表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
井戸の少年  作者: ryota
5/7

君から離れたくない


 その夜少年は泣かなかった。

何故なら、まだこの時、事態の深刻さを彼は本当の意味で理解していなかったからだ。


 三日間少女は来なかった。

その夜直感したように、もう少女は来ないんだと思って、少年は時間を過ごした。 それでも死にたくなるような悲しみがやってこなかったのは、おそらく----たとえどんなに少なくても----常に そこに可能性があったからだろう。例えば、一週間来なくても2週間後には来るかもしれない。一ヶ月来なくても、2ヶ月後には来るかもしれない。 でもいずれにせよ、少年がそこまで待つ必要はなかった。 3日後また少女は来てくれたのだから。

少女が姿を現したのは、まだ日が暮れてない光がある時間帯だった。 その時に少年は少女の顔を初めて鮮明に---とは言ってもそれでも距離が遠いから曖昧だけど---見ることができた。

 いつもとは違う感じがする。 今日はオレンジ色の光がない。 少女はいつもと違う色合いの井戸の外側からこっちを覗いている。 シチュエーションが今までとは違ったから、少女がいるという事が上手く心に馴染まない、みたいな不自然さがあった。

 ああ、来てくれたんだ、と少年は言った。 うん、と少女は言ったけど、顔が少し曇ってるように見えた。 学校から帰ってここに来たの?「うん、そうだよ」こんな所に来ても何もないよ、家に帰った方が良いんじゃないの? 「ううん、別に大丈夫、ねえ今日もそこにいるの?一回上がってきてよ」

 まだ比較的明るいせいだろうか、本当に上がりたくなった。 目の前にある言葉を、少年は口に出してしまいたかった。 一人で 井戸から上がれない、上がれるって嘘ついてたんだ、悪いけど助けてくれないかな、でも言葉は出てくれなかった。 必死に声に出そうとしているけど、どうしても喉から外に出ない。気が向いたらそのうち出るからさ、出来ればそっとしておいて欲しいな。「ふうん、わかった。ねえ、昨日何してたの?」適当に音楽聴いてたな。 「頭の中で聴いてたの?」 うん、そうだね。「私、昨日テレビ見てた。ドッキリでさ、本当に面白かった」 ドッキリ? 「ドッキリって知らない?」 さあ、知らない。 「騙すやつ、テレビに出た芸能人とか騙してひどいことするの、すごい面白いよ。 ねえ、よかったらさ、家に来ないかなと思って、CDプレーヤーあるから一緒にサティのピアノ聴きたいなって思って」

そう言われた瞬間、少年の心は震えた。 少女と遊びたかった。そんな事が出来たらどんなに楽しいだろう、映画の世界みたいにソファとかに座って、CDプレーヤーで音楽が聴けるなんて……。 でも少年は、いい、と断った。 自分の意思とは関係なく、口が勝手に動いてるみたいで、どうしてだろう、とすごく後悔した。 井戸から出してもらえばいいじゃん……、なんでそんなことが簡単にできないんだろう……。

 「多分、今日が最後になると思う」

少年はその言葉の意味を頭の中で検討していた。「最後」という、その言葉がやけに突き刺さった。 え、どういう事?「もう来れないんだ、明日転校があって」転校?「他の学校に移るの。家を引っ越さないといけないから、だから、もうここに来れない」 その意味を理解できた少年は、胸が押しつぶされそうな苦しさを感じた。 現実感が薄れていくようだった。 今起こっている事は 頭で全て理解できているけど、心でそれを受け入れられていなかった。 だから何度も、言われたばかりのその言葉を、心の中で 繰り返した。 そして嘘であってほしいと思った。

 「もう、そろそろ行かないといけない……、家来ないの?」

 井戸から出たくて、少女と同じになりたくて、胸が潰れた。自分を自分で叩いて、外に出ようと思った。でもそな思いは完全な意識で繋ぎ止められなかった。少年は自分で自分を閉じ込めてしまった。

