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異世界恋愛 ──十六王国物語──

《短編》シュシュ・フラマンは悪女の系譜

作者: 三條 凛花

 リコリスは、バルコニーで外を眺めていた。

 ぼつぼつと鈍い音を立てて、雨粒が落ちている。暗くて暗くて、そして寒い夜だ。

 豊かに波打つ真っ赤な髪の毛の美しさは、宵闇にまぎれて今はわからない。


「カーマイン嬢」


 後ろから、硬い声色が投げかけられる。ぶるりと震えが走り、リコリスは誰にも見えていないはずだとわかっていながらも、自然と扇で口元を覆っていた。


「……カーマイン嬢っ」


 リグレットが痺れを切らしたように、やや乱雑な口調で言った。いつでも品行方正な彼からは考えられない焦りが滲んでいた。


 リコリスは観念して、けだるげにそちらへ視線をやる。


 緑色の目にじいっと見据えられた()()は肩を揺らした。

 吊り目がちなこともあいまって、まるで夜に溶け込んだ猫のように容赦なく光って見えたからだ。


「なんでしょうか、殿下」


 リコリスは口の端を吊り上げた。

 ぽってりとした艷やかなくちびるが弧を描く。リコリスの視界の端にピンク色が映った。


 豪奢な金色のドレスを身にまとい、堂々とした雰囲気のリコリスとは対象的に、少女はリグレットの腕に寄り添うようにして震えている。


 くすんだ薔薇の花びらのような瞳は、こぼれ落ちんばかりに見開かれていて、目尻が赤くなり、ぷっくりと涙の粒が浮かんでいた。


 リコリスはそれを見て、不快げに目を細めた。


「……君との婚約を、白紙にさせてもらう。直に兵が来るだろう。大人しく牢で沙汰を待つがいい」


 吐き捨てるようにそう言ったリグレットは、リコリスの婚約者である。

 公爵令嬢の彼女と、王太子であるリグレットとの政略結婚は、彼女が生まれたときに取り決められたもの。


 そこに愛はなかったが、ここ一年ほどは、学園で出会った身分の低い、男爵家出身の少女にリグレットは夢中になっていた。その名をチュチュ・コスメーアという。


 二人とも衣服が乱れており、婚約者殿のいつもはしっかり撫で付けられている髪の毛も整えられていないことから、二人の間にどんなことがあったのかは誰の目にも明らかだった。


「……君には本当に失望した」


 リグレットがこぼした。彼はくちびるをくっと噛み、リコリスに侮蔑のこもった視線を投げつけてきた。


「君はチュチュに、いや、──私に何をしたのか、わかっているのか?」


 リグレットの雨のような青い瞳は、今は怒りに燃えていた。


 一方、チュチュの顔は青ざめており、歯の根がかちかちとなっている。伏せたまぶたを長いまつげが縁取っているのだが、その一本一本まで髪色と同じ桃色なのだと、どうでもいいことに、リコリスは初めて気がついた。


「まあ、殿下。浮気相手のことを名前で呼んだこと、お気づきでしょうか?」


「なっ……」


「そもそも、非難されるべきはあなたではなくて? わたくし、何度も学園内で注意しましたのよ。そちらのコスメーアさんに。婚約者のいる殿方との距離にはお気をつけなさいと」


「それは……っ」


 チュチュが涙ぐみながら言いかけたが、リコリスは「目撃者ならたくさんいますわ」と封殺した。


「とにかく、君との婚約は白紙にさせてもらおう。罪は償ってもらう」


 そのとき、バルコニーに兵たちがにじり寄ってきているのに気がついた。リグレットは心なしかほっとしたように表情を崩す。


「まあ! わたくしが罪を?」


 リコリスは口元を扇で隠したまま、声のトーンを上げた。


「なにも証拠がないのによく言えたものですわね。……婚約破棄、謹んでお受けいたします」


「なっ」


 予想外の返答だったのか、リグレットは呆然としている。チュチュは目を伏せたままだが、ぶつぶつと男の名前を呟いていた。


「ちょうどよかった。君たち、彼女を牢へ」


 リグレットは意を決したように、後ろの兵たちに告げた。しかし、兵たちは、困惑した雰囲気はあるものの、それ命令には従わなかった。


「──捕らえられるのは、兄上だ」


 兵たちの列が波を割るように左右に分かれ、堂々とした様子で歩を進めてきたのは、第二王子であるサーティスだった。


「サーティス……?」

「殿下……!」


 リコリスは耳の端を赤く染め、いつもより柔らかい声色で言った。サーティスは兄とその恋人の横を通り抜けると、リコリスを守るように背に庇った。


 リグレットは驚きながらも、チュチュを守るように庇っている。サーティスは、虫を見るような視線を彼女に投げかけた。


「その女も捕らえろ。そっちは地下牢でいい。兄上、リグレット・ルヴィ・プリュイレーン。あなたはもう王太子ではない」


「サーティス、貴様……」


「兄上、その毒婦に唆されたとはいえ、僕に毒を盛るなんて……。父上も大変お怒りだ。……残念です」





 それから十年ほどあと、幽閉されていた王太子リグレットは毒杯を賜った。

 しかし、処刑されるはずだった悪女チュチュ・コスメーアは、リグレットによって秘密裏に逃されたのであった。




 ───百年後───




 連日続いている重たい雨が、秋を連れてきたようだ。ついこの間まで半袖のワンピースでも汗ばむくらいだったというのに。


 首都空中駅の美しいイルミネーションを反射して、きらきらと輝いている水たまりを眺めながら、寒さがしみる首元のあたりをさすった。


 今日は、婚約者の母親が地方から出てくる日である。


 国の中心地にある、首都空中駅最上階のレストランを指定されている。いつもは婚約者が迎えにきてくれるのだが、今日は義母となる人を迎えに行っているからなのだろう。待ち合わせ場所はレストランの中だった。



 二十年ほど前に開発されたルナシップのおかげで、地方と首都との行き来はずいぶんと簡単になった。ルナシップは、正式名称を月光高速船(ルナシップ)という。


 その名の通り、月光と風をエネルギーとして船を空に浮かせたものだ。そしてそこに術者が風魔法をかけることにより馬車の何百倍も早く移動ができるようになっている。



 婚約者の母が住むのは、以前は他国であったベチルバード地方だが、ルナシップを使えば一時間ほどで移動ができる。


 私の住む国、アウトリーフ国はずっと変革を遂げている、世界の中でも先進国だ。


 大陸を3分割していた3王国が統合され、王制もなくなった。その立役者は、九十年ほど前に現れた、"解放王”と名高い最後の王ミューゼット。彼が王国解体したのをきっかけに他国を凌駕する勢いで発展を遂げている。


 ほかの大陸では、未だに馬車移動のところもあるくらいだ。



 首都空中駅最上階には、高級レストランがある。

 全面ガラス張りの空中昇降機でさらなる空へと上がる。鏡の中に映るのは、淡いミントグリーンの髪を見苦しくないようにアップスタイルにした自分の姿。瞳は珍しいオッドアイで、片目が桃色、もう片方は“雨の色”だと母が言っていた。


 空中駅にルナシップが滑り込んできた。背の高い建物が立ち並び、それぞれが魔導灯で美しく彩られて、宝石箱のような街だ。


 それにしても、婚約者は割と裕福な家庭で育ったのだろうと想像してはいたけれど……。こんな場所に足を踏み入れたことがなかったので、場違いではないかと緊張がさらに深まった。




「あなたとの婚約ですけれどね、破棄させていただこうと思うの」


 メニューを頼み終えると、義母となるはずの女性は、貼り付けたような無表情で言った。それは「ついでに前菜をもう一品追加しようかしら?」というような気軽さだった。


「ま、待って下さい。お義母さん……」


「いやだわ。あたくし、あなたの母になったつもりなんてないのよ?」


 義母は、侮蔑のこもった眼差しをこちらに向け、ぴしゃりと言った。私はくっと喉の奥が冷たくなり、ごくりとつばを飲んだ。


「すみません、マルーンさん。でも、どうして? レックス、あなたからも説明して……」


「……」


 彼はうつむいたまま答えなかった。


「レックス……?」


 見上げるくらい背が高い人だというのに、母親の横に並び、背中を丸め、まるで隠れるようなその雰囲気に言葉を失う。

 ついこの間、大きな黄昏石のついた指輪を送ってくれたばかりだというのに。


「ああ、この子はショックを受けているみたいなの。繊細な子だもの」


 レックスの母は、いたわしげな視線を彼に向けた。


「あたくしから説明するわ。端的に言うと、あなたのような”下賤な血”を、元子爵家であるわが家に混ぜるわけにはいかないのよ」


「……下賤な血?」


「ええ。人を雇って調べさせたの。婚前調査というものね。そうしたら、あなた、あの稀代の悪女の子孫だというじゃない。百年ほど前、プリュイレーン王国を破滅に導いたと言われる……」


