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盗人たちの灯  作者: 久元
6/6

その6

 ぎいとどこかで音がした。ゆっくりとした軋み音――。誰かが入り口の扉を開けたのだ。アルマは座り込んだ自分の頭のすぐ横にあるエーリーンの手が、ぎゅっと握りしめられるのを見た。ヒルダが小さなかぼそい声で、「いや」と呟く。泣き声だった。彼女は唇をかみしめて、いまにも漏れ出そうとする悲鳴を抑えているようだった。

 扉の軋み音に続いて、足音が家の中に入ってきた。ごとん、ごとんと靴が木の床を打つ音。入ってきた何者かは、居間の中を歩き回り、あちこちをのぞきこんでいるようだった。アルマはもう一度、勇気をふりしぼって、衣装棚の扉の隙間に目を当てた。その直後だった。


 【それ】がすうっと寝室の中に入ってきた。


 開け放したままの扉から、足音とともに現れたのは、宙に浮かぶ小さな蝋燭の光だった。


 持ち主の姿は、見えなかった。


 否、そう言い切っては嘘になったかもしれない。部屋の中はただでさえ薄暗く、闇に慣れた目であっても何かの姿をはっきりととらえることはできなかった。ベッドも壁際の机も、何もかも、濃い闇の塊としてぼんやりととらえうるだけだ。

 入ってきた何かの姿が「見えない」のが、はたして摩訶不思議な力によるものか、あるいは単に室内の夜の暗さのためなのか、アルマは確信を持てなかった。ただ彼女が見たのは、闇の中をぽつんと小さな光がひとつ、ゆるやかに上下しながら移動している、そのさまである。

 普通の蝋燭よりずっと小さなその光は、あたりをろくに照らし出しもしなかった。ただその光の周囲に、ぼんやりとした影のようなものがわだかまりつつ移動している――そんな「気がした」。


 ごとん、ごとんと足音がして、光は寝台のほうへ向かっていった。粗末な寝台は、人が毛布にくるまって横たわっているような盛り上がりを見せている。光は寝台のそばの小さな机の上で止まった――まるで、誰かがそこに蝋燭を置いたかのように。

「神様」

 かすかな、声にもならない息でヒルダが呟いた。「神様、神様、神様」


 次の瞬間、材木を力まかせに引き裂くようなひどい音を立てて、寝台の盛り上がりがつぶれ、アルマはあやうく飛び上がりそうになった。


 二度。三度。

 引き裂かれた毛布や枕のわたが、窓から差し込む青い光の中に舞い上がる。四度、五度。めきめきといやな音を立てて、寝台全体がひしゃげていく。


 誰かが斧のような重たい武器で、寝台をめった打ちにしているのだ。アルマはぞっとした。本来ならば、あそこで横たわっているのはヒルダだった。


 激しい音のさなかに、すぐ隣でヒルダが息を殺して泣いている息づかいを感じる。彼女が口の中で呟いているのが聞こえる。


「うそ、うそ。パーベル、うそよ。うそ。パーベル――ごめんなさい、ごめんなさい、許して、パーベル。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、パーベル、許して、あたしを許して、許して、許して」


 エーリーンがおそろしい表情でぐいと顔を寄せてくると、アルマの耳にぴったりと唇を寄せてささやいた。

「その人をだまらせて!」

 激しい音はまだ続いている。いまや寝台そのものが刃物でめちゃくちゃに打たれて、まっぷたつになろうとしていた。アルマは震える腕をそろそろとヒルダの体に回し、抱きしめて、その口を手でおさえた。ヒルダがぎゅっと目をつむるのがわかった。涙がぽたぽたと手に伝わる。


 しばらくして音は止んだ。誰かの低く荒い息づかいが部屋の中に響き渡るのを、アルマは聞いた気がした。だがそれが自分のものでないという確信も、彼女には持てなかった。全身にびっしりと鳥肌が立っている。アルマはヒルダの口を抑えた片手の腕に自分の口を押し付けた。そうでもしなければ恐怖の叫びが喉の奥から飛び出しそうだった。そして少しでも声を出そうものなら、三人もろとも、目の前でぼろくずになっていった、あの毛布や枕と同じ命運をたどるのは目に見えていた。


