こむぎ吠えなくなった日
16歳になって、わたしは駅から自宅までの道のりを歩いていた。
わたしは髪をポニーテールにして、白いブラウスに紺のリボンタイ、紺のプリーツスカートという学校の制服姿。肩から重い鞄をかけている。
これは夢ではなく現実のことなので、わたしの帰り道に坂道はない。
わたしは私学の高校に通い、家から歩いて10分の駅から、電車通学をしていた。
夕方で、日が長くなった時間。
これは夢のなかと同じ季節で、同じ時間帯だ。
坂道はないけど、私の足取りは重かった。
(……はあ……もうすぐ家か……)
そのの頃わたしは、家に帰るのが苦痛になっていた。
できればずっと学校にいたかった。学校には友達もいるし、部活のバスケも楽しい。
でも今は期末テストの時期。
部活も休みで、早く家に帰らなければならない。
勉強は嫌いじゃなかったので、テストはどうでもいい。
それにテストが終われば夏休みだ。
ふつうの高校生なら、うきうきスキップしていてもおかしくない。
でも、これから始まる夏休みのことを思うと、わたしの足取りはますます重くなる。
なぜなら……夏休みになれば、家からどうやって離れているか、そのことにいろいろと思いを巡らせなければならないから。
もうすぐ家につく。
わたしの足取りはさらに重くなった。
犬の鳴き声がする……あれはうちの柴犬……じゃなくて、隣の家の柴犬のこむぎの声。
今日はなにか、すごく大きな声で吠えている。
どうかしたんだろうか。
家が見えてきた。
見えてきたと同時に、いつものようにママがベランダに立っているのも見えた。
わたしに手を振るママ。
白いブラウスが、風に揺られて、ベランダに干された洗濯物と同じ波長で揺れている。
「あやああああああああ…………おかえりいいい…………」
ママがベランダから言った。
その伸び放題でぼさぼさの髪も、ブラウスと洗濯物と同じ波長で揺れていた。
わたしは思わず俯いて、足を早める。
ママはベランダからわたしのこと見下ろしているのだろう。
毎日、学校から帰ってくるたびにこうだ。
「………………」
わたしは無視して……俯いたまま、家のなかに入った。
ママがウザかったのではない。怖かったのだ。
怖いけれど……当時まだ高校生で自宅暮らしだったわたしには、ママの待つ家に帰るしかない。
あの夢を初めて見た12歳の誕生日のときと今では、うちの家の様子はすっかり変わってしまった。
「おかえりい…………あやああああ…………」
玄関で靴を脱いでいると、今度はママが玄関に面している階段の上から言った。
「ただいま……」
わたしは顔を挙げずに、それだけ答える。
ミシ、ミシ、ミシ、ミシ……
階段をきしませて、ママが階段を降りてくる。
わたしは顔を上げるのが怖かった……だから俯いたまま、家に上がる。
ミシ、ミシ、ミシ、ミシ……ミシ
ママが階段を降りたところで立っている。立ち止まって、わたしを見ている。
ぼさぼさの髪、しわの目立つ白いワンピース……そして、土気色の肌に、濁った目。
「……パパ、今日も遅いんだってさあ…………」
「……そう」
わたしはママの横をすり抜けて、階段を登ろうとした。
隣の家の柴犬、こむぎが激しく鳴いている。
ちょっと尋常じゃない鳴き方だった。
いつもはとても大人しくて人懐っこい子なのに。
「あの犬……ずっと吠えてる……うるさくない? ……あやああ……」
階段を上るわたしの背中に、母が声を掛ける。
けだるそうな、しわがれた声。
わたしが12歳だった4年前のママと同じ人の声とは思えない。
「そう? ……いつもだと思うけど」
そう言うとわたしは駆け足で階段を上り、自分の部屋に飛び込んだ。
ドアを閉め、鍵をかける。
そして着替えずに制服のまま、ベッドに腰かける。
(なんで……なんでこうなっちゃったんだろう?)