「チュチュ・コスメーア……?」


「あら、知っているのね。もっと無教養かと思ったわ」


 彼女は純粋に驚いたといった感じで、ぱちぱちと瞬いた。それからすっと立ち上がり、テーブルの上に分厚い封筒を置く。


「とにかくそういうわけだから。高貴なこの子に、あなたのような方は釣り合わないわ。身分がある時代だったら、うちは子爵家なんですからね」


「そんな……」


「こちら、手切れ金よ。この子が渡してしまった婚約指輪も差し上げるわ。売ってお金を工面するといいでしょう」


 レックスも無言で立ち上がる。


「レックス……」


 そのまるまった背中に声をかけると、彼はびくりと肩を揺らした。


「そうそう、この子ね。あなたのその不格好な瞳も嫌いだって言っていたわ」


「レックス」


 彼は結局、こちらを一瞥もせずに去っていった。





 レックスとは三年近い付き合いだった。


 首都大学で出会い、ともに研究し、いつしか恋仲になって……。穏やかなひだまりのような人だと思っていた。兄のように頼りになる人だとも。


 私の実家には何度か来てもらっていたけれど、頑なにお義母さんには会わせてもらえなかったから、今日は本当に嬉しかったのに。ようやく家族になれると思ったのに。


 眼下にルナシップが到着したのが見えた。あの人たちは、あれに乗っていくのだろうか。その時間に合わせるために、こんな早くに帰ってしまったの?


 目の前には、すっかり冷めてしまったスープ。野菜とハーブと、それからクリーム……? 給仕のときに説明をしてくれたけれど、緊張していて覚えていない。


 ひと口含むと、ほろりと涙がひとすじ流れた。


 周りの客たちからちらちらと視線を向けられているのはわかっていたけれど、もうこの際どうでもいい。せっかくだから味わい尽くしてから帰ってやるんだ、と私は決意した。


 その後に続くコース料理は、どれも美しく、彩りも綺麗で、夢のようだった。


「あの人、悪女チュチュの子孫らしいぞ」

「罪人の子孫だなんて……」


 その声は、静かな店内にぽつりと落ちた。そして波紋のように、ひそひそ、ざわざわと声が広がっていく。


「こちら、本日のデザートでございます」


 その声を遮断するように、目の前に影が落ちた。先ほどまでとは違う給仕の人が、フルーツが品よく盛り付けられたケーキを運んできてくれた。


「あの、デザートは先ほどいただいたのですが……」


 困惑して顔を上げると、美しい顔立ちの男性が、奥の席を示した。そこには上品な老婦人が座っており、にこやかに微笑んでいる。


「あちらのお客様からです」


 会釈をすると、老婦人は手を振ってくれた。


「お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」


 給仕の男性に告げると、彼はぱちぱちと瞬いた。長いまつげがふるふると揺れた。少しわかりにくいけれど、彼の瞳も自分と同じ(オッドアイ)だと気がつく。


「いえ、お客様のせいでは……」


 男性は憐れむように眉を下げた。それから少しいたずらっぽい顔をして、そっと私に耳打ちした。


「彼らは出禁リストに載ったかもしれませんね」


 そうして、この店の姉妹店であるスイーツショップのチケットを一枚渡してくれた。


「甘いものを食べると、戦う気力が湧きますよ」


 私にチケットを押し付けるようにして、男性は厨房へと戻っていった。




 老婦人が私に贈ってくれたのは、細く巻きつくように絞り出されたクリームがのったケーキだった。気づくと周りの喧騒も気にならなくなっていた。


 食べ終えると、お腹の中がぽっと温かくなった。お礼を言おうと窓側奥の席を見たけれど、もう先ほどの老婦人は居なかった。すぐに行くべきだった、気が回らなかったと後悔する。


 そして、目の前に雑に置かれた"手切れ金"が目に入る。今までは呆然としていたせいか、急に怒りがめらめらと燃え上がってきた。小さなバッグには入らなかったので、封筒を手に持ったまま立ち上がる。


 このお金は返さない。進学を諦めた上級大学に通おう。私は悪女の系譜なのだから。






 店を後にすると、急にどっと疲れが出てきた。ショーウィンドウに映る自分の姿が、なんだかみじめだった。ふるふると首を振る。ぴんと背すじを伸ばす。


 首都空中駅から地上に降りる昇降車に乗り、次にルナランに乗り換える。ルナランは正式名称を月光機関車といい、こちらもまた月の光を魔導石に込めたものをエネルギーとした機関車である。


 ルナランに揺られて二時間。駅で降りて二十分ほど歩いて家に着くころには、日付が変わろうとしていた。


 入り口の門を開け、集合住宅(アパルトマン…)の一室に入る。ずいぶんがらんとしていた。結婚のためにものをかなり処分したからだ。がらんとした部屋の真ん中で、ぺたりと座りこんで、手元の調査結果に目を落とす。


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 シュシュ・フラマン氏 調査結果


 《本人》シュシュ・フラマン


 幼少期は母と二人で貧しい暮らしをしていた。母親が仕事をしている間、一日中図書館にこもっていたとされる。

 母の再婚後、大学まで進学。大学では優秀な成績を収めている。論文の受賞歴などを考慮され、現在は国立魔導研究所職員。


 《母》リリ・フラマン


 幼少時に母の幼馴染であるリーザ・ブランの養女となる。

 実の娘のように育てられたが、義姉ロージーの婚約者を誘惑し、出奔。

 シュシュを出産。

 のちに現夫である資産家のフラマン氏と再婚し、一男一女をもうける。


 《祖母》クク・ラボリ


 幼少時に母を亡くし、貧民街に身を寄せる。素行不良。

 娼婦として生計を立てていたと思われる。

 客の子を身ごもり出産したが、男に逃げられ、幼馴染の嫁ぎ先に生まれたばかりの娘を捨てて行方不明に。


 《曾祖母》ミュミュ・ラボリ


 チュチュ・コスメーアの娘。父親不明。母チュチュが開いた洋服店を大きくした。仕事上でもパートナーだった夫と離縁したのち、暴動に巻き込まれ、子供をかばって死亡。


 《高祖母》チュチュ・コスメーア


 コスメーア男爵家長女。学園時代に王太子であったリグレット・ルヴィ・プリュイレーンを誘惑し、第二王子に毒を盛っている。処刑予定だったが、リグレットに逃された。子供を育てながら洋服店を切り盛りした。若くして病死。

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 東の空が白んできたのがわかった。地の端から少しずつ明るくなってきて、日の出前後には、空が美しい桃色に染まることがある。


「シュシュちゃんの目の色みたいで綺麗ね」と昔母親が言ってくれたので、私は明け方の空がいちばんに好きだった。眠さと涙でしょぼしょぼしている目をこすり、私は顔を洗った。


 冷蔵庫の中身はほとんど空っぽで、卵ときのこしか入っていない。お湯を沸かしている間にきのこを薄切りにして、スープの素と、調味料ときのこを入れて煮る。最後に卵を流し込む。


 これは、母が子どものころから作ってくれていた、泣きたいときのスープ。


 ひとくち食べると、それまでの地に足がつかないような、ふわふわした怒りが収まってくるのを感じた。もう終わったことなのだ。


 レックスにもらったプレゼントもすべて集めて、見ないようにして袋に詰める。

 部屋の前に出しておけば、回収部屋に自動収集される仕組みになっているので、そうしてどんどんものを捨てていく。それから美容院の予約と、上級学校の資料請求を終わらせて、私は倒れ込むように眠った。








 連日続いている重たい雨が、秋を連れてきたようだ。目の前には、きらきらと夜空に輝くようにそびえ立つ、巨大な駅。駅周辺の建物たちが放つ美しい光を反射して、きらきらと輝いている水たまりを眺める。


 ついこの間まで半袖のワンピースでも汗ばむくらいだったというのに。空と空をつなぐ月船の停車場所なのだから、当たり前なのだけれど、そこは高度があり、空気が薄く、そして地上よりさらに気温が低い。