 「行こかな、どうしようかな、本当は行きたいんだけどね、でも、なんか足痛いし、行きたいけど、やめとこうかな」

 「遊びたくないの?」

 その言葉がナイフのように鋭く彼の胸の真ん中に食い込んだのは、その内で必死に頑張っていたからだ。少年は自分と戦っていた。平気な顔で強がっているけど、心のなかでは歯を食いしばって幸せになろうとしていた。

 「ごめん今日は行きたくない」でも少年は素直な選択を取ることができなかった。折れてしまった。

 「今日は最後だって言ったじゃん、なのにそんなこと言わないないでよ、今日しかないから来たのに…」少女はそう言うと、多分だけど、ため息をついた。「お母さんいつも家になくてずっと寂しくて、たまたま通りかかったら、ここに君がいたから、友達になろうと思って、サティのピアノの事とか話しできたの初めてだから、嬉しくて、一緒に聴いて欲しかったの…」

 そう言った後の沈黙は、少年を試していた。その沈黙は少年にこう言っていた。 これが最後だぞ、正直に言え、井戸から出たい、 でも一人で出れない、助けてほしい、君のことが好きだ、君の声もすごく好き、ほっぺたも好き、笑った時の声が好き、何でも質問してくれるのが好き、質問に答えたらいつもちゃんと反応してくれるのが好き、何でもいいから一緒に居たい、例えばソファに座って温かい何かを飲んで、ピアノを聴きたい、そう言うんだ 、言わなければ後悔するぞ、と。 もちろん少年は分かっていた 。しかし、それにもかかわらず、何も言えなかった。 少年としては選択を迫られるその時間が苦痛でたまらなかった。 苦しくなってもいいから、早く終わらせたかった。 今足が痛い、と言った。

 「嘘つき」

 言うまでもなく、その言葉は胸に突き刺さった。

「分からず屋」

 そして少女は行ってしまった。

 しばらく、その事態を正確に飲み込めなかった。 その厳しい現実は、少年の意識の外側にはずっとあったけど最初のうちは、少女がいなくなってしまった空白だけが心を大きく占めていた。 しかし時間と共に----じわじわとスポンジがゆっくり水分を吸収していくみたいに----その厳しい現実が少年の心に染み込んでいった。 数秒たった後に、もうどうにもならないという事に気がついた。

そのまま少年は頭を下げてうなだれた。 その後声を出して泣いた。 体に力が入らなくて地面に倒れ込んだ。 どれだけ頑張っても、体に力を入れることができない気がして、自分が人形になったみたいだった。 それは本当に無力な感覚だった。 何と言うか、はじめからこうなる事は全てわかっていた気がしていた。 もし神様がいたとしたら、多分、僕がこうなることはわかっていて、ずっとじっと眺めていたんだろうな、と思った。 このまま泣き続けてどうなるんだろうと思った。 涙が枯れた後、何が起こるんだろう、どこにたどり着くんだろう、自分はこの広大な世界の中で閉じ込められた一人のか弱い存在なんだ。 それはそんな無力さだった。 少年には涙を流すということ以外の選択肢が何一つないのだ。 そんな風に長い間ずっと泣いていた。その間少女の顔は一切思い浮かばなかった。 少年が思い浮かべていたのは、漠然とした広い真っ黒だった。 少女の顔が思い浮かんだのは、しばらくの時間が経った後の、辺りが真っ暗になった頃だった。


