田中先輩と、その彼女
わたしは大学に入学し、奨学金とおばあちゃんの援助もあって、実家を出た。
ママはある症状を克服するために今、療養施設にいる。
パパは……あのくそ親父はたまにLINEで連絡を寄こしてきたけどブロックした。
実家で一人、暮らしてるのかどうか……詳しいことは知らない。
ところでママだが、くそ親父が浮気をしたあたりから、原因不明の全身の痛みに苦しんでいた。
痛みは心因性のものだったらしいが、そのとき病院から処方された鎮痛剤を大量に摂取していたらしい。
『あの子のことはわたしがしっかり様子見るから、あんたは会わないほうがいい……かなり状態が悪いから』
おばあちゃんが定期的に、ママが入っている療養施設に様子を見に行ってくれているようだ。
でも……ママの様子は、かなりひどいようだ。
『あの子も、娘のあんたにあんな姿は見られたくないと思う』
そう言って、おばあちゃんはわたしがママを訪ねていくのを、やんわり禁じた。
実を言うと……はっきり言ってわたしもあんまりママには会いたくない。
具合が悪くなってからのママに対して、わたしはずっと不安を感じていた。
はっきり言って、怖かった。
そして、あの隣の家の犬……こむぎの件があった。
実際、あれをやったのがママなのかどうか、確証がない。
あまりにも惨たらしい事件だったので一応、警察が捜査したらしいけど……
誰がこむぎを殺して首を切断してゴミ捨て場に捨てたのか、結局分からずじまいだった。
しかし、わたしのママに対する恐怖は確証になった。
結果、わたしは高校時代のほとんどを……おばあちゃんの家で過ごした。
高校まで通うのは少し遠くなったけど、毎日、ママの待つあの家に帰るよりはずっとましだったろう。
「彩、なんでこんなに大学から遠いとこ選んだの?」
友人の名波が言った。
「え、だって大学のまわり、なんもないじゃん?」
それは友達の名波が、はじめてわたしの下宿に遊びに来た日だった。
大学は自宅のある街から遠く離れた地方の、郊外にある。
田舎だけど静かでいいところだ。
その日は前期テストも終わった夏休み前で、わたしは名波と部屋で飲んでいた。
「確かにそうだけど……それにしても遠くない? わざわざ下宿してんのになんで?」
名波は自宅から電車で通学している。
けっこう目立つタイプのかわいい子だけど、わたしと同じであんまりオシャレには気を使わなタイプ。
わたしも名波も、バスケサークルに所属していた。
「そんなに遠くないよ……歩いて25分くらいだから」
「25分? 25分って! 遠いじゃん!」
名波も高校時代からバスケをやっている。
わたしは身長160センチだが、名波は165センチ。けっこうのっぽだ。
名波は泊まるつもりでジャージ持参。すっかりわたしの部屋でくつろいでいる。
「大丈夫だよ……自転車乗ったら10分少しだし」
「自転車つっても大学まで、坂道じゃん? あんたの自転車、電動アシストじゃないよね? 根性だね!」
そう言って名波は笑った……彼女にこんな下宿を選んだ理由は言いたくない。
というか、うまく説明できない。
「大学行くだけで脚パンパンだよ」
「だよねー……なんで大学ってどこも、田舎の坂の上にあるんだろうね? ……友達の大学もさ……」
……下宿はおばあちゃんに援助してもらっていることもあり、安いところを選んだ。
でもどこでもよかったわけではない。
大学からは少し遠くなったけど、どうしても坂の上にあるマンションだけはいやだった。
坂を登って“帰る”というのが、どうしても受け入れられなかった。
「ところで名波……田中先輩、最近どうしたんだろ?」
と、わたしは話を変えるために、あるサークルの先輩のことを話題にした。
「え、田中先輩、気になるんだ彩?」
ニマーっ、と笑う名波。
笑うと美人顔がくしゃくしゃになって、けっこうかわいい。
「えっ……べつに……そんなこと、ないけど……」
「隠す事ないって! 田中先輩、彩のタイプっぽいもんねー」
「ち、違うったら……」
名波は悪ノリが好きで、ときおりわたしを困らせる。
今日みたいにすでに缶チューハイを3本開けているとなるとなおさらだ。
「田中先輩だったら、今チャンスだよ……ずっと付き合ってた彼女さんと別れたらしいから!」
「い、いやいや、そうじゃなくて、そもそも田中先輩、最近大学で見ないじゃん? ……どうしたのかなー……と思って……」
「やっぱ気になってんじゃん! だから~……最近彼女と別れたんだって! そのせいじゃない? 大学で見かけないのも……」
別にわたし自身は田中先輩に特別な感情はない。
ただ、田中先輩はとても背が高く、スリムで、バスケが上手かった。
高校生のときにインターハイにも出場したらしい……でも、2年生の夏に、膝を骨折した。
大学でもバスケを部活で続けたかったらしいけど、きっぱり諦めて今は……ほんのちょっと前までは、私たちと一緒にバスケサークルで楽しくやっていた。
とても爽やかで、話も面白いし、感じのいい人だった。
わたし自身に特別な感情はないけど。
「ふうん……田中先輩、彼女いたんだ……」
「やっぱ気になってる~! ……でさ、その彼女ってのが、学際実行委員の子に聞いたんだけど、大槻さんなんだって! 3年の国社の!」
「え、そうなの?」
国際社会学部の大槻さんというのは……大学で知らない人はいないくらい、というか誰もが認める大学一の美人だった。
