漱石忌
美鈴の髪は水に濡れていた。背中に垂れ下がった髪の毛が、ジャージを濡らしていた。美鈴がジャージを着ているのは、制服もまたずぶぬれだからである。
「あいつらのやったこと、気にしちゃだめだよ」
僕は言った。
美鈴はうなずいた。動いたのかどうかわからないくらい、小さな頷きだった。
「気にするなって言っても気にしてしまうかもしれないけれど、その、あと一二年の辛抱だからさ」
また美鈴はうなずいた。
僕はそれきり何も言うことができなかった。僕がこれ以上言葉を重ねることで、余計少女に負担を与えるような気がしたのである。空々しい言葉など、うなずくのが億劫なばかりで何の意味もないように思われた。それにこれ以上言うべき言葉も思い当たらなかった。だから僕はうつむきながら、美鈴の傍らで歩き続けた。
「ありがとう、一緒に帰ってくれて。おかげでいじめられないですむし」
美鈴は言った。
「別にいいよ」
僕は言った。それからしばらくして、こういった。
「助けられなくてごめん」
「そんな、助けてもらうわけにもいかないし」
「でも、せめて先生とかに言わないと」
「いや、いい」
「そんな、なんで」
「だって、たいしたことじゃないから」
「大したことじゃないって、バケツで水ぶっかけられることが?たいしたことじゃないわけがない」
「大したことかもしれないけど、でも先生に言ったって解決しない。だって証拠がないもの」
「証拠なんて、そんなものあるわけない」
「そう。だから無駄だよ。先生に相談したって、小池さんとか高杉君はしらばっくれるだろうし、下手したら私が注意されることにもなりかねないよ?余計に騒ぐな、たいしたことじゃないって」
僕は彼女の言ったことに対して何一つ反論できなかった。その理論はなんのミスもないくらい見事なものに思えた。僕には美鈴の言う通りなるだろうことがありありと読み取れた。よしいいところまで行ったとしても、泥沼の戦いになって終わりそうに思われた。またここまで美鈴の状況には救いがないということに泣きそうなくらい、悔しい思いがした。
「あ、もうお別れだね。じゃあね、金崎君」
「うん」
美鈴はあっさりと見えるくらいに僕と別れていった。彼女の足取りは重いものを一切感じさせることはなかった。一見すれば何事もないようだった。
しかし起ったことを考えれば、とても平然としていられるような状況ではないはずだった。
僕が美鈴に起こったことを知ったのは、放課後のことであった。下校時の洪水のごとき人の流れはとうに終わり、静かになったころ、僕はトイレのそばを通りかかった。部活動のために美術室に移動する途中だった。ほかの人たちよりも移動が遅かったのは、筆箱をなくしたためであった。筆箱は探してみたものの、ついに見つからず、やむを得ないからそのまま教室を出たのである。
その時、女子トイレの方から大分大きな声が聞こえてきた。
「ホントブスだね、あんた!」
「ほら、鏡見て、鏡!」
「なんていうの、この、暗いっていうか」
「貞子みたいだよね」
「そうそれ!」
複数の女子による笑い声が聞こえた。
「ねえ、この子の不細工な顔、何とかしてやんない?」
「どうする?整形?」
「いや……」
「じゃあ、洗顔にしよっか!」
「あ、いいねそれ!」
「ねえ高杉、バケツに水くんで」
高杉、という名前を聞いた時、男子が女子トイレにいるのかという驚きを感じたのを覚えている。よくもはいれたものだ、僕は思った。
「ほら、かけてやって」
ばしゃあと水をかける音がした。本当に水をかけたのだ。人に向かって。その水のはじける音に交じって、悲鳴が聞こえた。これは美鈴のものだと思われた。
「ほら、もう一回」
また水のかけられる音。
「さっきよりブサイクになってね?」
「まあしょうがなくない?元が貞子だもの」
「ねえ、そろそろ帰ろ?ゲームしたい」
「わかった」
そうして足音がぞろぞろと入口へ向かってくるのが感じられた。ついで、小池や高杉、そして小池とよく一緒にいる松本や渡辺という女子も出てきた。
彼らは僕に一瞥を与えた。しかしそれきりだった。彼らが何も言わなかった理由は僕には明らかだった。すなわちそれは僕がこの事実を見なかったことにするだろうと信じて疑わなかったからだと。
彼らが階段を降りて、その足音も聞こえなくなった後、美鈴が出てきた。彼女はずぶぬれだった。そして僕と美鈴は二人して、教室へと戻っていった。その時僕は、文芸部へ行くのをやめたのだった。
彼女は図書館にいた。彼女が読んでいた本は夏目漱石の『こころ』だった。
「夏目漱石、が好きなの?」
美鈴は顔をあげた。そうして、こくりとうなずいた。
「どの作品が一番好きなの?」
美鈴は今読んでいる本を少しばかり上にあげた。
「もう何回も読み直した」
「そうなんだ」
「漱石読んだことあるの?」
美鈴が訊いた。
「ある。でも一番好きなのは芥川龍之介」
「どの作品が一番好き?」
「『或る阿呆の一生』」
「あの作品。晩年に書かれた作品だね」
「そう。作品の発表に至っては死後だった」
「そうなの?」
「うん」
