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わが家

 名波にあんなことがあってから、わたしはあの夢を見なくなった。


 それから数年が経って、わたしは28歳。


 目を覚ましているときも、夢と同じようなものをよく見かけるようになった。



 2週間前も会社に向かうために電車に乗っていると、ターミナル駅に停車したとき、車窓から“それ”を見た。


「あ、あれ……あれじゃない?」


「この前、俺もあれ見たよ」


「てか最近多くね?」


 電車のなかで、乗客たちが口々に囁く。

 

 朝のラッシュ時、ぎゅうぎゅう詰めの車内、その窓際から対面のホームを見ていたわたしには、ホームに立っているその男がよく見えた。


 白いTシャツに、黒い半パン、白スニーカーの男だった。

 でもそのシャツは、何日も……というか何か月も着替えてないように、ねずみ色に汚れ、食べこぼしらしい赤や黄色、緑の染みが、ところどころに染み込んでいる。

 

 その男……たぶん、20代そこそこだと思う……は、ホームの淵ぎりぎりの位置に立ち、上半身をぐったりと前に折り曲げていた。


 わたしの夢や、現実で見た大槻さんと同じだ。

 何か月も散髪していない感じの、脂ぎった長い髪が、ホームの端の黄色い点字ブロックに垂れていた。


「あいつも……アレかな?」


「ダメだよね、アレやるようになっちゃうと……」


わたしと同じものを見ているらしい女性の会話が、後ろから聞こえてきた。


「さすがにあそこまでになるとアウトだけど……でもさ、ウチのダンナの妹、あれで良くなったよ?」


「え、マジ? ……その子、治ったの?」


 それはわたしも聞きたいところだった。

 そもそもあの薬って……効くの? 心の病に対しても。


「治ったというか……実家でははなんか、落ち着いたみたい。あんなふうに外でヘンなかっこうすることも無くなったみたいだし……今は家で大人しくしてるらしいよ?」


「それ……アレは止められたの? 大丈夫? あんたのダンナの妹……」


 ぎゅうぎゅう詰めの車内で、わたしは聞き耳を立てていた。

 わたしがすべてを、ちゃんと聞き取れていたのかどうかはわかならい。


 しばらく間があった。


「良く知らないけど……ちゃんと生きてるみたいだよ? 知らないけどさ」


 確かに覚えてるけど、その日はまだ火曜日で、ずっと会社勤めをしているわたしにとって、いちばん余裕のない曜日だった。

 するともう一人の女性が言った。


「でもさあ……ああいうのに頼りたくなるのもわかるよね。とくにこんな風に混んだ電車で通勤してるようなときは」


「ホントに辛いのが消えるならね~……でもそれなりに効くから、ああなっちゃうだよね? 怖い怖い」


 わたしはホームのぎりぎりのところで前屈している男性を、改めて見つめた。

 ゆらり、ゆらりと揺れる男性の周りには、このラッシュ時でも人は少なく、彼を中心としたエアポケットができている。

 あんなにホームの端に立っているのに、駅員も注意しない。





 誰もかれも、彼のことを意識しながら、“見えなかったこと”にしている。

 そうとしか思えない。


 わたしの身の回りで、耳に入る範囲で、これだけの中毒者と実害が出ているというのに、テレビも新聞も、一切あの鎮痛剤のことを報じている気配はない。


 ネットはどうか?

 少なからず、鎮痛剤の中毒症状について噂したり、疑問視したりする声はみられる。

 でもそうした声には、どこから湧いてきたのかわからないくらい大量の「陰謀論」「非科学的」「妄想」「どんな薬にも副作用はある」「異常行動の原因は別にある」「鎮痛剤が原因だという科学的ソースは?」といった一方的で圧倒的な批判にかき消されてしまう。


 そういうのを見ると、あの薬は何か大きな力に守られているんじゃないか? とわたしまで彼らが批判しているような「陰謀論者」めいた考えに囚われてしまう。

 見ているだけで、頭が堂々巡りして混乱するだけだ。


 わたしはあの薬についてそれ以上、調べなくなった。

 

 どこにも大きな力など働いてなんかいない。

 疑問を持つ人々を攻撃する人々は、たぶん今、現在、鎮痛剤に救われている人々なのだろう。もしくは、これから先に救いを見出そうとしているか。


 

 

