なろうの端っこで自己愛を叫ぶ
書き上げてみて、これは分かりにくいし、恥ずかしいぞ、これ。ってなりました。
意味不明と共感性羞恥を覚悟してお読みください。
つまりはブラバ推奨(なら書くな)
でも投稿しちゃう、だって乙さん(おっさん)だもの
はい、意味不明なタイトルですいません。
創作論(笑)な話だと思います。
とある方のエッセイに感想を書きにいき、返信を貰って、失礼を承知で返信にアンサーを返したら、丁寧な返信をまた頂き、「あれ、これは返事をしたいが終わらなくなって迷惑になるぞ」って思ったので、投稿することにしました。
まあ、簡単に言えば、私の芸術に対するスタンス、表現や創作に対する考え方の話です。
何度かは話しているんですが、私の創作は何処までも「自分の見たい、読みたい、聴きたい」ものなんですよ。自分が求めてる表現とは何かを突き詰めて、外側から削り落として行って、形にしていくんですね。
なので、私の作品は「私自身の具現化」に他なりません。私があったらいいなと思うイラストや小説を創るわけです。
ただ、結果として技量不足や知識不足から、己が求めている水準に達しないために研鑽を積まねばなりませんし、時には失望することもあります。
自分と向き合って、今、この時に創れる最高を魂から削り出すことが私の創作です。
だから、私の作品は私のクローンであり、私の子ですが、それを他者が見た時、その解釈が加わった時には、その方の中にあらたに「その方にとっての私の作品」が創り直される筈です。
解釈を経て作品は変容しますが、それは当たり前のことですから、私の作品で影響を与えることが出来て楽しんだり、励みになるなら、これ程嬉しいこともない。
自分が大好きで最高にカッコいいと思うものを、どんな形であれ、「これいいねっ」と言って貰えたら、そいつとは旨い酒が呑めそうだっ! いや、むしろ呑んで語ろう、酒が呑めなきゃ、麦茶でもいいぜっ! なんたって俺も下戸だからなっ! という感じの単純バカ野郎なんですよ、私(笑)
そんな単純バカ野郎なんで、自分が苦労して創り出して、自分にとって面白いとか、カッコいいと思える作品を「面白い」「カッコいい」と評価して貰えるなら、それで十分幸せですし、「こんなんダメ」と言われたら凹みますが、頑張ってもっと凄いものを作ろうと思えると思います。
結局は私は芸術だとか、アートだとか、難しく考えてない単純バカ野郎なんですよね。ただひたすらに自分の表現を模索してるだけの「オナニー野郎」なんです。それでも、そんな自分を俯瞰している客観性があるので「これは恥ずかしいぞ」ってなるところも勿論ある。そんな恥部を晒してでも表現し、それを公表することがやめられないことが、私の業なんですよ。
完全なエゴであり、そんな自己満足に対して評価をくれる優しい皆様には感謝しかない。
私の作品から、全く別の解釈が産まれ、新たな「その人だけ」の作品に変わる。それがその人にとっての「最高」になれるなら、それほど凄いことはないと思います。
例えるならば、自分が最高だと思うプレゼントを用意して、「つまんないもんだけど、自由に持っていってくれっ! 楽しめるかはわかんないけどなっ!」って配ってるようなものです。
苦労して凄いと思えるプレゼントを探しだして、丁寧にラッピングして、メッセージを添えて、でも「なんだこんなもん」って吐き捨てられた時の予防線に「つまんないもん」と言ってみたりするけど、内心は「これは最高にいいもんだっ!」なんてツボ好きなモビルスーツ乗りの末期みたいなこと言って、でも不安になりながら、そこで「これ最高だよっ!」って言ってくれる誰かと「最高」を共有して盛り上りたい、そんなロックンローラーなんですよ。ただの大人になれないバカガキが私で、成長出来ない心が、常に他者から嫌われている、利用されていると不安になるような臆病者なんです。
評価されることで自分をはじめてこの世界に固定できる。自分を削り出しても見えない己の姿を他者の評価で外枠をつくり、そこに現出させなくては安定させることの出来ない「弱さ」が私の本質なんです。
だから私はなろうの端っこで自己愛を叫ぶんです。
自分の大好きを誰かに「それでいいんだよ」って言って欲しいから。
自分の作品が誰かにとっての「最高」であってくれたら、それが私の救いになるから。
そんな私のワガママが誰かにとっての「救い」にもしなれたら、私は泣いてしまうから。
だから私はいつまでも自己愛を叫ぶんです。
まあ、一杯( ・∀・)っ旦
感想を寄越したってくださいm(_ _)m
これは感想貰わんと完結せんのです。
なんでって、恥ずかしいぞ、これ。って悶えてますから(笑)
「ダイジョブだよー恥ずかしくないよー」と慰めて欲しいワガママ馬鹿野郎なんです。
恥の多い人間なんですよ(笑)