 見えない何かが、机の上の光をもう一度取り上げた。それから蝋燭の光は、ごとん、ごとんと足音を立てながら寝室の扉のほうへと進んでいく。お願いだからそのまま立ち去ってくれと、アルマは切に願った。もう恐怖は限界で、あと少しで彼女もわめき出してしまいそうだった。

 蝋燭の光はゆっくりと衣装棚に近づいてきて、その前を通り過ぎようとして――


 動きを止めた。


 アルマは暗闇の中、目を見開き、痛いほどに唇を噛み締めた。総毛立つ感触がざあっと全身を走る。

 横に立つエーリーンの体が緊張するのをアルマは感じ取った。彼女はそろそろと、音を立てぬよう細心の注意を払いながら、腰をかがめ、守るように足下に置いていた何かに手を伸ばした。アルマはそれが何なのか頭の片隅でいぶかしんだが、恐怖のためにわけがわからなくなっていて、深く考える余裕もなかった。

 抱きしめたヒルダの体が震えている。


 外の光がすうと持ち上がる。逡巡するようにまたたいてから、棚戸の隙間から中を――


 その刹那、エーリーンがこれまで聞いたこともない金切り声をあげたかと思うと、一気に棚から外に飛び出した。同時に、何か液体が部屋の中に飛び散る気配と音がしたかと思うと、まるで獣の咆哮のような叫び声が部屋の中に響き渡った。


 ふっと蝋燭の光が消え失せた。


 ついで、何か動物のような、あるいは四つんばいになった人間のようなもののシルエットが、低い唸り声をあげながら目にも止まらぬ早さで床を這いずり、寝室を飛び出して行った。

 その影はさらに居間を駆け抜け、開け放しになっていた家の扉から、夜の中にそのまま走り去って行く。


 後には静寂だけが残された。


 エーリーンが大きく肩で息をしながら、部屋の真ん中に座り込んでいる。


 アルマは大きな息をついて、ヒルダに回していた腕をゆっくりと放した。ヒルダは放心したように、衣装棚の後ろの壁にもたれかかった。


「パーベル。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 ヒルダはすすり泣いた。アルマはその様子を見ているのが痛ましくて、エーリーンに目を戻した。


「行ったの」


 アルマが聞くと、エーリーンがのろのろとこちらに顔を向けて、頷いた。

 部屋の中には独特の匂いが立ちこめている。アルマは先ほど飛び散った液体の飛沫が腕にかかっていたのを指ですくって、舐めてみた。やはりミルクである。


「ミルクをぶつけたの」

「そう。【盗人たちの灯】は、水じゃ消えないの。ミルクでなくちゃ」


 エーリーンは頷き、気だるげに立ち上がった。


「昔、ある家に【灯】を持ったどろぼうが入ったとき、その家の女中が撃退したって言ったでしょ。その女中が最後に【灯】にぶつけて、ようやく火を消すことができたのが、ミルクだったんですって」


 このときになって、アルマはようやく、先ほどなぜ自分がミルクを取りに行かされたのかを理解した。あれは別に、エーリーンがミルクを飲みたかったからでも、なんでもなかったのだ。あれは〈盗人たちの灯〉をもつ者に彼女が対抗するための道具だったのだ。


 エーリーンはランプに火をつけると、腰をかがめ、床にできたミルクだまりから何かを拾い上げた。「ごらんなさい」と言って、ランプの灯りにかざして見せる。親指の半分ほどの長さしかない、ごくごく小さな棒状の何かだ。アルマは近づいて目を凝らした。


 それはたった一本の、はしが茶色く焼け焦げた、小さな小さな赤ん坊の指だった。



 * * * *



 ほどなくして朝が来た。ヒルダは深く心を痛めている様子だったが、アルマとエーリーンには目に涙を浮かべて何度も礼を言った。あまり深く考えすぎるんじゃないのよ、とエーリーンは言った。終わったことだし、仕方なかったんですよ、とアルマも言った。ヒルダはうつむいていた。

