その4
その前日、金貸しが殺された話を耳にしてすぐに、ヒルダもまた強い不安に襲われた。正面の窓が堂々と壊されていたのに誰もまた目をさまさなかった、という事情だけではない。くだんの金貸しは、パーベルにもちょっとした額の金を貸していて、それが彼ら夫婦を苦しめていたのだった。折に触れては家にやってくる借金取りに、罵倒され貶められる生活が、ここ二・三年続いていた。パーバルはその金貸しのやり口をひどく憎んでおり、いつか殺してやると口走ることが日頃からよくあった。もちろん、それが本気であるわけではないと、ヒルダは思っていたわけだが。
――まさか、パーベルが人殺しなんてするわけが。
そうは思った。思ったのだが、いったん沸き上がってきた不安は容易に去ってはくれなかった。
――だって、あの装飾品と銀貨はなんだというのだ。毎日の生活だって楽ではないのに、盗み以外にどうやって、あんなものが手に入る? それにパーベルはいま働いてもいないのに……でも、パーベルが人殺しをするわけがない……。
堂々めぐりの思考をぐるぐると繰り返したのちに、ヒルダはひとつの理屈を見つけ出した。
――もしかして、彼は何かに巻き込まれているのでは。そうだ、だまされているにちがいない。きっと、自分が教えたあのまじないを誰かにしゃべってしまい、その悪い誰かの手伝いをさせられているのだ……。だとすれば、彼がなにか取り返しのつかないことをしでかす前に、一刻も早く彼を助けてやる必要があるのではないか……
筋が通っているのかも分からぬその理屈を自分自身に言い聞かせ、とうとうヒルダは街の衛兵に届け出た。夫がやったのではないと思うけれども、もしかしたら装飾品どろぼうと高利貸し殺しについて、自分の夫が何か知っているのかもしれない、と。
当番の衛兵はじろりとヒルダを見て、なぜそう思うのかを聞いた。まさか自分が夫に話した胎児の指のまじないのせいとも言えず、ヒルダは夫が金品の入った袋を持っていた、とだけ言った。だがそれは衛兵の注意をひくに十分な材料だった。衛兵は同僚を呼び、三人ばかり連れ立って、ぞろぞろとヒルダの家にやってきた。高利貸しの死体が発見されてから、二日が経った夜――昨晩のことだった。
いったん衛兵を呼んでしまうと、とたんにヒルダは後悔しはじめた。夫が人殺しなのではないかと疑った自分の薄情さを、ヒルダは責めた。優しかったパーベルの笑顔と、自分を抱きしめてくれる腕の感触が次々と思い出されては彼女を苦しめた。衛兵など呼ばなくても、ほかにいくらでもやりようはあったのではないか。
――どうか、今日だけは姿を現さないで。
そうヒルダは祈った。衛兵が諦めて帰って数日して、ほとぼりが冷めてから、何事もなく戻ってきてほしい。そして、あの装飾品や金はまっとうに手に入れたもので、どろぼうとはなんの関係もないと、そう説明してほしい……
戸を叩く音がしたのは、そんな時だった。
ヒルダは弾かれたように顔を上げた。
聞き慣れた声がした。小さい、ささやくような声。
「ヒルダ。開けてくれ、ヒルダ、早く……」
狭い部屋のなかに並んで立っていた衛兵がたがいに目くばせし、ヒルダに対し顎をしゃくってみせた。
ヒルダはよろよろと戸口に向かい、扉越しにささやいた。
「パーベル。パーベルなの?」
「そうだ、おれだ。早く開けてくれ。あまり人に見られたくないんだ」
「パーベル」
ヒルダは泣き声で言った。
「いったいどこに行ってたの? 何をしてたの?」
衛兵が後ろから彼女をつつく。早く開けて彼を入れろ、というのだ。そのときヒルダは、自分が夫を破滅させようとしているのだということを、はっきりと自覚した。
――「助けてやる」? 衛兵に夫を売り渡して? それがなんの救いになるものか、自分は夫を裏切ったのだ!
