03.家族になります
リュジとカイネは私に食事を渡してすぐ、父親であるミュートス辺境伯に呼ばれたこともあり、出て行ってしまった。二人が名残惜しげに私の部屋から出て行く姿を見送ってから、私は二人が料理人に沢山指示して作らせたらしい食事を口に運ぶ。
柔らかく煮られた穀物は、喉通りも良くて、すっと胃に落ちていくような心地がした。美味しい。胸の中が、少しずつあったかくなっていく。それと同時に、混乱していた思考も、少しずつ落ち着きを取り戻していくようだった。
前世と、今世。考え始めると僅かに痛む頭に指を当てて、私は部屋の中をじっくりと見る。
客間、だろうか。ふかふかのベッドに、干したての布団のにおい。クローゼットや化粧台が大きな部屋の少しだけ隅の方に置いてある。ベッド近くの窓は軽く開け放たれていて、そこから優しいにおいがそっと香ってくるのがわかった。
食事を終えてから、ゆっくりと立ち上がる。化粧台の傍に行くと、幼さを残した少女の姿が映った。
泥にまみれていた衣服は、違うものに着替えさせられている。少しだけゆったりとした作りの寝間着は、私には大きい。袖から手の平を出しながら、私は鏡をじっと見つめる。
まろみを帯びた頬に、柔らかそうな唇。目はぱっちりとした二重で、少しだけつり目がちだ。腰まである髪の毛は濃い紫色。母に似た色だ。瞳には薄緑色が滲んでいる。これは、父に似た色。
可愛い、女の子だ。何度も鏡で自分の姿を見ているはずなのに、どうしてか凄く新鮮に思える。鏡を見ながら頬をぺたぺたと触り、私は小さく息を吐いた。
年は十歳。だからか、体に明確な変化はあまり出ていない。背が伸びる時の骨の痛みがきつくて、何度か泣きながら母のところへ向かった思い出がある。母はたおやかな手の平で、ゆっくりと私の足や腕を撫でてくれた。
それが心地よくて、私はいつも、母の部屋を訪ねるといつのまにか寝てしまっていた。そんな私を部屋へ戻すのは父の役割で、何度その優しい腕の中でゆるく意識を取り戻したのか、数えられないくらいだ。
まるで走馬灯のように思い出が蘇る。また少しだけ涙が登ってきて、私は慌てて手の平で眦を拭いた。
鏡面から視線を逸らし、窓の近くへ向かう。ミュートス領は、イストリア帝国の北部に鎮座する。他国との国境が近いこともあって、少し視線を遠くへやると、国と国の境を示すように鎮座する山脈が見えた。
じっと外を見つめていると、不意にノックの音が耳朶を打つ。振り向いて答えを返すとほとんど同時に、扉が開いた。
扉の向こうにはリュジ、カイネ、そして――ミュートス辺境伯タリオン様が立っている。
ミュートス辺境伯は、現在、騎士団長を務めている。壮年の男性で、リュジとカイネの父親だ。僅かに白髪の交じる髪に、薄く整えられた髭。沢山の戦いを経たその瞳は、鋭さを滲ませながら、私を見つめている。顔立ちは、流石リュジとカイネの父親、という感じで、若い頃はたいそう女性を魅了したのではないだろうか。つまるところ、ものすごくハンサムなおじさまだ。
思わず息を飲む。それと同時に、ミュートス辺境伯は、リュジとカイネの背を押した。二人が視線を合わせて、それからゆっくりと歩いてくる。
ミュートス辺境伯は私の傍にひざまずくと、視線を合わせてきた。美しい、赤色の瞳が、私をじっと見つめる。
「メル。大変だっただろう。本当に――ケガが無くて良かった」
「ミュートス辺境伯……」
「そんな堅苦しい呼び方はやめてくれ。いつものように、おじさま、と」
ミュートス辺境伯――タリオンおじさまは、鋭い視線を朗らかに崩すと、柔らかく笑った。そうして、私の体を一度抱きしめると、「聡明な君なら、もう理解しているかもしれないが」と、滔々と言葉を続ける。
「カタル伯爵のお二人は……、創世神エトルのお膝元へ向かってしまったようなんだ」
「……」
死んだ、ということだろう。わかっている。投げ出されて、泥にまみれて、父母に縋ったとき、二人の死を見た。
私が起きた時も、そしてご飯を食べる時も、二人は出てこなかった。別室で医師に診られていると聞いたが、部屋を分けられている時点で、正直絶望的な状況なのだろうと認識していた。だから、覚悟はしていた。
ただそれでも、私の――メルの心が、僅かに揺らぐ。まるで悲しみを訴えるように、じんわり、じんわりと涙をこぼすのがわかった。
「……そう、なんですね」
「お二人の愛が、君を生かしたんだ。どうか、そのことを忘れないでくれ」
タリオンおじさんの言葉に小さく頷く。指先が震えた、瞬間、私の手の平を誰かが握った。顔を上げると、眦を赤くしたままのリュジに出会う。
「今日からは、俺達が、メルの家族だ」
「えっ……?」
「こら、リュジ。メルが驚いているだろう。こういうのは順を追って――話すべき、なんだろうけれど」
カイネが小さく笑う。彼も軽く膝を折って、私を見つめた。美しい碧眼が、慈しむような、そんな彩りを宿して私を見る。
「メル。良ければ――なんだけれど。私の妹になってくれないかな?」
「妹……?」
思わぬ言葉だった。一瞬だけ息を飲む。カイネは、私の手の平に、リュジと同じように触れた。そうして、ぎゅうっと手の平で抱きしめるようにする。柔らかくて、優しい手つきだった。大切な物を壊さないように、そっと触れるような――そんな、触れ方だ。
「兄上の妹ってことは、俺の妹でもあるからな」
「リュジはメルより年下だから、姉だよ」
「妹だ! だって、弟だったら姉を守れないだろ」
「そんなことはないような……ねえ、父上」
カイネが困ったように言葉を続ける。タリオンおじさんが小さく笑って、そうだな、とリュジの頭に手をやった。がしがしと強引に撫でられて、リュジが悲鳴のような声を上げる。
家族を失ってしまった私を、どうやら、ミュートス家の人々は、家族にしてくれるつもりのようだった。
「か、家族、……ですか?」
「そう。家族。――元々、家族ぐるみの付き合いをしていたのだから、問題はないはずだろう?」
タリオンおじさんが皺を寄せて笑う。
「……家族……」
「もちろん、私のことを父と呼ぶ必要はない。おじさん、で結構だ。君の父母は、他にきちんと居るのだから。けれど、それでも。――たった一人は辛いだろう」
静かな声だった。沢山の感情がこもった声音が、じん、と胸の奥を濡らす。
喉の奥に、沢山の感情が詰まって、言葉にならない。小さく息を漏らす音が、そのまま涙声のように、その場に響いた。
それが私の、答えだった。
カイネがほろ、と相好を崩すようにして微笑む。彼は私の手を握ったまま、言葉を続けた。
「メル。これからは私の妹だね。兄様、と呼んでくれると嬉しいな」
「俺のことも。俺のことも、兄上って呼んで良いからな」
「……諦めないね、お前も」
呆れたような声がカイネの口から漏れる。それに少しだけ笑って、私は、同じように、少しだけ、泣いた。