つややかな黒髪で、少し猫に似たモデル系の美人顔。
すらりとしていて、体型もモデル並み。実際モデルもしてるという噂だ。
すでに学生アナウンサーとして、地方のテレビ局で働いている……らしい。
「なんで別れたんだーねえ? あんな美人と……ま、どっちが別れよう、つったのか知らないけどさ……大槻さんだとしたら、田中先輩に何の不満があるてんだろうね?」
「まーったく……これだから美人は……」
わたしも適当な相槌を打った。
まあ誰もがうらやむような美男美女には、彼らにしかわからないような悩みがあるのだろう。
「でも、田中先輩……彩のこと気にしてたのはほんとだよ。よく、それとなーく彩についていろいろ話してた、ってみんな言ってるもん……どうする~? 田中先輩と大槻さんの破局の理由が彩だったとしたら……」
「ないない。絶対ない」
と、わたしは笑った。酔っぱらっていなくても名波の話はいいかげんだ。
私と田中先輩、それに大槻さんはまったく違う世界に住む人たちだから。
その晩、名波の話は次々に脈絡のないところに飛んで、わたしは寝るまで相槌を打ち続けた。
その後、ショッキングで悲しい事件が起きた。
大学の最寄り駅の西側にあるロータリーで、田中先輩が“心身を喪失した状態”で警察に保護されたらしい。
ちょっとした騒ぎになったが、わたしはあくまで噂レベルの話しか知らない。
時間はちょうど、一限目の授業を受けるために駅前がごった返す時間だった。
そこに、田中先輩が“完全にぶっ飛んだ”状態で立っていたらしい。
その……服を全部脱いだ、全裸の状態で。
騒ぎを聞きつけた駅前の交番のお巡りさんが、田中先輩を“保護”した。
その後、田中先輩がどうなったのか知らない。正確には。
それなりの施設で療養している、というのは噂で聞いた……わたしのママみたいに。
これも噂に過ぎないので、正確なところはわからないのだけど……田中先輩は高校時代に壊した膝の痛みにずっと悩まされ続けていた。
そのため、ある種の鎮痛剤をずっと服用していたらしく……それの乱用が原因なのではないか、とわたしは名波から聞いた。
ママが……いやわたしの母が服用していた鎮痛剤と、田中先輩が服用していた鎮痛剤が同じものだったのか……ましてや、わたしが12歳のときに小学生の女の子を指した殺人未遂事件の容疑者の女が服用していたものも同じだったのか……わたしは知らない。
知ろうとも思わない。
というか、いいかげんな名波が言ったからではなく、わたしは“鎮痛剤”に関わる話を聞くのを、意識的に避けていた。
避けて当然だと思う。
でも、逃げられないこともあった。
田中先輩の事件があって1ヶ月後、日が落ちるのが早くなりはじめた時期だ。
わたしは自転車で、大学から下宿までのなだらかな坂を下り降りていた。
大学は郊外なので、帰り道に人気は少ない。
学生たちが授業を終えて帰ってしまうと、ほぼ人と出くわすことはないくらいだ。
わたしはその日、バイトがあったので、少し急ぎ気味だった。
下宿まであと数百メートル、というところにある曲がり角を曲がる。
曲がり切ったところに、それがいた。
「ひっ……」
思わず自転車に急ブレーキをかけた。
いつも夢のなかであの女と出くわしたときと、同じ声を出してしまう。
なぜなら…角を曲がったところにある街灯に照らされ、あの女とそっくりな恰好の女がいたから。
まるでスポットライトに照らされているみたいだった。
黒いワンピースに、長い髪。
そして以上に柔らかい身体で上半身を前に垂らし、両手と髪を地面につけている。
(これ、夢だ……わたし、絶対いま、夢見てるんだって……)
そう思って目を覚まそうとした。
しかし、夢ではないようだ。必死に目を覚まそうとしても、出来なかったから。
歩きならすぐ引き返すこともできたかも知れない。
でもわたしは自転車に乗っている。
そのぶん、小回りが利かなかった。
女は……あの夢のなかに出てくる女と同じように、街灯に照らされて、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
わたしは、これが夢じゃないなら、いよいよ本当に自分の頭がおかしくなったんじゃないかとさえ思った。
でも、現実なら……とにかく女から離れないと。
わたしは自転車のペダルを踏み、走り出した。
「…………ああああああ……なあああああ……たああああ…………」
女の脇を通り過ぎるとき、女が言った。
「えっ?」
女の顔を見る……女はたぶん「あなた」と言ったんだと思う。
「う、うそっ…………」
逆さになって、いた女の髪の隙間から、その顔が見えた。
青灰色の肌は、夢に出てくる女とそっくりだ……でも、その顔は母とは違う。
もっと彫りが深くて、美人だった。
土気色の肌をして、ガイコツみたいにやせ細っていたけど……わたしはそれが誰かわかった。
「…………あやさああああああん!!!!」
「きゃあっ!」
その女が、わたしの名前を呼ぶのを背に受けて……わたしは必死でペダルを漕いだ。
あの女……あの夢のなかの女とそっくりだった女は……
田中先輩の彼女だった、大槻さんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に謝っていたのかわからないけど、わたしはそうくり返しながら、暗い帰り道を走った。
大槻さんは追ってこなかった。