 ──そう考えて、ふと、以前もこんなことを考えたなと苦笑した。



 私がここにやってくるのは実に二年ぶりのことだった。

 すっかりふっきれたつもりでいたのだけれど、胸の下あたりが熱く、鈍く痛む。思わずぐっと力を込めて押さえた。あのときは長く伸ばしていた髪も、あれからずっと短いまま。髪の毛は水色に染めて、地毛のミントグリーンを隠した。母譲りの桃色の瞳には、度が入っていない魔眼(コンタクト)をつけて、オッドアイだとわからないようにしている。


 私は今日、職場のトップである女性に、あの曰く付きのレストランへ呼び出されていたのである。要件にはさっぱり心当たりがなかった──。




「では、こちらで失礼いたします」


 うやうやしく頭を下げる男性の声に現実に引き戻される。


 慌てて会釈をすると、壮年の男性は穏やかな笑みをたたえ、ぼうっと月光のように控えめな光を放つ浮遊車(ルナ・マシーナ)へと戻っていった。


 前回は二時間以上もかけて、首都の外れのアパルトマンからやってきたのだが、今回は指定された時刻に迎えがあると言われていた。この時間に出たら夕食どきには間に合わないのでは、と心配しながらドアを開けて驚いた。


 目の前に、庶民が一生かかっても乗ることはないだろうと言われる浮遊車(ルナ・マシーナ)が停まっていたからだ。この国の技術は発展し続けているが、浮遊車(ルナ・マシーナ)はその最先端である。


 月船の技術をコンパクト化し、空に透明な道を作りながら走行するこの車は、動かすだけでも膨大な魔力量と、精密なコントロール力が必要なのだという。


 浮遊車(ルナ・マシーナ)は、まるで体に誂えたかのようなふわふわの座面で乗り心地が良いのだが、外の景色は驚くほどのスピードで吹き飛んでいき、気がつくと海の上にいた。そこから海面を蹴るようにして、一気に浮上する。どんどん街が小さくなっていく。


 そして私たちはいくつもの雲を抜け、空のずっと上、魔道具を使って強固に固められた雲の上にたどり着いた。その上にさらに高くそびえるのが首都空中駅だ。前回来たときは、地上と空中駅をつなぐ昇降車を利用したから、こんな角度で駅を眺めるのは生まれてはじめてだった。



 嫌な思い出と、親切にしてもらった思い出が混在するレストランにたどり着き、一度大きく息を吸い込み、吐き出してから扉に手をかける。扉は内側からゆっくりと開き、清潔感のある身なりをした男女に迎えられた。


「オーナーのミリアはあちらでお待ちです」


 室内は薄暗い。前回来たときとずいぶん様子が違うので驚いていると、奥の席だけほのかに照らされたように明るくなっており、周りの席には誰も居ないのであった。


 室内が暗いせいで、大きく取られた窓の向こうに、宝石箱のような空中都市が映し出されていて、泣きたいくらいに美しい。


「いらっしゃい、シュシュ」


 落ち着いた、しかし柔らかな声が私をいざなった。奥の席で私を待っていたのは、私が勤めるアウトリーフ国最大の出版社、フェプラウダ社の会長であった。





「ミリア会長、あの、ほかのお客さまは……」


「ふふ、今日は貸し切りにしたの。この店、実は私がオーナーなのよ」


 知らなかった事実に驚く。



 ミリア・オパルス会長は、"大陸の解放王"の娘だ。


 アウトリーフ大陸にある3つの王国を生涯かけて統一し、身分制度をなくしたとされているミューゼット王。幼いころから神童と呼ばれていた彼は、ほんの数十年の根回しでほとんど衝突なく大陸統合を果たした。


 ミューゼット王は、王として得ていたすべてを放棄。

 平民となり、王時代に投資で増やしたという個人資産を使ってフェプラーダ社を立ち上げる。


 残念ながら商才はあまりなかったようで鳴かず飛ばずといった業績だった。


 しかし、フェプラーダ社は、娘のミリア会長が後を継いだ途端、飛躍的な成長を遂げた。今では大陸一の出版社となり、ミリア会長は女傑として他大陸にまでその名を轟かせているくらいだ。

 彼女の手腕を思えば、王都一のレストランを経営していても不思議ではない。




「それでね、今日あなたを呼び出すのに仕事を言い訳にしたけれど……本当はうそなの」


 ミリア会長は、こてりと首をかしげた。


 彼女は今年で七十五になるが、年齢を感じさせない少女らしさを持ち合わせている。髪の毛は潔く真っ白で、身にまとうドレスもシンプルで上質だが、なぜか若々しく、可愛らしい。


「今日は、秘書としてのあなたではなく、シュシュとしてのあなたにお願いなのよ。お見合いをしてほしいの!」


「お、お見合いですか?」


 驚きすぎて声が裏返ってしまった。ミリア会長はくすくす笑う。それから姿勢を正して私のほうへ向いた。


「わたくしの娘時代でいう、いわゆる政略結婚ね。昔は当たり前だったことで、今の若いあなたからすると古くさい習慣かもしれない。でもね、良い面もあったのよ? 確かな相手を紹介できることが多いのだから」


 ミリア会長の"確かな相手”という言葉に、二年前ここで起きたことを思い出し心臓が嫌な音を立てた。


「あなたに紹介したいのは……わたくしの孫なの」


「孫というと、まさか……」


 私が驚いてぽかんと口を開けていると、ミリア会長はいたずらが成功した子どものようにおどけた表情でころころと笑った。


「そう。グリハルト・オパルス。最近社長に就任した、青二才のわが孫よ。──グリちゃん、そこにいるんでしょう?」


 厨房から前菜とスープを運んだ給仕がやってきた。しかし、その容貌が異様に整っていることに気がつく。月光のような銀色の髪に、菫色と雨色のオッドアイ。背が高く、がっしりとした体つきの美丈夫。


 秘書課の女性たちが皆熱を上げているグリハルト・オパルス社長が、はじめて見る柔らかな顔で苦笑していた。

「グリちゃん」とコミカルに呼ばれながら。





「おいおい、ばあちゃん。グリちゃんはないだろう。俺は来年で三十だぞ」


「ふふ、うちの孫、顔だけはいいでしょう?」


 ミリア会長は、彼の言葉が聞こえなかったかのようににこにこと祖母の顔をした。それから私の手をそっと包み込み、「あなたも孫になってくれたら、私はうれしい」と囁いてくれた。


「では、あとは若い人とお二人で」


 ひらりと身を翻すと、ミリア会長はヒールの音をこつこつと鳴らして出口へ向かっていく。


「か、会長……!」


 すがるような私の声に、ミリア会長は振り返ると、にっこりと笑った。色素の薄い瞳が、シャンデリアの光をゆらゆらと灯しながらこちらに向けられる。


「シュシュさん、あのね、私、可愛いかわいい孫に紹介してもいいと思っているくらい、あなたのことを”確かな人”だと思っているのよ! それを忘れないで」





「祖母がすまないな」


 グリハルトは苦笑しながら、スープと前菜を洗練された手つきで並べ、私の前、先ほどまでミリア会長が座っていた席に腰を下ろした。


「だが、求婚の件に関しては、俺も同意している」


 驚いてぱっと顔を上げる。


「おや、やっと目が合った」


 グリハルトはくつくつと笑った。私は頬に熱が集まるのを感じた。彼のような美しい男性を見たことがなくて、どうしても目を合わせることができず、形の整ったくちびるに視線を落としていたのだ。


「でも、どうして私を……」


 そもそも、フェプラーダ社のような国内随一の会社に私が入社できたこと、それもミリア会長の秘書として働いているのも奇跡のようなものなのだ。


 母が再婚してからは、義父となる人に学ぶ機会を与えられたから、学問に関しては自信をもって努力してきたといえる。とはいえ、傾国の悪女を祖先に持ち、代々トラブルの絶えない複雑な家庭環境なのだから。


 二年前、この場所で婚約破棄をされたとき。押し付けられた調査結果を見るべきではなかった。あれは、私の心を完全に折った。

 チュチュ・コスメーアのこともショックだったけれど、何よりも、いつも優しかった母が、育ててくれた家の義姉から婚約者を奪っただなんて──。


 納得できずに、自分でも人を雇って調べたところ、入手したその男性の「現像人形(3D投影写真)」は、私と同じ、珍しいミントグリーンの髪をしていた。垂れ目がちなところもそっくりで、認めざるを得なかったのだ。


