白い家
大学を卒業して働くようになっても、やはりあの夢を定期的に見た。
いつまで経ってもわたしは夢のなかで12歳。
そして存在しないはずの“坂の上の我が家”に帰宅しようと、坂を登っている。
最初の曲がり角で立っている、前屈した黒いワンピースの女。
あの女はもはや、母ではなかった。
あの大学の帰り道で、田中先輩の元彼女……大槻さんに出くわしてから、わたしの夢のなかであの女は大槻さんになった。
母であれ、大槻さんであれ、あの女が無気味であることに変わりはない。
しかし、くりかえしくりかえし同じ夢を見ているうちに、確かに怖いけど……わたしは怖さよりも苛立ちを感じるようになっていた。
現実の世界でだって……母も、大槻さんも……わたしに一体、なにを伝えたかったのだろうか?
坂の数歩前に、あの女がゆらゆら揺れている。
夢のなかの12歳のわたしは、女に言った。
「なんなの……?」
「…………」
女は答えない。
「なにか、言いたいの?」
「…………」
女は答えない。
「…………なんで何も、言わないの?」
夢のなかで女に語り掛けるわたしの声は、もう12歳だったときのわたしの声ではなく、ちゃんと大人の声になっている。
「………………あああ………………」
女がなにか言おうとする……が、結局、なにも言わない。
「なにも用がないなら、わたし行くね」
女の横を通り過ぎた。
あの女が母だろうと、大槻さんだろうと知ったことか。
確かに怖い。
怖いけれど、苛立ちのほうが勝っている。7
この女も、母も、大槻さんも……すべてに苛立っていた。
女の脇をすり抜けて先を急ぐ。
別に無理に早く走ろうともしない……なぜならこの夢のなかでは、早く走ろうとしても足が重くて走れないことにも、もう慣れっこになっていたからだ。
「………………ああああ…………」
女がなにか言う。言う、というか唸る。
どうせ聞き返しても意味のわかることは言わない。
そのままわたしは坂を登り続けた……背後からは女が追ってくるだろうが、どうせゆっくりだし、追い付かれることもない。
それよりわたしは、この全体的には怖い夢のなかで、あの景色に出会うことを楽しみにするようになっていた。
しばらく坂を登り、カーブを曲がれば……左側に開けてくる景色。
沈みかけの太陽が照らす、眼下に広がる街。
そして、沈む太陽のうえを縁取るように掛かる大きな虹の橋。
わたしは起きている時間に、あれほど美しい景色に出会ったことがない。
現実にこの目で見たこともないし……テレビや映画や写真や絵画でもあんなに美しい風景を目にしたことがない。
夢で見るものは、起きている間に目にした様々な映像の集積だという。
ヘンな夢を見るようになってからこっち、夢に関する本をたくさん読んだ。
一説によると、夢に“ストーリー”はない。
わたしたちが夢に見るのは、起きている間に見たものや、それこそテレビや映画や写真で見たものの映像の断片が、脈絡もなくランダムに再現されたものだそうだ。
わたしたちは起きたその瞬間に、それらを勝手に解釈し、適当につなげて“ストーリー”をつくる。
夢に関して言えば、わたしたちみんなはそれなりに創作者だ。
無意識の羅列を使って、無意識にストーリーを作り出してる。
アフリカの一部の部族は、それでも夢の中で“自分が経験したことのない体験”をすることがあるから、夢は霊界からのメッセージだと考えているという。
日本の伝統的な漁師であるマタギには、夢に関するしきたりがある。集団で長期間山に入り、獲物を追うマタギたちは、その期間に不吉な夢を見た時、その内容を仲間に打ち明けないといけない決まりがあったそうだ。
精神分析の世界では夢は人の無意識を表すという。かつて精神分析医は、クランケの夢の内容からその人が抱えている葛藤やトラウマを導き出した……が、いまそういったたぐいの精神分析は、精神医療の現場ではほとんど使われていない。
……とにかく、夢は夢だ。
わたしの現実とは関係ない。
とにかく、恐ろしいこともあるけれど、わたしは夢で見るあの景色を楽しみにしていた。
その日も……高台から見下ろす景色と虹は素晴らしかった。
あの曲がり角に立っている女、そして、この先の坂に待っている3人(4人か、5人のときもある)の前屈した人々に関しては……ひょっとすればわたしの無意識が見せている何かの象徴なのかもしれない。
それを探ってみようとは思わない。探っても退屈なだけだ。
でも、この美しい虹は何なんだろう……?
全体的に怖くて、不気味な夢のなかに現れるこの美しい景色。
もちろんこれまでに、起きている間に見たこともない景色。
これは何を表わしているのだろうか……?
陽が沈んでしまうと、いつものように虹は消える。
振り返ると、女が前屈姿勢のまま、坂を登ってくる……いつものように、わたしの後を追っているようだ。
わたしは駆け出しもしない。
そのまま坂を歩き出す……どうせあの女は、わたしに追いつくことはできない。
右のカーブを曲がった。
そして、またため息。
坂道には……今日は4人の人物。
痩せて小柄な男と、太ったおばさん、70歳くらいのおじいさん……そして夢のなかのわたしくらいの、ランドセルを背負った小学生くらいの女の子。
それぞれが身体をくにゃりと前に曲げ、前屈の姿勢で……坂の方々に佇んでる。
確かに不気味だけど……わたしはやはり苛立ちしか感じない。
(ああもう……イラつく……)
夢のなかの12歳のわたしは、わたしの行く手を邪魔するように、道でゆらゆら揺れている4人の間を縫うように歩く。
彼らを避けて、ジグザグに坂を登るのはたいへんだった。
ときどき、彼らに蹴りを入れたくなる。
わたしに通り過ぎられると、彼らはそれぞれ、わたしを追ってくる。
しかし、やはりどうってことはない。
どうせこいつらも、最初に出くわすあの女みたいに早くは動けない。
わたしに追いつくことなんて出来ないのはわかっていた。
そして、坂を登り切る…………と、わたしは奇妙なことに気付く。
坂を登って左手の小高いところに、白い二階建ての家がある。
とてもきれいな家で、まだ新しいらしい。
陽が沈んで暗くなっているけれど、その家の白さは極端なくらい明るく、それ自体が光を発しているように見えた。
と、そこでわたしは気づく。
(あれだ……あれ、わたしの家だ…………)
もちろん現実の実家とはまるで違う。
それにこんな家に住んでいる親戚や友人、知り合いはいない。
でも、あの家が、確かにわたしの家であるということがわかる。
これまでわたしは、夢のなかで家までたどり着いたことがなかった……。
あれが、わたしの家なんだ。
そう確信して、わたしは家に向かって坂を登り始める。
背後からは最初の女も含めて、計5人の前屈した人間たちがわたしを、ゆっくり、ゆっくり追ってくる。