 君の顔がすごく好き。 顔ははっきりとは見えなかったけど、でも分かる気がするんだ。ほっぺたには多分くぼみがある。 もしかしたら無いのかも知れないけど、そんな気がする。 多分、それはあの子の無邪気さがそう思わせているのだろう。 どっちにしても、その微笑んだ時の頬が好き。 あの柔らかくて少し高い声をもう一回聞きたい。 その言葉の一つ一つを鮮明に思い出せることができる。 少女と見つめ合っていた時の、あの何秒かを思い出した。 それ思い出した時、胸がじんわりと温かくなる。そしてその後、少し苦しくなる。 その時少年は上に手を伸ばそうとする。 井戸の上にいる少女の方に手を伸ばす。 でも全然届かない。 そのまま少女は離れていく。 そしてもう二度と戻ってこない。 もう僕はあの子に会えないんだ……。本当はもっと君を知りたい。 少なくともあの子が勉強を嫌いなことは知っている。お母さんはスナックという仕事をしていて、あまり家に帰ってこない。 映画館へ「ロード.オブ.ザ.リング」を観に行った。 修学旅行に行ったのが楽しかった。 それからサティのピアノが好きだ。 モーツァルトの「トルコ行進曲」が好きだと言ったら、共感してくれた。 それだけじゃなくて嬉しいねと言ってくれた。僕も嬉しかった。 でも、それ以外は何もわからない。 もっと知りたい。好きな食べ物は何? 休みの日はどこに行くの? どんな服を着てるの? 好きな映画は? 少年の頬に一筋の涙が伝った。 それから少女の顔が思い浮かんで、胸が温かくなった。 それが一番大事だった。 少年にとっての少女の一番大事なところはその温かさだった。 でも 、もう少女はここに来ないし、時間と共に離れていくだけだ。それがすごく辛い。 今もこうしてるうちにどんどん少女から離れていく。 どんどん彼女の顔が頭の中で薄くなっていく。 それが嫌だ。 君から離れたくない。 もう会えなくていいから、せめて時間を止めてよ。 離れていくのを見届けるのだけは我慢できないよ。

もう一度少年は思いっきり泣いた。わんわんとしばらく泣いて、泣き止んだら、少しだけ思考の方向性が変わり始めた。

 初めから少女が現れなければ、こんな事にならなかったのではないか、と少年は思い始めた。 現に今までこんなに苦しくなることはなかったのだから。 そう考えれば考える程、その考えは正しくに思えたてきた。 人生とは、なんておかしなものなんだろう、と少年は思った。 少女は僕を苦しめるために現れたはずではないはずだ。 僕も苦しむ為に少女を好きになった筈ではないはずだ。 それに少女は、もともと魅力的で、そこに人を苦しめる要素もないはずだ。 少女はただ井戸の中を光で照らしただけだ。 でも結果的にそれが闇を深める事となった。 そんなのは納得できなかった。 なぜなら闇の深さは以前と変わらないはずだから。 今もあの時も、全く状況は同じだ。 それはどう考えたってわかる。 何から何まで全く同じなのだ。 だから少年は納得できなかった。全部同じなのに、これじゃあまるで全部違う。 少女は何もしていないし、もちろん少年も何もしていない。 自分が苦しみたいわけでもない。 ただ光が明るかった。 そしてただ少女が温かかった。 そんな風に、ただ少女を好きになった。 でも、それが全て苦しむ原因となっているのだ。 いったいどこに間違いがあったのだろう? 少女を好きになる事も仕方のない事のように思える。 今までずっと一人だったのだから。 同様に明かりを眩しく思う事も 仕方のないことだ。 今までずっと暗かったのだから。 でも現実は温かい、眩しい、そう思うことだけでは収まらなかった。 それが消えた時、もう以前のようには生活する事が出来ないのだ。 ただそれが消えただけなのに。 少年は何もしていないのに。それはとてもおかしな話だった。

 少年は少女を憎みたくなってきた。 少女のせいにしたかった 。でもずっとそう考えていると、悲しくなったてきた。 それだけは絶対にやめたほうが良い、そう思いとどまることができた。 全部この井戸のせいだ。 この暗い井戸のせいだ。 少女は何も悪くない。 絶対に少女のせいにしてはいけない。 でもこれからどうすればいいんだろう……。 これから生きていく事なんて出来ないよ。 ずっとこの状態が続くんだろう……。 無理だよ。 一体何を希望にすればいいんだろう。

