坂の上から
それからしばしば、あの夢を繰り返し見るようになった。
いつも同じ、あの帰り道……やはりわたしは、あの坂道に慣れ親しみ、それを憎み、呪いながら、はあはあ言いながら登っている。
そして、あの曲がり角のところに差し掛かる。
すると、角のところにあいかわらず、あの左右反転したクエスチョンマークみたいな黒い影が見える。
「……まだいる……」
わたしは夢のなかでつぶやく。
不思議なことに、何回か夢でその風景をみるうちに、わたしはその影が何者か見当がつくようになっている。
あの影は、女で、刃物を持っていて、通りすがりの小学生の女児であるわたしを刺そうとしている頭のおかしいやつの影だ。
それはニュースから得た知識。
あの殺人未遂事件のニュースを見たせいか、夢のなかに出てくるその影は、最初に見たときよりも、少しはっきりした形をともなっている。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
その影の正体が、頭のおかしい、危ない女だとわかっていても、わたしは坂を登ることを止められない。
どんどん、その女に近づいていく。
わたしはそのまま、女まであと数歩、というところまで近づいていた。
「うわ……」
わたしは悲鳴を上げる。
女はやはり前屈の姿勢で、異様なまでに上半身を折り曲げて、逆さに垂らした髪の毛を地面につけていた。
黒い、裾の長いロングワンピース。
痩せてがりがりの身体を包むその布が、坂の上から吹き付ける風ではためいている。
ゆっくり、ゆっくり揺れながら女は前屈している。
「うわわ……」
わたしはもう一度悲鳴を上げる。
思い切り上げたつもりだったけど、夢のなかではありがちなことで、「うわ……」くらいの声にしかならない。
あと一歩で女の横をすり抜けられる。
女の顔が見えた。
前屈しているので、女の顔は逆さになっている。
長い、ウエーブのかかった髪が垂れさがり、地面についている。
痩せた、異様なほど目の大きな女だった。
その顔を、わたしは知っている。なぜなら、その女が逮捕されたとき、顔写真がニュースに出たからだ。
「うわわ……」
女の大きな目。飛び出しそうに見開いた目。
どこを見ているんだろう。とにかく、女は前屈しながら目を見開いている。
女の鼻はニュースで見た通りにやたらと高く、唇は薄い。
「わっ……わっ…………わわわっ……」
とにかく、走り出そうとする私。
しかし、これも夢のなかではよくあることだけど、わたしはダッシュすることができない。足がまるで鉛になったみたいで、重くて走れない。
あるいは、坂の勾配が突然20度くらい上がったみたいに、走り出そうにも走れない。
女の真横をすり抜ける……できるだけ女と、距離を取ろうとしながら。
できるだけ女のほうを見ないように気を付けながら。
「……………………ああああ……いいいい…………かああああ…………」
女が呻く。
その声は発情期の猫の声を録音して、ゆっくり再生したような感じだ。
当然だけど、わたしはぞっとする……そして思わず、女のほうを見てしまう。
ぐにゃり、と二つ折りに曲がった身体。
逆さになった顔が見えた。
「わわわわっ………………」
女は目を見開いている。
一文字に結んだ薄い唇。
白い、というか青灰色の肌。
見開いた目は、白目の部分が卵の黄身のように黄色い。
そして、黒目の部分は真っ黒で……百円玉くらいの大きさだった。
「きゃあああっ!」
猿轡を外されたみたいに、わたしの口から悲鳴が飛び出る。
足枷が外れたみたいに、わたしの足が走り出す。
わたしは女から少しでも遠くに離れようと、坂を駆けあがった。
カーブを描く坂道を走り、どんどん“家”に向かって走っていく。
でも、ちょっと待って。
わたし、こんな坂のある街に住んでないんだっけ。
このまま坂を走り登っても、坂の上にはわたしの家はないんだっけ。
どっちだっけ?
でも……でも……
背後を振り返る。
女はまだ身体を前屈させたまま、ゆら、ゆらと身体をゆすっている。
風を受けて旗のように揺れる、女の黒いワンピース。
見ていると女は……その姿勢のままなんと、坂をゆっくりと登っている。
つまり、わたしの後を追っかけようとしている。
逃げなきゃ!!
わたしはさらにダッシュする。
夢の中なのに、ものすごく勾配から感じる負荷が強くなり、わたしの両脚を絡めとって地面に強く引き寄せる。
思うようにダッシュできない。
それでも、逃げなきゃ……
走る。走る。まるで深い泥に足をとられながら進むように、走る。
そうして坂の次の左カーブをなんとか抜ける、と……とたんに、左側の景色が開ける。
夏の強い夕陽に照らされた街が、そこから一望できた。
とても空気が澄んでいるのか、はるか向こうの山脈までくっきりと見える。
「わあ……」
まるでバカみたいだけど、夢のなかでわたしは「わあ」とか「わわわ」とかしか、そんな声しか出せない。
わたしがなぜ「わあ……」と言ったのかといえば、そこから見えた景色があまりにも美しかったからだ。
ミニチュアのように眼下に広がる、夕陽に照らされた街なみが美しかったのはあたりまえだが、それよりもはるか向こう、山の向こうに消えようとする真っ赤な太陽を囲むように、虹が見えた。
そう、巨大な虹が見える。くっきりと。
わたしは立ち止まって、その虹を見つめる。
背後から追ってくる女のことは、もう忘れている。
遠くで犬が吠える……あれはたぶん、柴犬のこむぎの声だ。