炭素の冷え固まったドライアイスでできているということだ。彼は衣類をまとわないマネキンのように、ただのくぼみとして落ち窪んだ瞳は瞼を閉じることも動かすこともできず、色も面白みもない冷凍倉庫の暗闇の中を眺め続ける。


彼は生まれて間もない頃から、非常に多くのことを知っていたし、あらゆる言語を理解していた。

世界中から集まった二酸化炭素の分子たちが彼にあらゆる情報をもたらしたからだ。


不運にも、彼は日本に生まれてしまった。

彼はこの地で極めて不適切な存在だった。

たとえば、彼が彼の生まれた冷凍倉庫の中から一歩外へ出れば、彼はたちまち昇華してしまう。

体長2メートル弱を誇る彼でも丸一日真夏の日本にいたら、すべて気化してしまうだろう。

真冬の気温でさえも彼にとっては暑すぎた。

彼がちょっとお散歩に街に出ることがあれば、通りすがりの人は皆寒さに身を震わせ、触れればたちまち凍傷を負ってしまう。

全身から極寒の白い煙を放つ彼と、一体誰が友達になってくれることだろう。


彼は、そのことを知っていた。

ゆえに、孤独だった。

彼は、唯一無二のドライアイスマンだったからだ。





「ねーえ、つぎはどんなお花がいーい?」


 彼の住む冷凍倉庫の前で、ひとりの女の子がいつものようにしゃがみ込んで、お花を摘んで遊んでいた。


彼の倉庫のある会社は、地元の古い中小企業で、ドライアイスの製造・販売のほか、ドライアイスの粒を汚染物に高速で投射することによって、さまざまな機械の洗浄に利用する技術の開発にも携わっている。敷地面積も広く、倉庫の前は雑草の生い茂る広場のようになっていた。


その広場に毎日のように忍び込んでは一人で遊んでいるその女の子の名前は、深山紗季。今年5歳になったばかり。近隣のマンションの一室に母親とふたりで暮らしている。彼女はおかっぱ頭に幼稚園の帽子をかぶり、袖の先からはほっそりとした手足がのぞく。同世代の子の中ではだいぶ小柄だけれど、真っ白はほっぺただけはふっくらとしていて、クリクリしたまるい瞳が真剣に摘むべき雑草の花を吟味している。


 この草むらはフェンスで囲まれていて、どうやら子どもが入ってはいけないところのようだけれど、子どもがいっぱいの公園は苦手だから、子どもがいなくて静かなこの場所が紗季のお気に入りの遊び場だった。ときどき会社で働いている大人の人に話しかけられて、びっくりして逃げてしまうときもあるけれど、自分の小さな体をこの大きな倉庫が隠してくれるから、きっと大人たちにもばれないはず。なんて思いながら今日もお花を摘んでいる。しかし彼女は、会社の大人たちの目が、数メートル先の建物の窓から時折自分を見守っていることに気付いていない。


「このお花、かわいいなあ。あのピンクのは?」

紗季は、ほかの子どもたちと関わるのが苦手で、ひとりで遊ぶのを好んだ。

友達の作り方なんて、難しいことは分からないけれど、紗季の頭の中にはひとりの「おともだち」がいた。その「おともだち」に話しかけながら、気に入ったお花を束ねていく。

白いの。青いの。ピンクいの。

名前なんて、タンポポとシロツメクサしか知らないけれど、綺麗なのを見つけては、その小さな手で摘んで、束ねる。

「ねえ、これならお母さん、よろこんでくれるかな。かわいいねって、ほめてくれるかな」

真っ暗になるまでお仕事のお母さんは、きっとこんなに綺麗なお花が咲いていることに気付いていないから。だから、わたしが、見せてあげたいなって。

 だけど、前にお家に持ち帰って時は、お母さんが見やすいようにテーブルの上に飾っておいたのに、嫌な顔をして、汚いものに触れるように捨てられてしまった。ごみ箱の中で散り散りになってしまったお花を、紗季はしばらく見つめた。


――あれじゃ、ダメだったんだ。もっと綺麗なのを持って行かなきゃ。

もっともっと綺麗なお花を持って行って、綺麗ね、紗季、ありがとうって。


だけど、作ったものを持ち帰ろうとする度に、前の花束を捨てた母の表情が思い出されて、結局倉庫の前に置き去りになっていた。

置き去りになった花束がどんどん増えて、萎れていく。


 辺りは、オレンジがかってきた。もうすぐ日が暮れる。夕日の色だ。

紗季は、この色が嫌いだ。

「かえりたくないな…」

紗季は自分の家の灰色の部屋を思い出すと、お腹とか胸とか、とにかく体の中がきゅうっとしてどんよりして、大声で騒ぎたくなる。幼稚園にいる他の子どもたちと同じように大声で泣いて駄々こねて、帰りたくないよおって。

だけど、紗季は絶対に泣いたりしない。

紗季の大好きな鳥の鳴き声も、虫たちのダンスも、そよ風も、流れる雲も、もちろん綺麗なお花も、何もないお部屋が嫌いだ。お母さんのいない家になんて帰りたくない。

だけど、泣いちゃいけない。

泣いたら、お母さんに迷惑がかかるから。

帰って、鍵を掛けたら、良い子にして待ってなきゃ。


「お母さん、わたしのこときらいかな。どうやったら好きになってくれるかな。きょうは、はやく帰ってきてくれるかな」

何度も尋ねているのに、頭の中の「おともだち」は、紗季の問いかけには決して答えてくれない。

紗季の思いつく範囲で、都合のいいことを言ってくれるだけ。


紗季は、手にした花束を倉庫の前に大事そうに置いた。

きのうまでに作ったいくつかの花束はもう枯れてしまっているけれど、コレクションのように隣に並べる。

「おうち、かえらなきゃ」

夕日が大分、沈んできたから。

暗くなる前に帰りなさいって、幼稚園の先生が言うから。

お家にある絵本はもう何十回も読んでしまったけれど、それでもお家に、帰らなきゃ。


 紗季は、見えない糸に引っ張られるかのように、真っすぐに家に向かう。

ドライアイスの会社の建物にはもう電気が点いている。それには背を向けて、明日こそはもっと綺麗な花束を作ろう、なんて考えながら家に帰る。






 会社の敷地内からすべての明かりが消えると、「彼」はこっそり動き出す。

誰も答えてくれない紗季の問いかけに、「彼」だけは逐一答えていた。

「そのお花、可愛いね」

「きっとお母さんも喜んでくれる」

誰にも届かない声で、そっと。

 紗季が寂しげな背中を向けて帰っていく姿を見守りながら、呼び止めたい衝動を必死に堪えた。

大丈夫、君はひとりじゃない。

そう、言ってあげたくて。


「彼」は、周囲に誰もいないことを確認すると、一瞬だけ、外に出た。

紗季の作った花束をひとつ手に取ると、素早く冷凍倉庫に持ち帰る。

そして、愛おしそうに見つめ、そっと、花びらに触れる。

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