 そのときから、まるで砂時計の砂が落ちていくかのように、私の心のなかにあったさまざまな綺麗なもの──愛情だとか自信だとか、そういうものが失われていくのを感じていた。


 今のこの髪色も、少年のような短髪も、水色の魔眼も。すべてはひび割れた心を守るための鎧のようなものだった。






 ミリア会長によってグリハルトと引き合わされてから、一年が過ぎようとしている。


 私は、ますます自分のことを嫌いになりつつあった。それは、彼と会うたびに。



 つい先日までうだるような暑さだったかと思えば、いつのまにか涼しい風が吹き抜ける季節になっていた。

 私たちは首都郊外の森で、ピクニックを楽しんでいた。


「ここは豊穣の森と呼ばれていてね。ひと昔前は神域として扱われていたそうだよ」

「神域……ですか?」

「ああ。世にも美しい、金髪の女神と銀髪の男神が住んでいたとね。解放王は、王家としての財のほとんどを手放したそうだが、この森だけは手元に残した。ここは秘密が多すぎて、他に出せなかったんだよ。

 そして、今は俺が森番を引き継いでいる」


 グリハルトはなんてことのないようにそう言い、木陰に敷物を広げた。私はバスケットからスープジャーとサンドイッチを取り出し、紙製の皿を並べていく。




 敷物の上に、さわさわと揺れる木の葉が影を落として、とても美しい。


「デザートにさ、甘いのも作ってきたんだ」


 社長としての彼を見ていたから意外だったのだけれど、グリハルトはとても料理が上手だ。簡単なものだけじゃなく、レストランで出てくるような本格的なものまで作っている。


 彼と休日を過ごすようになってずいぶん経ったけれど、家に招かれて、十時間ほどかけて仕込んだごちそうを振る舞ってくれることもあった。


「これはね、シンプルだけどうまいよ。今ばあちゃんが気に入ってるの」


 差し出されたのは二色のペーストを挟んでくるくると巻いたサンドイッチだった。渦巻き状になった断面が見えるように、ひとくちサイズにカットしてある。


「何個かあるんだけど、食べてみて」


「これは、ジャム?」


「そう。あとピーナッツバター」


 寒くなってきたからか、濃厚な甘さが沁みた。


「ピーナッツバターはマストでさ、ジャムの2倍くらい。ジャムはなんでもいいんだけど、ブルーベリーといちごにした。寒くなってくるとこういう甘くて、濃厚なのが食べたくなるよな」


 そう言うとグリハルトは、小さく切ったサンドイッチを口に放り込み、目を細めて笑った。

 ふだんのクールな印象からは意外なほど、その表情は少年のようで、可愛いと思った。




 それから私たちは他愛のない話をした。彼はぼんやりと森の奥に立つ小屋に目をやっている。その表情に、どきりと感情が揺さぶられる。──そして、自己嫌悪でいっぱいになる。


 さらりとした銀髪は、細く柔らかい質感で、秋のはじめにしとしとと降り注ぐ糸の雨のようだ。やや女性的な美しさのある顔の中でも、特に目を引くのは、あまり見られない色の瞳。片方は薄い水色で、もう片方はすみれのような色をしている。


 伝承にある男神は、きっと彼のような──。そこに思い至って、腑に落ちる。そうか、()()()()()()()()()()と。




「あの、今後は……」


 私が言いかけると、彼はにっこり笑って「来週は、ばあちゃんが美術館に行こうって言ってた」と先回りをする。


 いつもこうして次の約束をしてくれる。自分でもわかっている。グリハルトにひどく惹かれていた。だから、断れない。断りたくない。


 でも、彼とだけは。グリハルトとだけは結ばれるわけにはいかないのだ。だって彼は。






 私の様子に思うところがあったのだろう。グリハルトはくしゃりと寂しそうに笑って、いつものように胸元から小箱を差し出した。その中には、彼の瞳の色の指輪が入っている。


 細身の指輪だ。そして二粒の宝石がついている。一つは楕円形で空色。もう一つは小粒の菫色。グリハルトの瞳と同じ、美しい二色だ。


「なあ、そろそろ頷いてくれてもいいんじゃないか?」


「いえ、だって私は……」


 私はいつも、その指輪を受け取ってしまいたい気分になる。──でも。


「悪女の系譜だから、か?」


「……!」


 その言葉に、全身から力が抜けていくのを感じた。


「ええ、……そうです。調べたんですね」


「いや、違うんだ。……結果的には、祖母が君の現状を調べることにはなったが、それは身辺調査をするためじゃない」


「いいんです、慣れてますから」


 私はそう言って自嘲した。嫌な女だなあと、また一つ自分のことが嫌いになる。グリハルトは私の両肩をそっと支えるように掴んだ。


「違うんだ。君は、祖母の恩人の家系なんだよ」


「恩人……?」


「ああ。何から話したらいいのか……。まず、あの夜、──君が首都天空駅のレストランでひどい言われ方をしていたとき。祖母と俺もその場で食事をしていたんだ」


 はっとする。そういえばあのとき、デザートを私にごちそうしてくれた老婦人がいた。そして、運んできてくれた方が、とても整った顔をしていて──。


「……あまりにひどい暴言だった。母親の影に隠れるようにしながらも、君を見て名残惜しそうにしているあの男に腹が立った」


 グリハルトは、忌々しげに言った。その表情に嘘はないように思えた。


「うまく説明はできないんだが、俺は本当は、あのとき君に声をかけるつもりだった。今考えると、そんなことをしても困らせるだけだと思う。でも、なぜか居ても立っても居られなくなって……。だが、できなかったのは、祖母の様子がおかしかったからだ」


「会長の様子が? ご病気があるとか……」


「泣きそうになっていたんだ。君を見て。声をかけるか迷っていたのだと、あとから聞いた。デザートを贈ったものの、直接声をかける勇気はそのときなかったのだと」


 俺と同じだと、グリハルトは苦笑する。


「君の曾祖母に当たる人が、恩人なんだと聞いた。祖母は昔から恩人の子を気にかけていたのだが、気づいたら行方不明になっていてね。君は顔立ちも似ているそうだし、あのいけ好かない母親が喚き散らした来歴もある。だが、何よりその名前を聞いて確信したそうだよ」


「名前?」


「そう。君のシュシュという名前。君の家系では、女性に"くり返す音”の名前をつけるのだそうだ。あまりない名前だろう? 祖母の恩人は、ミュミュという女性だったそうだ」


 シュシュじわじわと不思議な感情が広がっていく。


 ミュミュ・ラボリ。私の曾祖母は、悪女であるチュチュ・コスメーアの娘だ。父親は不明。


「暴動に巻き込まれて亡くなったとか……」


「──彼女が亡くなったのは、祖母を庇ったからなんだ」


「え?」


「祖母はそれを負い目に思っている。今わの際に、子どもをよろしくと託されたそうなんだが、まだ祖母自身が子どもだった。情勢も不安定で、ようやく迎えに行ったときには、もう……」


 グリハルトがうつむく。


「ミリア会長の恩人が私の先祖にいるわけなんですね。でも、だからといって、社長が私に縛られることはありません……。もう恩義とかいう時代でもないじゃないですか」


「すまない、話の順番が良くなかったな」


 グリハルトは慌てたように手を振った。


「違うんだ。恩義とかじゃなくて。──この求婚は、俺が望んでしているものなんだ」


「え?」


「最初に感じたのは、気の毒だということだった。だが、仕事で君と再開し、その人柄に触れ、とても気遣いのできる女性なのだと知った。

 俺は、君をずっと口説いてきたつもりだったんだが、君は驚くほど気づいてくれなかっただろう? だから、祖母に頼んで、機会を設けてもらったんだ。──本当は今すぐ承諾してもらいたいが、まずは、君に男として見てもらえたら……。それだけでも、俺にとっては第一歩なんだ」


「社長……。でも、……それでも私はお受けできないんです」


「まだ家系のことを気にしているのか? 俺も、祖母も、そんなことは気にしない」


 グリハルトは、困ったように頭をかいた。風が吹いてきて、銀色の髪がさらりと揺れる。珍しい銀の髪。


「でも、いくらなんでも……プリュイレーン王家の末裔の方に嫁ぐことなんてできません。私の祖先が罪を犯して、あなた方の歴史を変えてしまったかもしれないんですもの」


 私はそう言い切った。





「……参ったな。君、知っていたのか」


「公然の秘密です」


 私の高祖母、チュチュ・コスメーアは、プリュイレーン王家に罪人として扱われていた女だ。いくら時代が変わったといっても、──自分の系譜を知ってしまった今の私には受け入れられなかった。