ヒルダは気が遠くなりそうなほど後悔したが、すべてはあとのまつりだった。彼女はゆっくりと扉を開いた。
転がり込むように家の中に入ってきたパーベルは、ほっと気が抜けたようにヒルダに笑いかけ、次の瞬間――目をしばたたかせて、周囲に立つ、鎧で身を固めた見慣れぬ人影を凝視した。彼の手には見慣れない大きな革袋が握られていた。それからパーベルは妻に目を戻して、言った。
「ヒルダ?」
ヒルダはもう耐えきれずに泣き出していた。
「パーベル。ごめんなさい、ごめんなさい」
パーベルの表情が、ゆっくり、ゆっくりと変化していった。顔色が桃色になり、ついで真っ赤になって、すうっとこめかみに血管が浮き出た。
殺してやる、とパーベルは一声叫んだ。そしてヒルダに向かって飛びかかってきて――
それから、何が起きたのかヒルダにはよくわからない。気がつくと自分は部屋の床にしりもちをついていて、パーベルがすぐ目の前にうつむきに横たわっていた。脇腹のあたりから床にできた血だまりが、みるみるうちに大きくなっていった。彼の手のかたわらには、どこに隠し持っていたのか、抜き身の大きなナイフが転がっていた。ヒルダにナイフで襲いかかろうとしたパーベルを、斜め後ろから衛兵の一人が槍で突いたのだとわかるまで、少し時間がかかった。
衛兵の一人がパーベルの持っていた革袋を開け、金ですと言うのが聞こえた。
――おそらく高利貸しの金庫から奪ったものでしょう――
パーベルは断続的に体を痙攣させながら、ゆっくりと頭をあげ、彼女のほうに顔を向けた。ヒルダは床を這いずってパーベルにすがりついた。泣きながら彼の体を抱き起こす。パーベルの焦点の合わない目は、彼女か、その後ろか、どこかよくわからない場所を見ていた。
そしてパーベルは呟いたのだ。
――騙したな、ヒルダ。
――殺してやる。
* * * *
「そうして死んだの、あの人」
ヒルダはショールをたぐりよせるように体にきつくまきつけた。
「衛兵たち、彼もナイフも袋もみんな、どこかに運んで行ったわ。――今朝になると、まるでなんにもなかったみたいなの。ただ床の血のしみだけ……」
言って、ヒルダは両手で顔を覆った。
「ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。あたしがいけなかった、あたしがパーベルを裏切ったからだわ。どうして衛兵のところになんて行ったんだろう」
アルマは彼女の肩をさすってやった。
「それを言っても、しかたないわ。それにパーベルがあれを――どろぼうや人殺しをしたんだったら、つかまるのは時間の問題だったのかもしれないし」
「でも、あの人あたしの旦那だったのよ。たとい何をしてたって、あたしが最後まで許して、逃がしてやるべきだったのよ。ああ、あたし、殺されるんだわ」
「……誰にです?」
眉を寄せて問うと、ヒルダはうつむいたまま唇を震わせた。消え入りそうな声で彼女は言った。
「パーベルよ」
アルマは呆気にとられ、ヒルダの肩をゆすぶった。
「落ち着いて、ヒルダ。彼は死んだんでしょう? たった今、あなたがそう言ったんじゃないの」
「ええ、そうよ。あの人、死んだわ」と、ヒルダは泣き笑いを浮かべ、
「でも、あたしわかるの。あの人、来るわ――あたしを殺しにくるの。絶対に殺してやるって、いまわのきわにそう言ったんですもの。だから、あたし、怖くて。ひとりで家にいられなくて」
アルマは当惑した。ヒルダは錯乱し、まともな判断能力を失っているようだった。無理もない、自分の密告のために夫を死に追いやってしまったのだ。どうしたものかと思案しながら、ふとエーリーンを見上げると、彼女はむつかしい顔をしてふたりの横に突っ立っていた。
「来ると思うのね。彼が」
突然の言葉に、ヒルダが驚いたように顔を上げる。
「じゃあ、来るかもしれないわね」
理屈の通らないことを呟くと、エーリーンはちらりと窓から外を見た。ヒルダを見つけたときにはまだうっすら明るかった外は、もうすっかり暗くなっていた。
仁王立ちのエーリーンにヒルダは初めて気づいたといったふうで、不審そうにアルマに尋ねた。
「この人、誰」
「……わたしの友だち。頼りになるんだ、けど」
なんと答えたものか困ったせいで、語尾が自信なさそうになってしまった。
そんな二人の会話にも頓着する様子なく、そうね、とエーリーンはひとりごちる。
「じゃあ、おうちに行ったほうがいいかしらね」
ヒルダはびくりと身をすくめた。
「うちって、だって……うちには怖くていられないから、あたし」
「確かにここやアルマの家にいたら、しばらくはやりすごせるかもしれないわ。でもずっと家に戻らないわけにはいかないし、その旦那さんがここまで追っかけてこないって保証だってないのよ」
エーリーンはいつになく厳しい声で言った。
「だったら今日、迎えうつのも変わらないわ。――出かけるわよ」