そもそも発端は……2年前、わたしが中学2年生のとき、パパが会社の女性と不倫をしたことだった。
信じられなかったし、ショックを受けていたママがあまりにもかわいそうだったし、許せないと思った……わたしは今もパパを許していないし、これからも許すつもりはない。
それからママは、ふさぎ込むようになった。
パパは仕事を理由に、日付が変わるより前に家に帰ってこなくなり、休日もほとんど家を空けている。
まだ、不倫相手の女の人と会っているのかも知れないし、別の女性となにかしているのかも知れない。わたしは……もはやどうでもいい。
わたしのなかでパパはもう死んでいる。
それにしても……隣のこむぎはまだ吠え続けていた。
イライラした。無性に腹が立ってきた。
「うるさい!」
と叫ぶ。自分でもなぜそんなことを叫んだのかわからない。
でもこむぎは鳴き止まなかった。
ママはパパの浮気発覚以来、精神的な原因から来る全身の痛みに襲われるようになった。どんな病院にかかっても、症状は治まらない。
ほとんど家でずっと寝てすごしている。
日常的な家事は主にわたしがやっている。
ママ方のおばあちゃんが週に1度はうちに来て手伝ってくれる。
『わたしからあんたにこんなこと言うべきなのかどうかわからないけど……あんた、高校卒業したらこの家出ていったほうがいいよ』
おばあちゃんはそう言ってくれた。
それにしても、まだ隣のバカ犬……こむぎが鳴き続けている。
「うるさいっ!」
わたしはまた、考えるより先に叫んだ。
と、突然、鍵を閉めたドアの向こうから声がした。
「……だよねえ……」
びくっと、ベッドの上から飛び上がる。
「あやあああ? ……ほーーーーーんと…………うるさいよねえ…………あの犬…………」
母の声だった。
わたしはベッドの上で固まったまま、板一枚隔てて立っているはずの母のほうを凝視していた。
いつから母はそこにいたんだろうか……気が付くと、灯りを付けていない部屋はもう、すっかく暗くなっていた。
翌朝、わたしはゴミ袋を持って家を出た。
ゴミをまとめて決まった日に出すのも、わたしの役目だ。
というかありとあらゆることはわたしの役目になっている。
ママとは顔を合わせていない。
パパの不倫が発覚してから、家族で過ごす朝食の時間はなくなった。
まあ当然と言えば当然だけど。
きのう、パパが家に帰って来たのかどうかも知らない。
左手にゴミ袋、右肩に鞄のストラップをかけて、ゴミの収集場所まで行く。
「えっ……」
10匹ほどのカラスが群がって、ネットの上からゴミをついばんでいた。
確かにいつも、カラスは2~3匹いるけれど、今日は異様に多い。
ちょっと怖かったけど、わたしがビビりながら近づく。
カラスたちは激しい羽音を立てて一斉に飛び去った。
カラスたちが去った後の防護ネットには、何本か真っ黒な羽根が遺されていた。
「きも…………」
できるだけ指先だけで、防護ネットをつまみ上げる……と、わたしはその下にあったものを見て、首をかしげた。
何だろう……これは。何かがゴミ袋の中から突き出している。
まるで、食べ散らかしたフライドチキンの骨みたいだけど、それにしては大きい。
蠅がたかっていた。つぎに、刺激の強い悪臭がわたしの鼻を襲った。
「うっ……」
思わず手で鼻を覆う。蠅がたかっていた。蛆虫も湧いている。
思わず吐きそうになったが、それが何かわかって、吐き気が一瞬だけ止まった。
目は完全にカラスたちに食い荒らされて、赤黒い穴になっている。口の周りも。
だからぞろりと並ぶ歯が見えて、その物体の正体がわかった。
「ううっ…………げほっ!」
わたしはその場に吐いてしまった。
吐こう、と決意したんじゃない。吐き気が爆発して、自分では止めようがなかった。
そういえば、今朝、起きた時から隣の柴犬……こむぎは鳴いていなかった。
きのうはあんなに吠えまくってたのに。
もう今後、こむぎはきのうのように吠えることができない。永遠に。
頭だけになって、ゴミに出されていたのだから。
ひとしきり吐いて、顔を上げた。
ママがベランダからわたしに手を振っている。
「…………いってらっしゃあああああーーーーーい…………」
ママが言った。