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井戸の少年  作者: ryota
4/7

嬉しいね

 

真っ暗になってから、少年はしばらく少女の顔を思い浮かべていた。 頬にくぼみができていたような気がする。 でも距離が微妙に遠いのと、光の強さの加減で、いつも顔がはっきりとは見えないから、正確には思い出せない。 黒い髪の毛が揺れていたの が特に思い浮かぶ。 それから鼻をすするような癖……。 胸が苦しくなった。 その面影は少年の心の中にやたら張り付いていて、しかも、どうしようもない息苦しさともどかしさを少年に与える。 小さく悶えるように、少年は足や体を小刻みに揺らした。 その夜少年はBillEvansを聴いた。 少女に恋をしてからずっと「マイフーリッシュハート」が頭の中で流れ続けている。 そのメロディーと共に少年は少女の面影の輪郭を指でひとつひとつ丁寧になぞり直した。特に少女の微笑んだ顔が忘れられなかった。 少女はいつも楽しそうに質問した。 自分を大きく見せるためについた嘘に対しても、感心してくれた。 少女はずっと自分の目を見てくれていた 。そこには、外の世界を知らない哀れな少年に対する哀れみも、見下しもなかった。 そして微笑んだ時にすっと姿を見せる、あの白い歯(多分白いと思う)が思い浮かぶ時、少年の胸はそっと握られるように息苦しくなる。 自分がその胸の息苦しさを求めているのか、拒んでいるのか、分からない程微妙な力加減で。 もう嫌だ。井戸の暗いのが嫌だ。 そう思って、井戸の外の上の方向に向かって手を伸ばす。 でも全てが真っ黒だから、どこからが内側なのか、どこからが外側なのか、その境界線すらわからない。 それでも少年は何かにすがるように、手のひらを上に向けて、ぎゅっと握って、またそっと広げる。 それを何度か繰り返す。 胸が苦しくなり、少女の顔が思い浮かぶ。 もう一度照らしてほしい。あのやさしいオレンジで、井戸の中の黒を塗り替えてほしい。 あの好奇心旺盛な無邪気な声を聞きたい。 外に出て、映画の主人公みたいにいっぱいかっこいい事して、あの子に好きになって欲しい。でも僕には外がわからないんだ。 ねえどうすればいいの? ここからずっと出られないんだよ?

 

 あれ?井戸の中が光っている…。


 井戸の中が明るくなっていた。少年は上を向いた。そこには少女の顔があった。少女はぼんやりとした顔をしていた。 少年は、今までこの明かりが なかった期間を苦しく思っていた。 少女がいない期間、孤独を感じていた。それは自分ではどうしようもないことだ。 少女がここに来なければ、その苦しみも孤独も解消できない。 でも少女が ここに来るだけで、それがすべて解消される。 だから少女が来たことに対して、嬉しく思ったり、温かく思ったりすれば、そんな自分がとても弱く、無力な存在に思える。 それはあまりにもフェアじゃなかった。 そんな自分が嫌だったから、少年は強がろうと思い、心とは裏腹に平気なふりをして、興味がないといった顔を作った。 「久しぶり」と少女は言った。 でもやっぱりその声が嬉しかった。 うん、と少年は言った。 その後二人は少しだけ見つめあった。 そこにはまた微妙なコミュニケーションがあったようだった。 その最中に、少年は自分の弱みを見せたくなかった。だから寂しいこととか、苦しかったこととかは、なるべく顔に出さずに、少女の事を好きだという気持ちだけを顔で示そうとした。 少女は微笑んだ。 少年は少し嬉しくなった。

 「また来てもよかった?」うん、全然大丈夫だよ。「家にいてもずっと暇だから、また話をしたくなっちゃった。また色々を聞かせてよ」 色々と言われても、少年は外に出たことすらもないから、その言葉は自分にふさわしくなく思えたけど、でも、そういう風に興味を持ってくれる事が嬉しかった。 別にそんな話す事ないけど、と少年は言った。 「ねえずっと井戸で生活するつもりなの?」 その質問は、少年にとってとても苦しい質問だった。 ずっと井戸で生活なんかしたくない。 でも今から出るのも怖い。 少年としては、そんな事は今は考えずに、ただ少女と触れ合いたかった。