「血筋って、そんなに大事なことだろうか。

 君は、祖先の罪を気にしているようだが、それなら俺もプリュイレーン王家にまつわる秘密を教えよう」


 グリハルトは、真剣な顔をして言う。


「そこの奥に、古い屋敷があるだろう。あそこにはね、二千年ほど前になるだろうか。大魔術師とその妻が住んでいたんだ。魔術師はプリュイレーン王家の祖先の一人だ。子がいないので俺の直系ではないが。でも、その妻はね、罪人だったんだよ」


「罪人……?」


「そう。もう故国を滅ぼした魔性の女だ。彼女も気の毒な身の上でね。魔族に操られて、自分を失っていたんだ。たくさんの人間が死んだ。

 彼女は魔術師と結婚したが、子を持たず、親のない子どもたちの支援をして生き抜いたそうだよ」


「……」


 私は、どうしていいかわからなくなった。グリハルトへのこの気持ちは、間違いなく恋だとわかっている。でも、どうしても踏み出せない。


「ふふっ」


 グリハルトは呆れたように笑いをこぼした。


「シュシュ。君は本当に頑固だな。でも、俺も譲れないものがあるんだ。君が俺を嫌いだから結婚したくないというなら引こう。でも、そうじゃないだろう?」


 グリハルトは、私の手を握った。温かくて硬い、男の人の手だった。雨色の瞳と菫色の瞳、どちらも木漏れ日をちらちらと反射しながら、私の底を見透かすようにこちらを見ている。


 私は恥ずかしくなって、視線を落とした。けれども彼はそれを許さなかった。私の頬に手を添えて、そっと彼のほうを向かせた。


「調べようか。君が納得いくまで」


「……わが家の系譜は把握しています」


「それは、目に見える事実だけだろう? 案外、歴史の裏にはわかってないことが多いものだ。──これはね、プリュイレーン王家に伝わる魔道具なんだよ」


 グリハルトは、指輪の宝石を指さして言った。


「さっき話した魔術師が、祖先のために作ったらしい」


 宝石は、よく見るとその中に夜虫(ホタル)のような光を宿している。


「本来は后を守るためのものだが、別な使い方もできる。対象者である君の魔力と、解放者である僕の魔力があれば、まるで過去に戻ったかのように、すべてを見て、聞いて、知ることができる」


「私に魔力なんて……」


「使わなくなっただけで現代人にもあるから大丈夫だ。早く手を」


「待って……!」


「もう待たない。そう言ったはずだよ」


「でも……」


「大丈夫。俺がそばにいるから。どんな過去だったとしても、絶対に君を諦めない」


 どうしてだろう。私はそのとき、この人を知っているような気がした。もっと、ずっとずっと前から。


 気を抜いた一瞬のうちに、グリハルトは私の指に、指輪をはめてしまった。私たちは光に包まれた。森が溶けるように消えていく。その中で、震える体を強く抱きしめるぬくもりだけが残っていた。





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 リコリスは、バルコニーで外を眺めていた。

 ぼつぼつと鈍い音を立てて、雨粒が落ちている。暗くて暗くて、そして寒い夜だ。

 豊かに波打つ真っ赤な髪の毛の美しさは、宵闇にまぎれて今はわからない。


「カーマイン嬢」


 チュチュの手を掴む力がぎりりと強まった。チュチュは隣に並んだリグレットを潤んだ瞳で見上げた。リグレットの金色の髪は乱れており、いつも穏やかな光を讃えている"王族の雨の瞳(レイン・アイ)”には怒りが燃えていた。


 彼は一瞬、チュチュに目をやると、いたわるような表情をして、うなずく。そうしてまたリコリスに対峙した。


 リコリスは動かない。肩が震えているようだ。チュチュはぞっとした。──あんなことをしておいて、嗤いをこらえているのだ。




「……カーマイン嬢っ」


 リグレットが痺れを切らしたように、やや乱雑な口調で言った。いつでも品行方正な彼からは考えられない焦りが滲んでいた。


 リコリスは、ようやくけだるげにこちらを見た。


 緑色の目にじいっと見据えられ、私はびくりと肩が震えた。あの人の、あの目がずっと怖かった。吊り目がちなこともあいまって、まるで夜に溶け込んだ猫のように容赦なく光って見えて、いつもよりさらに恐ろしい。


「なんでしょうか、殿下」


 リコリスは口の端を吊り上げた。ぽってりとした艷やかなくちびるが弧を描く。


 リコリスは豪奢な金色のドレスを身にまとい、堂々とした雰囲気だ。チュチュは、自分が着替えもせずにここにいることを思い出し、ますます目がうるんでいくのを感じた。せめて涙はこぼすまいと、少しだけ顎を上げた。


 リコリスは、不快げに目を細めた。


「……君との婚約を、白紙にさせてもらう。直に兵が来るだろう。大人しく牢で沙汰を待つがいい」


 吐き捨てるようにそう言ったリグレットは、リコリスの婚約者である。

 公爵令嬢の彼女と、王太子であるリグレットとの政略結婚は、彼女が生まれたときに取り決められたもの。


「……君には本当に失望した」


 リグレットがこぼした。彼はくちびるをくっと噛み、リコリスに侮蔑のこもった視線を投げつけてきた。


「君はチュチュに、いや、──私に何をしたのか、わかっているのか?」


 チュチュは彼を見上げた。リグレットの穏やかな湖のような青い瞳は、今は怒りに燃えていた。いまだに震えが止まらず、歯の根がかちかちと鳴っている。


「まあ、殿下。浮気相手のことを名前で呼んだこと、お気づきでしょうか?」


「なっ……」


「そもそも、非難されるべきはあなたではなくて? わたくし、何度も学園内で注意しましたのよ。そちらのコスメーアさんに。婚約者のいる殿方との距離にはお気をつけなさいと」


「それは……っ」


 チュチュが涙ぐみながら言いかけたが、リコリスは「目撃者ならたくさんいますわ」と封殺した。


「とにかく、君との婚約は白紙にさせてもらおう。罪は償ってもらう」


 そのとき、バルコニーに兵たちがにじり寄ってきているのに気がついた。リグレットは心なしかほっとしたように表情を崩す。


「まあ! わたくしが罪を?」


 リコリスは口元を扇で隠したまま、声のトーンを上げた。


「なにも証拠がないのによく言えたものですわね。……婚約破棄、謹んでお受けいたします」


「なっ」


 予想外の返答だった。リグレットは呆然としている。チュチュは目を伏せたまま、弟たちの名をつぶやいた。


「ちょうどよかった。君たち、彼女を牢へ」


 リグレットは意を決したように、後ろの兵たちに告げた。しかし、兵たちは、困惑した雰囲気はあるものの、それには従わない。何かがおかしい。リグレットもチュチュも、そのとき初めて気がついた。


 自分たちはまるで毒蜘蛛のような彼女の糸に捕らえられていた。それを断ち切れると思ったのだが、本当にそうだったのだろうか。




「──捕らえられるのは、兄上だ」


 兵たちの列が波を割るように左右に分かれ、堂々とした様子で歩を進めてきたのは、第二王子であるサーティスだった。


「サーティス……?」


「殿下……!」


 リコリスは耳の端を赤く染め、いつもより柔らかい声色で言った。サーティスは兄とその恋人の横を通り抜けると、リコリスを守るように背に庇った。


 リグレットは驚きながらも、チュチュを守るように庇ってくれている。サーティスは、虫を見るような視線をチュチュに投げかけた。


「その女も捕らえろ。そっちは地下牢でいい。兄上、リグレット・ルヴィ・プリュイレーン。あなたはもう王太子ではない」


「サーティス、貴様……」


「兄上、その毒婦に唆されたとはいえ、僕に毒を盛るなんて……。父上も大変お怒りだ。……残念です」




 リグレットははっとしてこちらに手を伸ばした。チュチュもその手にすがるように手を伸ばした。でも、二人の手が触れ合うことはなかった。


 兵たちに引き剥がされるようにして、リグレットが連れて行かれるのを、彼と反対方向に引き立てられながら見ていた。


 雨と闇の中で、リコリス・カーマインが嗤っている。目も口も三日月のようにして、それまで培ってきた淑女の笑みとは異なる醜悪な笑みをチュチュに向けていた。




 チュチュ・コスメーアは、貧乏男爵領の長女として生を受けた。

 父が病に倒れ、家族で協力しながら領地の仕事をしていたが、十五歳になったのをきっかけに王都の学園に入学することとなった。


 家族を助けるために進学はしたくないと訴えたが、両親とも「これからは女性も学問を身につけたほうがいい」と言って引かなかった。


「君が大人になるころは、もしかしたらまだ不要かもしれない。でも、これから何十年先もそうなのだろうか? 学ぶことは、生きることだ。今すぐには役に立たなくても、君にとって大切な何かを得られることは間違いない」