 その後、一週間ほどたってヒルダは仕事に出始めたようだった。アルマが顔を合わせた時には、働き者の彼女らしく、夫がいなくなっても気丈にふるまっていた。だが表情には濃い影が落ちたままだった。見るたびに痩せていくような気もする。

 時間がかかるのだろうな、とアルマは思う。元気になってほしいと、もう願うことしかできない。


 エーリーンは数日後の午後、ふたたびロバートの雑貨屋を訪れた。この間はありがとう、とアルマはていねいに礼を言ったのだが、エーリーンはろくに返事もしない。代わりに「これからあたしに付き合って」ときた。


「えっ、付き合うって何に?」

「いいから。ヒルダのことがあったときに約束したでしょ」

「ちょっと待って、そんないきなり。わたし店番してるんだけど」


 アルマは困惑したが、エーリーンは取りあわない。「約束をまさか破らないでしょ」などと、アルマが着いてくるのは当然だと言わんばかりだ。

 アルマは仕方なく、奥にいる店の女主人エマに声をかけ、頭を下げて、店を離れても大丈夫かと聞いた。幸いエマは手を離せない用事をしているわけではなかったらしく、しばらく外出する許しが出た。

 どこへ行くつもりかと何度尋ねても、エーリーンは答えなかった。やがて市壁を抜けたところで、アルマはようやく悟った。


 共同墓地だ。

 あの、哀れな女性の死体が掘り返され、

 胎児が取り出された、共同墓地。


 暴かれた墓は墓守の手によって埋めなおされたらしい。寺院とつながりのない人間たちが埋められる区画の一部に、土が生々しく黒っぽい色を見せている場所があった。この区画に埋められる者には墓標すら立てられないことがよくある。例の妊婦も同様で、そのやわらかく湿った土の色以外には、凶行が行なわれたことを示すものも、誰かがそこに眠っていることを示すものすらも、何ひとつ残されてはいなかった。


「埋めてあげるの」


 アルマは尋ねた。

 ええ、とエーリーンは近くに落ちていた木切れを拾いながら答えた。


「地獄にも、天国にも、人の世にも居場所がないなんておかしいんだわ。だからせめて、ね」


 埋め戻された土のすぐ近くに深めの小さな穴を掘ると、エーリーンは懐から紙包みを取り出し、中から土気色に変色した小さな指を取り出した。穴の中にそっと入れてやる。

 アルマもエーリーンから木切れを受け取り、近くの土を静かにかけた。

 

「おやすみ、赤ちゃん。お母さんと一緒にね」


 長いまつげをふせて、エーリーンが呟いた。


 それからふたりは連れ立って、西の陽で橙色に染まりつつある遅い午後の道を、ゆっくりと歩いて行った。





【作者注記】

 〈盗人たちの灯〉は、アイルランド、イングランド、オランダおよびドイツなどで語り継がれる伝承です。ヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』にも言及があります。本作では、各地の民話をつまみ食いするようにして使っています。。。

 広くヨーロッパに伝えられる〈栄光の手〉と呼ばれる魔術道具があるのですが、〈盗人たちの灯〉はこれが民話文化に入って変形した亜種と言えます。本作にあるように〈盗人たちの灯〉は盗賊が使うもので、子どもや胎児の指から作られます。一方、〈栄光の手〉は死刑囚の手全体を切り落とし蝋化させて作ると言われ、黒魔術の儀式の成功確率を高める効果があると伝えられます。


 本作執筆にあたり、主に参考にしたのは以下の文献およびオンライン・リソースです。


F. Baker (1888) “Anthropological notes on the human hand,” American Anthropologist, Vol.1, No.1, pp. 51-76.

D.L. Ashliman, “The Hand of Glory and other legends about human hands”

(https://www.pitt.edu/~dash/ashliman.html)

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