 例の感覚がやってきた。 どんどん、あたりの暗闇が大きくなっていく。 みるみる内に自分の体が小さくなっていき、その存在がちっぽけに思えてきた。 少年は頭を抑え、目を瞑った。 鼓動の動きが速まり、呼吸のリズムが乱れ始めた。 自分が誰かわからなくなってきた。 この世界が何なのかわからなくなってきた。 果たしてこれは現実なんだろうか? それを確かめる様にして、少年は自分の身体を摩った。 自分の顔を指でなぞった。 壁を触った 。その後上を見た。 確かにそこは井戸で、そこには自分の身体もあった。 でもそこには感触しかない。 そこには光も色も形も、何もない。 目を瞑って、開けた。 でも目の前の風景は何も変わらなかった。 どちらにしたってただの真っ黒だ。 少年はその真っ黒の中に、何かの微妙な抑揚があるのか確かめた。 注意深く 観察してみると、微妙な井戸の壁の質感の違いによる、僅かな抑揚が、少なくともある事はあった。 少年はそれを凝視し、それにすがりついた。 完全な無ではないのだ、大丈夫だと言い聞かせるように。まるで強弱する波のような不規則な動悸を、やり過ごすのに必死だった。 少女の顔が思い浮かび、少年は実際に手を伸ばした。 でも自分の手は見えなかった。 それが悲しくてその上少女が温かくて、少年は泣き崩れた。 ねえ助けて……。 もうこれがずっと続くのは嫌だ。 きみと音楽が聴きたかった。 ソファの上に座って、サティのピアノを聴きたかった。 ねえ、今から助けに来てよ。ちゃんと言えば良かった。 井戸から出れないって。お願い、気付いて……。もう僕はダメみたい……。 君の事がすごく好き。 顔が思い浮かんだらね、涙が出てくるの。 そう思った後で もう少女が戻ってくる可能性はゼロである事を、少年は改めて自分自身に突きつけ、そしてその現実の重みを痛感した。 一瞬パニックになった。 それは少年にとって永遠の絶望だった。 もう可能性はないのだ。それはとても、 耐えられる事じゃなかった。 今のこの苦しさがずっと続く事が保証されていて、後はもうそれに耐えるしかないのだ。 少年はそんなの嫌だった。 受け入れるしかないと分かっていても、到底受け入れられそうにもなかった。

 少年は立ち上がり、壁を拳で思い切り叩いた。最初は思っているよりも痛かったけど、2、3回叩いてるうちに、その痛みに打ち勝ちたいと思っていった。 5、6回目ぐらいから、もっといけるぞ、と思った。 僕の苦しみは、僕の悲しみは、こんな物の比じゃないんだぞ。 拳の痛みはどんどんに強くなっていった。 それは炸裂するな痛みだった。 でもその割に井戸に残響する音が、小さすぎたから、なんだか割に合ってないな、と思った。 やがて意思とは裏腹に手が動かなくなった。 少年はその異常な感覚がどんなものか推し量る為、手をグーパーしようとした。 でも手が動かなかったし、痛み以外の感覚がほとんど何もなかった。 そのまま反射的に地面に座った。 意外にも苦痛の割に心がすっきりとしているのが分かった。 それから左手に何かの感触が伝わった。 少年はそれを手に取ってみた。 理解するのに数秒かかったけど、それは石の壁から割れ落ちた破片だった。 どうしようか迷ったけど 、なんとなくそれがどんな形なのかを確かめる事にした。 右手で 触ろうとしたけど手の感触がほとんどなかったから、少年はそれを首に当てた。 すぐにその破片が鋭い形をしている事が分かった 。ほぼ無意識で、少し強めにその首の部位に突き立てた。 軽い痛みがすぐにやってきた。 その痛みは苦痛でもあるにもかかわらず、 少年にとっては希望を感じさせるものに思えた。 闇に光が差したたようだった。 少女の顔が思い浮かんだ。 少年は唾を飲んだ。 そしてその破片を力強く握った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