 父の話は抽象的でよくわからないことも多かったが、家族に押し切られる形で学園に入学した。


 学園には男爵家の娘はあまりおらず、ほとんど身分が上の生徒ばかりだった。だから、あまり楽しいとは思えなかったが、それでもチュチュは、両親に言われたことを自分なりに解釈して、勉強に打ち込んだ。


 そうして何度目かの試験で、首席を取った。




「君、努力家なんだね」


 張り出された試験結果に驚き、立ち尽くしていたチュチュに声をかけてくれたのは、この国の王太子リグレット・ルヴィ・プリュイレーンだった。柔らかな金髪に、薄い雨色の目をした、まさに王子様といった風貌の人だった。


「僕も気を引き締めなければ」


 それだけ言うと、リグレットは去っていった。





 その翌日、チュチュは人気のない学園の裏庭に呼び出されていた。

 目の前に立っているのは、リグレットの婚約者であるリコリス・カーマイン。炎の公爵家と呼ばれるのにふさわしい、豊かな美しい赤毛の美女だ。


 チュチュは青ざめた。昨日、リグレットと会話をしたことを咎められるのだろうかと身構えた。だが、現実はもっと無情だった。


「今日呼び出したのはね、あなたを叱るためではないのよ。あなたには、もっともっと殿下にお声がけしてほしいの」


 意外な申し出にきょとんとする。


「肩や手に触れてくれてもいいわ。殿下に会うたびにお声がけしてくださる?」


 リコリスは口元に手を当て、こてりと首をかしげる。


 猫のように吊り上がった新緑の瞳が美しい。その目は、数代前の王様と同じ色をしている。カーマイン家には、当時の王妹が降嫁しているからだろう。


 王家に生まれる子どもたちは、リグレットのような"雨の瞳(レイン・アイ)”か"森の瞳(フォレスト・アイ)”を持つことが多いのだという。比率としては森の瞳のほうが多いのだろうか、第二王子のサーティスや現王も森の瞳を持っている。

 そしてリコリス・カーマインは、森の瞳を引き継いでいるのだ。


「……カーマイン様のような立派な婚約者がいらっしゃるのに、そのようなことはできません」


 言葉を選びながら言った。しかし彼女は、目を細めて、獲物を仕留める猫のように嗤った。


「おまえに選択権などないわ。ハロルドとアンドレだったかしら? おまえの故郷の弟たちがどうなってもいいの?」


「……!」


「どうする? やるの? やらないの?」


 彼女が言ったように、チュチュには選択権などなかった。


 チュチュは、彼女に言われたように、王太子リグレットを見るたびに駆け寄り、声をかけた。彼を持ち上げ、褒め称え、体に触れた。


 夕方、寮に来るリコリスの子飼いの女子学生にその日の行動をすべて報告する。嘘をついたこともあったが、ばれてぶたれた。


 それだけなら耐えられたが、次に嘘をついたときは、髪の毛が送られてきた。コスメーア男爵家の色。桃色の、まだ柔らかい子ども特有の髪の毛。


 家族に手紙を出すと、ちょっとした事故で髪の毛が一房切れただけだと返ってきた。




 もう反抗することはできなかった。だんだんと感情が死んでいくのを感じた。成績もどんどん落ちていく。


 それに、許されない想いを抱いてしまったこともチュチュを苛んだ。


 リコリスに命じられてリグレットに近づいたものの、彼はチュチュにほだされることもなければ、チュチュを蔑むこともなかった。つかず離れずの、同級生として、友人としての適切な距離を保っていた。


 チュチュが体に触れれば自然と離れる。拒絶せずに恥をかかせないようにしてくれているのだとわかった。声をかけると、周りの男女を巻き込んでくれるので、一緒にいても問題がなかった。


 そして何より、彼と一緒にいるときは、同級生たちとさまざまな実のある話ができた。領地にいては得られない学びがあった。そのときだけは死んだはずの感情が生き返った。

 学ぶことの楽しさを思い出した。


 リグレットには王の資質がある。彼には、周りを巻き込む、渦のような強さがあるのだ。

 その光のような強さに焦がれるには時間がかからなかった。


 どうしてリコリスはこんなにも素敵な人に自分をけしかけているのだろう。リグレットと離れたいのだろうか。──もし自分が公爵令嬢だったなら、彼女の立場になれたのだろうか。そんな、馬鹿げたことを想った。






「君は、なにかに巻き込まれているんじゃないか」


 リグレットとチュチュは、王城の小部屋にいた。彼の侍女がつき、二人きりにならないように配慮してくれている。


「言いづらいと思うが、話してはくれないだろうか。彼女のことなら心配ない。僕と弟の乳姉妹なんだ」


「……いいえ、そんなことはありません」


 精一杯の笑顔を作って言う。


「君の行動には違和感がある。僕にすり寄っているように見えるが、目の奥には怯えが見て取れた。誰かに脅されているのではないか」


 彼はすでに知っているのかもしれないと思った。でも、くちびるが縫い付けられたように動かない。


 リコリスは彼の婚約者だ。そんな大事な相手よりも、ただの同級生に過ぎない自分の言葉を信じてもらえるとは思えなかった。


 それにリコリスの目的もわからないのだ。伝えたことで、彼を巻き込み、危険な目に遭わせてしまうかもしれない。




「殿下、一旦休憩なされては?」


 リグレットのそばに控えていた侍女が、柔和な笑みを浮かべて言う。


「果実水がありますよ。少し落ち着いてからお話されたほうがいいと思います。そちらのお嬢さんも緊張してしまっていますし」


「ああ、そうだな」


 リグレットは、侍女から受け取った果実水を一気に飲み干した。侍女はチュチュにも果実水を手渡す。


「では、一度こちらを下げて参りますね」


「おい、二人きりになっては彼女の醜聞に……」


 扉が閉まる。リグレットの様子がおかしい。彼はぶるぶる震えながら「飲んではいけない」と言った。口元を押さえている。


「で、殿下……」


 慌てて近寄る。チュチュよりもずっと背の高いリグレットを見上げると、彼の瞳が、"王の雨の瞳”が、真っ赤に光っていた。


「ダメだ、──離れろ、チュチュ」


 リグレットが頭を押さえる。静かになった彼に近づくと、リグレットは、チュチュのドレスに手をかけた。







 その日は夜会だった。


 チュチュは、母が古着を手直ししてくれたコスモス色のドレスを身にまとっていた。母は刺繍の名手で、チュチュ自身も母の仕込みのおかげで腕に覚えがある。


 もとはシンプルなドレスだったのだが、母がこつこつ刺繍をしてくれて、裾から上に向かって美しい花の模様が繋がっているのだ。領地の夕方の風景を思い出す。野原一面に咲く、愛らしいピンク色の花。


 腰のあたりをリボンで結んでいるのだが、そこにもじゃまにならない程度に刺繍が入っている。また、リボンの下からはチュールを重ねてふんわりとさせてある。チュールには、一つひとつ手縫いで作った刺繍花が縫い付けてある。


