その5
ヒルダの家はロバートの店の前の通りを終わりまで下って、少し歩いた場所にあった。三階建ての建物の一階が彼女の家で、上には別の家族が住んでいるという。夫婦ふたりが暮らしていた家はこじんまりとして狭く、戸口を入ってすぐの居間には、どこかじめっとした空気が漂っていた。
エーリーンは落ち着きのない様子で、暖炉をじろじろ眺めたり、窓枠を触ってみたり、かと思えば隣の寝室を勝手にのぞきこんだりしている。人数分のマグと水を用意してきたヒルダが、不可解そうに、ちらちらとその様子をうかがっていた。
たといややこしい事態といえども、亡くしたばかりの夫とふたりで使っていた寝室に、見知らぬ他人に土足で踏み込まれるのは気分のいいものではあるまい。エーリーンのふるまいは無遠慮にすぎるような気がして、アルマはたしなめるように、「エーリーン」と名を呼んだ。
するとエーリーンは振り返って、こちらに戻って来たかと思うと、水の入ったマグを見て眉を寄せた。
「ミルクがほしいんだけど」
「ミルク?」
「そうよ。ないの?」
「あいにく、今切らしてて……ごめんなさい」
「じゃあ、もらってきて」
高飛車な物言いである。アルマは語調を強め、もう一度「エーリーン」とたしなめた。だがエーリーンはアルマを無視した。
「早くしないと、深夜になっちゃうわ。上の人か隣の人か、誰かくれるでしょう?」
アルマは溜息をついて立ち上がった。「わたしが行きます、ヒルダ」
アルマのノックに応えて、扉から顔を覗かせた上の階の住人は、三十代半ばの太った女だった。ミルクをわけてくれという見知らぬ人間の申し出に面食らったようだったが、アルマがヒルダの名前を出すと、ちょっと待っていろと言って奥に引っ込んだ。しばらくして女は、半分ほどミルクで満たされた水差しをこちらに渡してよこした。そのスカートの影から、まだ年端もいかない子どもがおっかなびっくりこちらをうかがっていた。
ミルクを持ってヒルダの家に戻ると、ヒルダとエーリーンが何やら寝室でごそごそやっているところだった。見れば、二人は衣類やら毛布やらを引っ張り出して寝台の中に押し込んでいるのである。
「何してるの」
エーリーンはアルマの声に振り返ると、質問にもろくに答えず、「ああよかった」と言って、水差しを受け取った。マグにミルクを少しついで、一口飲む。ただエーリーンがミルクを飲みたいがために、自分は見ず知らずの奥さんにミルクをもらいに行かされたのだろうかと、アルマはあきれた。
「いい、さっき言ったわね、ヒルダ」
ミルクの水差しを横に置いたエーリーンは真面目な表情で、
「今晩はベッドで寝ないのよ。かわりに囮を入れたわ。あたしたちが入るのは、あそこ」
どうやら、エーリーンとヒルダが寝台に詰め込んでいたのは「囮」であるらしい。エーリーンが指差した方向を見れば、衣装棚がある。ぎゅうぎゅうに詰めれば二・三人が入れないことは無いかもしれないが、どう見ても足をゆったり伸ばせるスペースはない。
「何があっても、絶対に声を出しちゃだめよ。身動きもしちゃだめ」
有無を言わせぬ口調でそう言い放つと、エーリーンは鋭い目で窓の外をちらりと見た。
そして、「そろそろね」と言った。
居間と寝室の灯りを消すと、あたりは真っ暗になった。家具をひっくり返さないよう、そろりそろりと足を動かして、アルマとヒルダは指示された衣装棚に入り込んだ。衣服を隅に押し寄せ、しゃがみこむように並んで縮こまる。衣装棚の中は古着と毛織物の独特の匂いが立ちこめていて、あまり良い空気ではなかった。
二人の後からエーリーンが入り込んでくる。加わったのが細身の彼女といえど、大きくはない衣装棚に三人も入ると、ぎゅうぎゅう詰めで身動きもできなかった。ちょっと動けば隣の二人に体が当たるし、服や布の塊がワサワサ言う。
物音を立てるな、とエーリーンは言ったが――こんな狭い場所でそんなことが可能なのか? いや、今は音を立ててもまだ大丈夫なのだろう。問題は、
――来るかもしれないわね。
先ほどのエーリーンの言葉が頭に浮かぶ。
しかし、いったい何が「来る」というのか。パーベルは死んだと、当のヒルダがはっきり言った。彼の死体は、衛兵が運んで行ったのだと。その死体が夜中に起き上がって、ここまでやってくるというのだろうか。あるいは、パーベルのたましいが……幽霊というのだろうか? それが、ここに出没すると?
――ヒルダを連れてゆくために。
わからない。エーリーンはただ、「彼が」来るかもしれないと言った。それ以上の説明は、なにもなかった。
時刻はもう真夜中を大分すぎていた。ヒルダは奥で壁に背をもたせかけるようにして、うつむいている。衣装棚の両開きの戸は細く開いていて、しゃがみこんだヒルダとアルマのあいだに立ったエーリーンが、じいっとその間から外を見つめていた。窓際にかかっている安物のカーテンは、あまり光を遮らないようで、部屋の中に青くらい光が差し込んでいる。下から見上げたエーリーンの顔を、その光が細く細く縦に照らしていた。いつもは緑がかった灰色であるエーリーンの瞳が、その光の中で銀色に光って見える。アルマは少しどきりとした。目をそらし、自分も同じように戸の隙間から部屋の中をのぞく。――と、
ちらりと、
――何?
「しっ」
思わず身動きしたアルマが床板を軋ませたのに、エーリーンが押し殺した警句を発する。ごめんなさいとアルマは口の中で呟いて――だが、今見たものを確認するために、もう一度目をこらした。
窓だ。
カーテンの向こうに、何か――
もう一度、すっと【それ】が窓の外を横切った。
アルマは息を飲んで、家の外をただよう小さな光を見つめた。人間の胸くらいの高さだろうか。右から左に、あるいは左から右に、闇の中をかぼそい光がひとつ、行き来しているのだ。
「来たわ」
エーリーンがささやいた。衣装棚の隅で、ヒルダが息を飲むのがわかった。
アルマは唾を飲み込んだ。押し殺そうとした自分の喉の音がやけに大きく響く。
小さな光はゆらゆらと上下に揺れながら、窓の外を行ったり来たりしている。はっきりとは見えない。だが、サイズが合わなくてぴっちりと閉じないカーテンの両布のすきまから、ちらり、ちらりと橙色の光が覗くのだ。まるで誰かが蝋燭のかぼそい灯りをたよりに家の回りを動き回っているかのような光景だった。
ふと、光がカーテンのすきまの位置で止まった。
そのまま、じっと動かない。
まるで部屋の中を、そしてこの衣装棚の中を、
――見ているような。
背筋からうなじにかけて冷たいものが走り抜けるのを感じ、アルマはとっさに衣装棚の戸の隙間から身を引いた。がたんと背板が鳴る。
「アルマ!」
エーリーンの押し殺した叱責が飛んだ。心臓が喉から口の中に飛び出してきそうなほどに脈打っている。見えるわけがないと、頭ではわかっている。あちらは薄ぼんやりとはしているが、夜の光が照らす中にいる。他方、こちらは真っ暗な部屋の中の、さらに奥の衣装棚のごくごくわずかな隙間から外を覗いているに過ぎないのだ。外にいる誰かに、自分たちが見えるわけがない。それでも確かにアルマの体は、そのときはっきりとした視線を感じたのだった。