「でもちゃんと完成してるんだね」
「なんで?」
「夏目漱石の『明暗』は未完でしょ?それが残念で。そっちはちゃんと完成していてうらやましい」
「『明暗』、未完だったんだ」
「読んだことないの?」
「ない。夏目漱石はあまり読まないんだ」
「もし『明暗』が完成していたら、それが一番好きな作品だった。でも未完だから……」
「ふうん」
「いつか、『明暗』の続きを書こうと思ってるんだ、自分で」
「そうなの?」
「うん。まだ先のことかもしれないけれど、いつかね。書いたら見せてあげようか?」
「一番で見せてくれる?」
「どうしよっかな?その時そばにいるとも限らないし。難しいかも」
その話を語っている間の彼女の生き生きとした目を、僕は今でも忘れられない。彼女を見た時、僕は美鈴のほうが、僕よりもよっぽど幸せそうに見えた。彼女には湧き立つような活力があった。それは静かなものであったが、ともすれば見ているこちらまでもが沸き立ちそうなものだった。
その日は僕が美鈴に出会った最後の日であった。
事の始まりは小池の一つの行為だった。彼女は本を読んでいる最中の美鈴の頭の上にジュースをかけたのだった。
そんな気違いじみた行為をする前、小池は読書中の美鈴にちょっかいを出し続けていた。貞子、ブス、幽霊とか、悪口を言うところから始まり、それは次第に小突いたりという体へ対するちょっかいへとエスカレートした。けれども美鈴は無視を続けた。そのあとに、小池はジュースを取り出し、先ほど言ったような行為に及んだのであった。
ジュースのオレンジ色の液体は美鈴の頭の上で飛び跳ね、頭から滴り落ち、そして本までも汚した。
美鈴は本を机に置いた。そしておもむろに立ち上がった。美鈴は小池と相対した。そして美鈴は小池の頬をはたいたのであった。
美鈴が起こった理由がジュースをかけられたから、というだけのことではないのはすぐに分かった。美鈴が読んでいた本は『こころ』だった。そしてそれは図書館のものであるはずだった。美鈴は図書館の本を汚されたことに憤ったのだ。そして自分がどれほど傷つけられても立ち上がることのなかった彼女は、一冊の本のために初めて立ち上がったのだった。
「なにすんだ、てめえ」
「おい、奈々に何してんだよ」
小池がどすの利いた声で言い、高杉は大声で怒鳴りながらやってきた。そして高杉は美鈴の胸倉をつかんだ。
僕はそうした光景を見て背筋がぞっとした。体は石にでもなったようにカチコチに固まってしまった。僕は恐怖でその場から動くこともできそうになかった。いや、動きたくなかったのだと思う。もしかしたら、そのままずっとそうだったかもしれなかった。
けれども、僕は立ち上がっていた。
「やめなよ。悪いのは小池だろ」
そして僕は言ったのだった。
高杉はこちらをにらんだ。美鈴の胸倉はつかんだままだった。
「ああ?」
美鈴が殴られないためには、まずその胸倉から高杉の手をどかさなければならなかった。そして胸倉から手をどかすための方法は、この場で思いつく限り一つしかなかった。
「頭おかしいんじゃないの、本当に悪いのがどっちかもわからないなんてさ」
僕は口角をあげながら、皮肉めいた表情でそう言った、つもりだ。本当にそんな表情ができていたとは思えない。多分顔が引きつって恐怖心を丸出しに下だけだと思う。
それでも高杉が胸倉から手を離し、僕を殴ることになるには十分だった。
それからすぐに誰かが先生を呼んできてくれて、喧嘩は止められた。けれどもそのころには僕は歯を一本なくし、顔や体中に打撲を負いながら床に倒れていた。
美鈴はそれから転校した。僕もまた、転校した。ただその前に僕は入院した。高杉によってつけられた傷を治すために。そして入院している僕のところへ美鈴がやってきた。
美鈴はその僕に対してこう尋ねた。
「どうして助けてくれたの?」
それについては何とでもいいようがあった。いじめを放っておけなかったからでも良かったし、女の子が殴られるのを見てられない、なんていうかっこつけた答えでも良かった。
「君の書く『明暗』の続きを一番に読みたかったから」
ところが出てきた理由はそれだった。
「君を助けないで嫌われたら見せてもらえない気がしたし。ねえ、『明暗』の続き、一番に見せてくれるかい?」
美鈴はただ一言、
「いいよ」
とだけ言った。
それから僕らは離れ離れになった。美鈴とは手紙をかわすことをなければ、電話でつながることもなく、そのまま過ごしていった。だからと言って美鈴のことを忘れたわけではなかった。ぼくはいつまでも、『明暗』を待ち続けていた。
そして僕の五十歳になったころ、それは届いた。その日は十二月九日、漱石忌だった。それは三百枚近くものコピー用紙にタイプされていた。
読んだ感想に関して言えば、満足いくものだった。それは夏目漱石の書くだろうものとは少し離れていたけれど、それでも面白かった。
僕はこれを読んだ時、自分が一番最初の読者であることを信じて疑わなかったし、実際そうだった。僕たちの間にあった約束は守られたのだ。漱石の『明暗』が失われた日に。