「あなたは愛らしい顔をしているから」


 そう言って、可愛く作ってくれた自慢のドレスだった。


 気がつくと、花びらが散らされたように、チュールについていた花が床に散らばっていた。ドレスの胸元ははだけ、ところどころ破れていた。






「──きゃああああ」


 叫び声が上がって見ると、侍女が戻ってきていた。


「どういうことだ」


 苦しそうに息をしながら、リグレットが侍女に詰め寄った。


「これには、"魔女の獣”が含まれている。獣化する禁呪薬だぞ。一切の理性が吹き飛ぶ」


「あ、あの……」


 侍女は、詰め寄るリグレットを見て涙を浮かべた。


「私は、リコリス様から渡されただけなのです。お疲れのようだから飲ませてあげてと。ひとくち、移して毒見も済ませました……!」


「まさかグラスのほうか? リコリス……っ。……やはりそれが君の本性か」


 リグレットの瞳から光が消えた。


 目を開けたチュチュに気がついたのか、彼ははっとしてこちらを覗き込み、チュチュに触れようとして、ぐっとなにかをこらえるように手をどけた。


「──君が。清め、整えてやってくれ」


 侍女にそう指示する。チュチュはただぼうっと、天井を見ていた。夢の中にいるように、現実味がなかった。

 リグレットは何度も「すまない」「どう償えばいいんだ」と謝り続けていた。



 どれくらい時間が経ったのだろう。彼は「あの女のところへ行く」と立ち上がった。

 チュチュは、よろよろと体を起こして、リグレットの裾を引いた。手伝ってもらい、なんとか歩きはじめる。


「僕に触れるのが嫌ではないのか」


 チュチュは首を振る。


「……すまない」


 リグレットはまた謝った。






 まさか、こんなことになるなんて。

 チュチュは、血と黴のにおいがする床に横たわっていた。


 石の床はきんと冷えている。地上との境目にあるだろう小さな窓から雨水が流れ込んできていた。目を閉じて、外の音に耳をはせる。雨音はだんだん強くなっていくように思えた。


 もうすべてがどうでも良かった。

 つい先ほど、ここにリコリスがやってきて、また三日月のようににんまりとした昏い瞳を向けて、言ったのだ。


「そうそう、あなたの弟たち、死んだわ」

「え……」

「いつだったかしらね? ええと、もう半年くらい前のことよ」


 口元に指を当てて、リコリスが言った。


「まさか、あの髪は」

「そう! そのときにね」

「手紙は?」

「代筆させたに決まっているでしょう? 実家からの手紙さえ入手できていれば、真似ることなんて容易いのよ?」


 そんなことも知らないのと言うように、彼女は首をかしげる。




「あなたは、サーティス殿下を慕っていたのですか」


 チュチュは尋ねた。


「いいえ?」


 語尾を伸ばすようにして言う。


「でも、リグレット殿下のことは嫌いではなかったのよ?」

「それならどうして私にあんなことをやらせたんですか」

「だって、私以外に目を向けるなんて許せないじゃない?」

「え……」


 チュチュは言葉を失う。


「ほら、あなたが首席を取ったとき。まだ貴族の社交ならわかるわ。でも、下級貴族のあなたを目に入れるなんてひどい裏切りだと思わない?」

「努力をほめていただいただけです」

「それでも無理。わたくし、潔癖なのかしら? あの時点で、慕わしい気持ちなど一瞬で冷めたわ」


 目の前にいる女性が、同じ人間だとは到底思えなかった。


「あなたの処刑だけどね、明後日の予定よ。わたくし、優しいから、あなたに仕事の褒美をあげる。婚約破棄を手伝ってくれてありがとう」


「あ……」


 涙が後から後から落ちてくる。リコリスは満足そうに微笑んだ。それはそれは美しく。


「最後の晩餐として明日の夜はとびきりの料理を出してあげるわ。──あ、もちろん毒なんて入っていないわよ? 公爵家の料理人に腕をふるわせるから、楽しみにしていてね」


 歌うようにそう言うと、リコリスはにんまりと嗤って姿を消した。


「明後日……」


 処刑される。今考えると、あの侍女も仲間だったのだろう。

 リグレットとサーティス、二人の王子の乳姉妹と言っていた。彼女もまた、リグレットではなくサーティスを選んだということだろうか。


 涙が後からあとから、雨のように流れ続けて、床に溜まった水たまりに合流していった。






 それからどれくらい経ったのだろう。チュチュは、誰かに体を揺さぶられて目を覚ました。


「ひっ」


 縛られたまま、思わずじたばたともがく。


「……お静かに」


 目の前にいるのは、あのときの侍女だった。チュチュを殺しに来たのだろうか。


「なんで私が来たのかと思っているんでしょうね」


 侍女の表情は、闇に紛れてよくわからない。その声は、わずかに震えている。


「私は、リグレット様を裏切り、サーティス様につきました。彼を愛していたのです。──愚かでした」


 チュチュが何も言えずにいると、彼女は気にしたふうでもなく続けた。


「私も男爵令嬢なんですよ。あなたと同じ。殿下とは、身分が違うのに……」


 こんなときだというのに、妙に共感してしまった。そして、身分という言葉が、深く胸を切り裂いていくのを感じた。


 チュチュは、知っていた。

 リグレットは多分、自分に好意を寄せてくれている。それがどの程度かはわからない。もし身分のない世界だったなら。チュチュとリグレットが、サティスとこの侍女が結ばれること可能性だって、わずかにあるのではないか。





 そのとき、一瞬だけ、月の光が差し込んだ。侍女の目には涙がぷっくりと盛り上がっていた。

 チュチュの視線に気づいたのか、侍女は手の甲で目をごしごしと擦った。


「私には泣く資格などない。──最後の仕事をもらいました。リグレット殿下が、あなたを逃がすようにと。裏切った私なのに、信じている、と」


「そんなことをしたら……」


「大丈夫です。リグレット殿下は処刑されたりしません。サーティス殿下はね、卑怯な方です。兄君に仕事を押し付けるつもりなのです。だから、リグレット殿下は死ぬまで幽閉されるでしょう」


「それなら、私の代わりに殿下を!」


 チュチュが言うと、侍女は目をみはった。


「あなた、あんなことがあったのに、もしかして殿下を……」


 チュチュは押し黙った。




 侍女はチュチュの願いを聞いてはくれなかった。手早くチュチュの縄を切り、ドレスを脱がせると、自分と同じような侍女服を身に着けさせた。


「申し訳ないですが」


 そう言って、チュチュの髪の毛をざっくりと切った。両親が、弟たちが、ふわふわで可愛いねと言ってくれた、チュチュの桃色の髪の毛が、闇の中でぱらぱらと散っていく。


 チュチュはこのとき、処刑されなくてもチュチュ・コスメーアという人間は死んだのだと悟った。


「早く出ましょう」


 侍女について、複雑な道を通り、城を抜け出した。

 北の方にとりわけ高い塔が見える。その窓に、一つだけぽっちりと灯りがついていた。


「殿下です。あなたを見送っているのですよ」

「ねえ、やっぱり殿下を……」

「それは無理です。あなたを平民に紛れ込ませることはできても、彼の方を助けることはできません。追手の数も違うでしょう。何より、あの方は優秀ですが、平民の暮らしはできないはずです」


 侍女とチュチュは、それからとにかく歩き続けた。


 日が高いうちは、深い山の中を抜けた。ほとんど獣道のようなそこは、ごつごつした岩肌が剥き出しになっており、少し登るだけでも息切れが止まらない。


 跳ぶように軽々と進んでいく侍女マルティアは、少し行ったところでチュチュを待ってくれていた。追いついて水を飲み、また登る。それを長い間くり返し、山頂でようやくひと息ついた。


 空は橙がかったピンク色と、紫色とが混ざり合っている。


「今日はここで野宿しましょう」


 マルティアは、慣れた手つきで野営の準備を整えていく。


「慣れているのね」


 自分たちを陥れた相手だと憎い気持ちはたしかにあるのに、いつの間にか、マルティアにはある種の気やすさを抱くようになっていた。


「……子どものころ、殿下方とよく。リグレット様は手がつけられないやんちゃ坊主でしてね。こういうのが大好きでした」


 マルティアがどこか遠くを見つめながら言う。


「サティス様は物静かで、じっと虫を観察していたり、星を眺めたりしておいででした。今とはお二人とも真逆の印象です。──未来って、わからないものですね」


 生まれ育った国が眼下に広がっている。国と国とを分断する巨大な湖。きらびやかな夜の王都。その中心にそびえ立つ城。

 もう泣くのはやめようと思っていたのに、チュチュの目からは、ぽとりと涙が落ちた。







 マルティアとチュチュは、プリュイレーンの隣国に当たるベチルバード王国にやってきていた。


「わが国は雨の日が多いでしょう。昔は止むことがなくて、魔導具で結界をつくっていたそうなんですよ」


 マルティアが言う。


「この国、ベチルバード王国は霧の王国と呼ばれています。ただ、霧に紛れて、異形の魔獣が出るのだとか。あなたも十分気をつけてください」


「その様子だと、ここでお別れみたいね」


「ええ」


 マルティアはなんてことないふうに言った。チュチュは、寂しいと思ったことに驚いた。


「これは、殿下に持たされました。平民なら一生暮らしていけるだけのお金が入っています。お納め下さい」


「あなたはどうするの?」


「戻ります。戻ったら罪を償おうと思っていたんですが……。あなたと旅しているうちに気が変わりました」


「え?」


「あなたの代わりに、殿下をお守りしましょう。──身分さえなければ、あなた方はきっと……」


 マルティアはその先を続けなかった。

 いつも表情が動かなかった彼女の口の端が少しだけ動いた。


「あなたも妙なことは考えないでください。自分ひとりの命ではないのです。謝っても許されることではありませんが──。あなた方の人生を壊してしまい、申し訳ありませんでした」