 あれから、名波には一度も会っていない。

 彼女は実家に戻っしまい、それからいくら連絡しても返事はなかった。

 親友のことが心配だったので、わたしは彼女の実家を調べて連絡した。


「ああ、彩さん……名波からよく話を伺っていました……」


 電話で応対してくれたのは、名波のお母さんだ。

 その声は消え入りそうなくらい憔悴している。

 スマホのスピーカーでは拾いきれないくらい小さな声だった。


「突然、お電話して申し訳ありません……名波さんに何度も連絡したんですが、返事がなくて心配で……今、彼女はそちらで暮らしているんですよね?」


「…………優しいのね…………名波にはいい友達がいたのね……」


 お母さんの声はますます小さくなり、霞んでいく。


「名波さんは……どうしてますか? あれから……いや、彼女が会社を辞めてから一度も会ってないんです……元気ですか?」


 と、電話口のお母さんの声が聞こえなくなった。

 しばらくの沈黙。

 わたしはお母さんが電話口で泣いているのではないか、と思った。


「……元気なわけないでしょう……」


「ひっ……えっ……」


 思わず怯んだ。

 消え入りそうだったお母さんの声が一瞬、野太くなったからだ。


「……ごめんなさい……あの子は……娘はいま……ほんとうに具合が悪くて……」


 またお母さんの声が消え入りそうな小さな声に戻る。


「そんなに……具合、悪いんですか……彼女……」


「あの子は、ずっと家に……自分の部屋に籠ってました。ずっとカーテンを閉めて、部屋を真っ暗にして……あんなに明るい、元気な子だったのに……天気がよければ、いや、天気が悪くても、雨でも、嵐でも、外を走り回ってるような子だたったのに……ごめんなさい、あなたにこんな話するなんて……でも、あの子のことを知ってる、元のあの子のことを知ってる人とお話するのが久しぶりだから……ごめんなさい、ほんとうはあなたの声を、あの子に聞かせてあげたかったんだけど……でも、もうあの子は……都会で働いて、楽しく暮らしていたのに……あなたみたいな、優しい、いいお友達がいる子だったのに……ずっとあの子はカーテンを閉めた部屋で……ずっと……」


 お母さんが途切れ途切れにそれだけのことを話す。

 わたしはどこでどんな相槌を打っていいかわからないまま、ただ話を聞いていた。


 ただ、気になったこともある。

 お母さんが名波のことをすべて過去形で話している。


 でも、わたしはその違和感を言葉にすることはしなかった。

 それどころか、名波のお母さんにどんな言葉をかかけていいかもわからない。


「あの子は、空が怖かったみたい……あんなに晴れた青空が好きな子だったのに……」

「空?」


 その言葉でわたしは我に返り、思わず聞き返していた。


「……そうなの……『空が怖い』ってあの子は言ってました……事件のショックに加えて、刺された脚の痛みに耐えかねて、あの子は……お医者様から処方されたお薬を飲み始めたんです……それからです、あの子が空を怖がるようになったのは……空を見ると取り乱すようになって……それでお医者様に相談したら、また薬が増えました……すると、ぱったりと取り乱すことはなくなりました……空が怖いことは怖かったみたいだけど、お薬を増やしたことで怖さをあまり感じなくなったみたいで……でも……それからあの子は……へんな姿勢でふらふらと外を徘徊するようになって……」


「へ、へんな姿勢……? それって……」


 また沈黙があった。


「知ってるんでしょ……わかってるんでしょ?」


「ひっ……」


 また、お母さんの声が野太くなる……まるで別人の声だ。


「あなたも、わかってたんでしょ? ……知ってたんでしょ?」


 わたしは一方的に電話を切ってしまった。

 それ以来、名波の実家には電話していない。





 それから何年か経って、わたしは結婚した。

 相手は会社の2年先輩。

 これといってハンサムではないが、とても誠実で真面目な性格。わたしも後輩として頼りにしていたし、彼と結婚できたことは純粋にうれしかった。


 結婚式でわたしが両親を呼べない、というと、彼は別に残念そうにもせずに


「じゃ、俺たちだけでコソッとやろう」と言ってくれた。


 わたしは素直に感動したし、わたしたち夫婦は絶対うまくいく、と確信した。


 やがてわたしが妊娠する。

 

 それまで住んでいた賃貸マンションが手狭になるだろう、ということでわたしたちはマイホームを購入することになった。


 不動産屋さんから紹介されたのは、郊外の建売住宅。

 中古物件だけど、それほど古くないし広く、眺めがいいという。

 

 不動産屋さんの運転する軽自動車で、わたしたちは物件を見に行くことになった。

 

「ちょっと坂なんですけど、電動アシスト自動車があると楽勝ですよ!」


 運転席から不動産屋さんが言った。


「坂……」


「え、坂、苦手? ……電動自動車、買おうよよ」


 と彼。


「う、うん……」


「なかなかいいとこじゃん……会社からも快速で一本だし、静かで、子供が生まれたら遊ぶところもいっぱいだよ?」


「そ、そうだね……」


 わたしは、できるだけ平静を装うのに大変だった。

 なぜなら……なぜなら、不動産屋さんの車がどんどん登っていく坂道……わたしはこの風景に見覚えがあるからだ。


 見覚えがある、どころじゃない。

 わたしはこの風景を知っている。歩いたこともある。歩き続けている。

 何度も、何度も、何度も。


 いま、あの女がいつも立っている左カーブを車が曲がったところだ。

 さらに車がカーブを曲がる。


 左側に突然広がる、開けた景色。

 街がはるか遠くまで一望できる、すばらしい高台。

 西の果てには山が見える……いつもあの山に、夕陽が沈んでいく。


 わたしが何度も何度も立ち止まり、見とれた景色。


「うわっ……すごくいい景色……」


 彼がスマホで写真を撮る。

 わたしも夢のなかで、何度も写真を撮りたくなった。


 今見ている景色に、虹はないけれど。


「もうすぐ着きます……お家からはもっといい景色ですよ! ……あ、見えてきました! あれです!」


 不動産屋さんが指さす。


「ああ…………」


 白い、二階建ての家。

 明るい光を浴びて、その家自体が輝いている。


 “我が家”だった。


 彼はわたしがその家に見とれていると、思っているみたいだ。

 わたしは叫び出したいのを、必死で堪えていた。


 でも……夢で何度も見たから不吉だ、なんて……どうやって伝えたらいい?

 頭がおかしくなった、と思われずに伝えるには、どうすればよかった?


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