終着駅
少年はバス停の前にいた。 なぜ自分がバス停の前にいるのかわからなかった。 でも、なんとなく悲しい気持ちになっていた。バスを待っている間、体の中の熱が消え去っていくような不安を感じていた。 その不安の中で少年は少女との事について思い返していた。 もう一度少女の手を握りたい。 あの顔をもう一度近くで見たい。 あの瞳を見つめた時の感覚が忘れられない。 少女と一緒になりたい、なのに何故それだけの事が許されないのだろう。 途中で知らない男の人が歩道を歩いていて、助けを求めたくなった。 でも声を出そうとしても、喉から先に出なかった。 男の人は少年の事に気づいている素振りも見せず、歩き、去っていった。
バスが来たようだ。 よくわからないまま少年はそのまま乗り込んだ。 独特の重たい匂いがした。 なんとなく後部座席に座った。 人は誰もいなかった。 バスは太いエンジン音を発して走り出した。
バスが動き出してから少年が感じたのは、強い不安感だった。 それはこれから自分の知らない怖い何かが起こるような、そんな不安感だった。 でもそれにも関わらず、何が起こるのか全く想像できなかった。 少年は瞳をとじて、もう一度少女の事を思い浮かべた。 どうせ少女が目の前から消え去るなら、いっそのこと抱きしめたかった。 口付けを交わしたかった。 でももう遅い。全ては終わってしまった。 一度バスが走り出したら、多分もう降りられないだろう。 そして終着駅に着いてしまえば、そこですべてが終わってしまうだろう。 少年は泣き出しそうになった。 あまりも現実が厳しすぎて、受け入れるのが嫌だった。 左手の窓の外から公園が見えた。 なんとなく少女がいないかな、と思って注意して見てみたけど、誰もいなかった。その後たとえ少女がいたとしても、どうすることもできないんだ、と思って、ため息をついた。 大通りに出て幾つかの少し綺麗なマンションを通り過ぎた。 綺麗な樹木とベンチが幾つか並んだ広々とした左手の遊歩道が、印象的だった。バスに揺られながら 少年は、この人生の厳しさに不服を感じつつあった。 どうしてこんなに強く願っているのに、それほど厚かましい願いではないのに、叶わないんだろう……。 ただ少女の友達になりたいだけ、デートとかできなくてもいい、一緒の学校に行って、たまに一緒に音楽が聴けたらいい。 それなのに何故、それすらも許せないんだろう……。
大通りを抜けて建物の少ない細道に出た。 右側は林になっていてほとんど真っ暗だった。 緩い勾配の坂を何回か登った。 時々急なカーブがあった。 あの手にもう一度触れたい。白くて柔らかくて、なめらかなあの手に……。どうして僕はあの子に対して、もっと思っている事を言えなかったんだろう。 君の顔もすごく可愛い、そう言っておけばよかった。
「まもなく終着駅です」運転手がそう言った。
少年の背筋は凍りついた。 なんだかすごく怖かった。 どうにかする方法を探そうとしても全然見つからないから、それがすごく不安だった。 どうして人生はこんなに辛いんだろう? 神様に 文句を言いつけたかった。 バスのスピードが落ちていく……。 まっすぐ細道を走り抜け、そしてトンネルの中に入ったようだ。 トンネルは薄暗くて、その上、耳の中に入り込むような独特の空気の音が、絶えず響いていた。 少年はもう最後なんだから、なんとか良い思いに浸りたい、と必死に自分自身と向き合った。 自分の頭にお願いした。 最後だから楽しいことを考えよう、嬉しいことを考えよう、と。 その末に思いついたのが、光の明るさは闇があるからこそ、明るいんだ、というような事だった。 僕はずっと井戸の中にいた、始まりはいつかわからないけど、とにかく長い間、井戸の中にいた。それは不幸な事だ。 とてもとても怖くて 救いようのない絶望に思える。 でもあの時少女が来て、とても温かく感じた事、その後色々話してくれて楽しかった事、少女の家にまで行って一緒にサティのピアノを聴いて幸せな気持ちになった事、少女がかっこいいと言ってくれてとても嬉しかった事、手に触れて胸が詰まった事、瞳の奥から少女のいろいろを感じ取る事ができた事、それらは全て闇があったからなのではないだろうか、 少年はそう思い始め、それは間違いのないように思えた。 きっとそうなんだ。今あの子の顔を思い浮かべただけで、もう僕はね、涙が出そうになるんだ。胸が温かくてね、あの子の事が大好きなんだ。でもこれは全部、今が怖いからこそ、そう思えるんじゃないかな。 全部繋がってるんじゃないかな。 人生の一つの悲しみを取り出したり、一つの美しさを羨んだり、そういうのは 間違ってるんじゃないかな。 光も闇も全部繋がってて、その中から美しさをキャッチするべきなんじゃないかな。分からない。でも僕はもう少しで消えてしまうかもしれないから、あの子の温かさを全部キャッチして、ありがとう、って言いたいんだ。
少年は拳を握って勇気を振り絞って、瞳を閉じた。 そして頭の中で少女とのさっきできなかった事をやってしまおうと思った。
バスはトンネルを抜けた。気味の悪い小道に入った途端、いよいよスピードが落ちてきた。 少し先にバス停の標識があるように見えた。 少年は自分の意識に集中した。 そこには少女がいる。 二人はソファに座っていて、「マイ.フーリッシュ.ハート」を聴いている。 バスは止まってしまった。
「終点です」と運転手は言った。
少年は泣きそうになりながら席を立ち上がり、そして一歩一歩 噛み締めるように歩き出した。 少年は少女の肩に手を置いた。 そしてその瞳を改めて覗いた。 やはりそこにはいっぱい詰まっている。 それが全部教えてくれる。 彼女が優しい事とか、彼女が 好奇心を持っていっぱい質問してくれる事とか、彼女が井戸の事を心配してくれる事とか、それから……、 何か言ったらいちいち 笑ってくれる事とか。 今君が好き。 胸が温かくて、潰れてしまいそう。 少年の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。 少年は一歩一歩、歩く。 バスの扉が近づく。運転手の前に立った。お気をつけて、と運転手は言った。バスの扉が音を立てて開いた。 少年は少女の瞳を見つめ、そっと顔を近づけ、 そして唇に唇を重ねた。
少年は目を開けた。その目線の先にあるのは扉だ。いよいよ最後だと思った。 でも心の中に空洞はなかった。 少女の温もりとか、言葉とか、想いとかが、全部中に詰まっている。 少年はそれで満たされている。 だから悲しくなんかなかった。
少年は勇気を振り絞り、拳を握りしめた。そして開いたドアの 向こう側へと、足を踏み出した。
end
エンディングテーマ
「マイ.フーリッシュ.ハート」 Bill Evans
https://youtu.be/a2LFVWBmoiw