 マルティアとチュチュは別れた。


 彼女が口利きをしてくれたおかげで、すんなりと隣国の王都に居を構えることができた。誰でも店を出せるという場所があったので、そこで刺繍した小物をほそぼそと売っていたら、刺繍代行の依頼が来るようになった。


 マルティアの言った意味がわかるのは、その数週間後のことだった。チュチュは、王家の血を継ぐ子どもを身に宿していたのだ。





 時は流れ、可愛い娘を産んだ。娘はチュチュに似た、そしてチュチュよりも少し濃いピンクの髪をしていた。

 少し気の強そうな、頑固そうな目は、新緑。"王家の森の瞳(フォレスト・アイ)”だと気がつく。


 チュチュは娘のミュミュをつれて、各地を転々とした。そのたびに、()()()()()()()()()。送り主はわかっていた。


 時折聞こえてくる"隣国”の噂にはいつも耳を澄ませていた。あの悪魔のようなリコリスが、サティスと結婚し王妃になったことを知った。


 二人には子ができず、ついには王家の傍流から養子を取ったことも知った。


 罪を犯し、長く幽閉されていた元王太子が病死したという。そのとき、チュチュのもとに一通の手紙が届いた。それには、ともに旅をした人からの短い手紙も添えられていた。


「マルティア……」


 チュチュは、その手紙を生涯大切にした。


 やがて、プリュイレーン王国では、養子となった子どもが、"解放王"として自国の身分制度をなくし、それを大陸中に広げようとしていることも知ったのだった。




 自分の命が長くないとわかったとき、チュチュは泣きながら燃やした。元王子からの手紙を。謝罪と同じ気持ちだと伝わってくるその一枚を。環境が違えば友人になれたかもしれない人からもらった、素っ気ない手紙を。


 チュチュは願っている。


 もし次に生まれ変わるなら、身分制度がない世界がいい。自分の努力次第で、人生を好転させられる場所がいい。そして、そこにふさわしく、強い心を持った女性になりたい──。







 パリン、と音を立てて魔導具が割れた。



 ーーーー


 心臓が嫌な感じにどくどくと鳴っている。私はひゅうひゅうと浅い呼吸をくり返した。


「──君は、罪人の子どもなんかじゃない。俺が元王族の家系だってことも関係ないんだ。たとえもしそうだとしても、この世界に身分はない」


 グリハルトが、私の背中をさすりながら、きっぱりと言った。


 文字で知らなかった“彼女たち”の人生を垣間見て、涙が止まらなかった。それに、思い出したことも、あった。

 グリハルトの瞳にもまた涙が光っている。


「それでも、私の曽祖父はひどい人間だったわ。たくさんの女性たちを混乱に陥れた」


「だから君は……!」


 グリハルトはくしゃくしゃと頭を掻いた。


「本当に頭でっかちだな、シュシュフラマン」


 彼は苛々した様子で言う。


「今この世界には、家もしがらみもない。大事なのは俺たち二人の気持ちじゃないのか? 俺は、君が俺を慕ってくれていると思っている。──違うのか?」


「……」


「そうやってだんまりしてしまうところ、……()と同じだな」


 彼の言葉に驚き、私はばっと顔を上げた。


「どうして気づいたのかって? 簡単なことだ。俺がそうだったから。君が懸念していることを当ててみようか」


 グリハルトが言う。

 あの人と同じ"王族の雨の瞳”と、彼本来の薄紫の瞳が、しっかりと私を捉えて離さない。


「君が今考えていることは、こうだ。リグレットを慕って()()()いたのに、違う人間と結ばれてもいいのかということ。──そうだろう、()()()()()()()()()()


「どうして……」


「今、思い出したんだ」


「今?」


「そう。君には言っていなかったが、この魔導具には副作用がある。俺もどういう意味なのかは知らなかった。"大切なことを思い出す”ものだと聞いていたから、大したものじゃないと思っていて……」


「大切なこと」


「そう。今考えると、それは、忘れていた前世という意味だったのだろうな。祖母から譲り受けたのだが、使うのには覚悟がいるのだと、神妙な顔で言われたんだ。つらいことを思い出させたのではないだろうか……」


「……つらかった」


 くっとグリハルトの顔が歪む。


「でも、知れてよかったです」


 私はそう言い切った。


 それから私たちは、どちらからともなく歩きはじめた。




 婚約破棄されたあとに勢いで短く切り、そのままにしていた髪も、グリハルトと会うようになってから少しずつ、なんとなく伸ばしはじめていた。


 今は、瞳に合わせた水色に染めた部分だけじゃなく、私の本来の髪色、淡いミントグリーンの部分も見えてきている。もう染めるのはやめて、すべて私に戻るまで待とうと思っている。


「僕は昔の君の、健気に努力しているところに好感を持っていた。初めはなんらかのたくらみを疑っていたが……」


 気まずそうに頭をかく。脅されていたとはいえ、その通りだったので、私も申し訳なくなって俯いた。


「君は、首席を取っただけあって、学園の中でも抜きん出て聡明だった。問いを投げかけると、自分の意見をぽんぽんと弾き出す。穏やかで愛らしい見た目とのギャップを感じて、気になる存在になっていった」




 私たちは、過去の答え合わせをはじめた。


「もし俺が()じゃなかったら、そしてさっきのが俺の勘違いじゃなければ。──君を永遠に手に入れられなかったかもしれないな」


 グリハルトが私の手を取る。


「チュチュ・コスメーア。そしてシュシュ・フラマン。俺は、あのとき直接言えなかった思いをあなたに告げよう。君の置かれた環境に気づけなかったこと、ひどいことをしてすまなかった」


 グリハルトの顔が苦しげに歪む。


 私は、旅をしているとき、侍女のマルティアから聞いた。彼が飲まされた毒、魔女の獣というのは、隣国の魔獣の核を使って作られていて、体に取り込むと解毒するまで自我を失ってしまうのだという。


 それは体から魂が切り離されるようなもので、自分の体を思い通りに動かすことはできない。そして、自分がもっともほしいと思っているものだけに突き進んでしまうのだという。


「つまり、あの方は、あなたを何よりも欲していたってことです」


 マルティアは後悔をにじませながら言った。







私たち(シュシュとチュチュ)は、あなたを許します。そして、あなたを騙すような真似をして、申し訳ありませんでした」


「シュシュ……」


「どうか、──俺と生涯をともにしてくれないか」


 グリハルトが言った。


「はい、……グリハルトさん」


「グリ、と」


「え?」


「リグレットだったときも、今も。グリが俺の愛称なんだ。ばあちゃんに呼ばれるのは恥ずかしいけどさ」


 グリハルトは照れたように頭をかく。その姿を、この世界では愛おしいと思える。


「……グリ!」



 私は、彼の胸に飛び込んだ。ずっとずっと、こんなふうに触れ合えるのをを渇望していたのだと、そう気がついた。


 さらさらと糸のような雨が降っている。それはまるで、祝福みたいだった。






【お知らせ】


・後日、連載版を投稿します。


・企画参加にあたり長くなりすぎて削ったシュシュの時間旅行「母」「祖母」「曾祖母」視点まで執筆済み。

その他、「リコリス視点」「侍女マルティア視点」「グリハルト視点」なども予定しています。


・異世界恋愛作品で書いているのは、すべて同じ世界観ですが、中でも同じ王国プリュイレーンの物語が2つあります。

『蛍姫は、雨と墜ちる』

『胡蝶姫は、罪と堕ちる』

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