3人、増えた
まだ夢のなかではわたしは12歳のままだ。
重いランドセルを背負って、あの夕暮れの坂を登っている。
はあはあ、息をしながら。
その先に何が待っているのか知っていながら。
それに怯えながら。
目の前に坂道のカーブが見えてくる。
予想通り、そこには事故防止ミラーがある。
その前に……やはりあの女が立っていた。
「……やっぱ、いる……」
黒いブラウスの女が、くにゃりと身体を曲げて前屈姿勢を作っている。
異常に柔らかい身体。
風に揺れる女の服。
わたしはいつもと同じく、道を引き返さない。
いつもと同じように、道を引き返すという選択肢を取ることができない。
なぜなら、坂の上にはわたしの家があるのだから。
わたしは家に帰らないといけないのだから。
でも……家に帰ってどうするんだろう?
家に待っているのは、あのママだ。
あの朝、ゴミ収集書の前で履いていたわたしを、ベランダから見下ろしていたママ。
ぼさぼさの髪と、白いブラウスをたなびかせて。
土気色の肌に、仮面のように張り付いた笑顔。
濁った目は、わたしを見下ろしながら何もみていない。
ママはわたしに手を振っていた。
そのママが待つ家を目指して、わたしの足は進んでいる。
それを止めることはできない。
「いやだ……」
どんどん、その女に近づいていく。
女は前屈姿勢のまま、ゆらゆらと揺れている。
もうすぐ女の顔が見える……わたしはまた、そこではじめてダッシュする。
通り過ぎるときに、女の顔が見えた。
青灰色の肌と見開いた。卵の黄身のように黄色い白目。
そして500円玉のようにおおきな黒目。
「あっち行けっ!」
わたしは叫ぶ。
そして駆けだす。
わたしの目からひとりでに、涙がこぼれ落ちる。
その女が追ってくるかどうか、振り返りもしない。
振り返りたくない……
なぜならその女の顔は、ママと同じだったから。
ダッシュするが、脚はやはり重い。重いけれど、走ればまたあの景色を見ることができる……あの美しい景色を。
どうせ後ろからあの女がゆっくりと追ってくる。
それに、わたしが坂を駆け上った先には、家が……死んでも帰りたくない家があるだけ。
坂の上にあるのは、わたしの家ではないことはもうわかっている。
でもどこに建っていようと“家”にはきっとママが待っていて……
走って、走って、走り続け、坂の左カーブを駆け上る。
するといつものように、左側の景色が開けた。
「わああ……」
もう何回も見た景色だった。
夕陽に照らされた町並み。はるか遠くの山に沈んでいく夕陽。
そして、その夕陽を縁取るようにかかった大きな虹。
その虹をわたしはずっと見つめる。
虹を見ることで、後ろから追ってくるあの黒いブラウスの軟体女や、坂の上にある我が家、という現実から逃れるように。
わたしは、“夢のなかまでスマホを持って来られたらいいいのに”と思う。
そして、この夢のなかの虹を撮影する。
そうしておけば、目が覚めてからもこの虹を何度も見返すことができるのに。
やがて、山の向こうに太陽が消えていく。
それと同時に、虹も薄くなり、霞んでいく。
わたしは重い気分で坂道の下のほうを見る。
女はわたしの位置からほぼ30メートル下の地点まで迫っていた。
前屈したままの姿勢で、ふらり、ふらりと揺れながら……女が坂を登ってくる。
ひどくゆっくりしたスピードだ……前屈したままなのだから、仕方ないのかも知れないが。
わたしはまた駆け出す。
やはり、駆けだしても足は泥に取られているかのように重い。
左手に広がっていた景色も、だんだん闇に包まれていく。
はるか遠くまで見えていた景色が、夜に蝕まれ、吸い込まれていく。
わたしは走った……女に追いつかれないように。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
いつの間にか左側に開けていた景色はなくなり、坂道はまた両側を木々で覆われた暗い道に戻る。
坂もかなり急になった……
と、そこでわたしは気づく。
(そういえば……坂の上の“わたしの家”ってどんなのなんだっけ……?)
何度もこの夢を見ている……けど、わたしは“家”に到着したことがない。
夢のなかではわたしの家は、この坂の上にある……らしい。
だからわたしは、この坂を登っている。
でもわたしは夢のなかで、一度も坂の上のあるはずの家についたことがない。
なぜだろう?
坂道はまだ延々と続く……今度は右に曲がるカーブが目前に見えた。
わたしは息をはずませながら、そのカーブを曲がる……ゆっくり時間をかけて。
「ひっ……」
さらに急な坂が目のまえに立ちはだかる。
そこに、3人の人間がいた。
というか……あれは人間なのだろうか。
ほとんど闇に飲み込まれた坂道に、あの女と同じ……異様な前屈をした人間が3人。
4メートルほどうえに、肥満体験の男性が一人。
その5メートルほどうえに、痩せたおばあさんが一人。
坂のてっぺんには、かなり長身の男の人が一人。
全員があの女と同じように、上半身を完全に折り曲げて地面に手を突き、頭までつけそうな勢いで身体を曲げている。
それぞれが、ゆらり、ゆらり、とゆっくり揺れていた。
あの女と同じだ。
「な、なんで……」
わたしは慌てて背後を見た。
あの女がいる。
目の前の坂にいる3人と同じように、身体を半分に折り曲げて……ゆらり、ゆらりと坂を登ってくる。
女の動きはすごくゆっくりだ……だけど。
このままここに突っ立っていると、追い付かれるのは時間の問題だ。
わたしは目の前の坂にいる3人を見た。
女と同じだ……3人はその場所から動かない。
わたしは、どうしても家に帰らなきゃいけないんだ。
その家が安心できる場所かどうかは別にして。
わたしは考えはじめる……
どういうコースで目のまえの坂を走り抜ければ、目のまえの3人の間をうまくすり抜けて坂を登り切れるかを。
そうすると、あの3人もあの女と同じように、わたしを追ってくるのだろうか?
そのときは、そのときだ。
さあ、どういうコースで坂道を走り抜けようか……
わたしは考え続ける。