「本当に井戸から上がれるの?」少女は井戸の上に上がれない事に気づいてるんだろうか? 仮にもし気付いていないとしても、正直に言った方がいいんだろうか? そう思ったけど、それでも自分を小さく見られるのは怖かった。 上がれるよ。そう…、と少女は言った。 そして、彼女がそう言った後、消化しきれない何かが残っているような気がした。

 「ねえ、この前はごめんね、いきなり怒って帰っちゃった」志が揺れ動いた。でも自分の弱さを見せたくなかったから、少年は軽い返事をした。 別にいいんだよ、僕の方もなんか強く言っちゃったみたいだし、全然気にしてないな、それよりさあ、本当に大丈夫なの? こんなところに来ても楽しくないでしょ?別に来なくても良いんだよ、僕ずっと一人に慣れてるし、全然平気だし。「ううん、楽しくなくないことなんてないよ。家にいても暇なんだ。テレビとか退屈だし、私が好きで来てるの」と少女は言った。 「いつもさあ、何してるの?外に出た時どこ行くの?お金とかもないでしょ?本当にやばいんじゃないの、お母さんとかいないんでしょ?そういうのって施設とかに行けるんじゃない、施設とか入ったらさあ、わざわざ食料を採取しなくても職員の人が作ってくれるしさ、そっちの方がいいんじゃないの」

 そう言われた時、周りの空気が薄まって行くような息苦しさを感じない訳にはいかなかった。 その光を前にすると、自分の存在の異常さが目立ってしまう。少女にそれを見られたくない。だから遠ざけてしまいたい。でもそうすると二度と光を見られなくなってしまう。それに施設なんて僕は知らない、ご飯を用意してくれるんだろうか?でも僕は空腹を感じない。 いっそ全てを告白してしまいたかった。 僕はね、空腹を感じないんだ。 井戸の中から一歩も出たことがないんだ。 頭の中で音楽を聴き、映画を観て過ごすだけなんだ。 そうやって毎日過ごしているんだ。 でもそんなことは言えるわけはない。

 「施設なんか興味ないな、めんどくさいって言うか、あんまり群れるの好きは好きじゃないんだ」 かっこいい、と少女は言った。 かっこいいと言ってくれて、少女が自分に対して好意を抱いている手応えを感じることができたから、嬉しかった。 元々不安な気持ちがあるから、余計に。もう井戸の外について話したりせず、このまま二人でずっと言葉を交わしていたいと思った。

 格好よくなんかないよ。ねえ、学校って楽しい?どんなことするの?そこから少女は色々な事についての話をした。 給食がおいしくないこと、勉強には興味がない事、授業中誰かと話をしたいけどみんな真面目に授業を受けているから退屈な事。 少年は訊いた。 勉強ってどんなことするの?「そうねぇ、算数とか国語とか、そっかあ学校に行ってないと知らないんだね」お母さんとかといつも何してるの? 「お母さんはいつもいない、休みの日はどっかいってるし平日は学校があるし帰ったらもうないし」

その辺りから少年は、自分と少女との距離を自覚したために、心苦しさが大きくなりつつあることに気がつき始めた。 映画の話題を持ち出したのはそのせいだ。 映画とか映画館で観るの? 「お金かかるからあんまり観に行かないけど、2年前ぐらいに一回観に行ったよ、ロードオブザリングってやつ、面白かったな。最初、音がすごい大きくてびっくりしたけど」それ僕も知ってるよ。 初めて少女と共感できるものを見つけられてすごく嬉しかった。 映画館、音大きいの? 「うん、でもだんだん慣れてくる。画面とかもすっごく大きくて、テレビで観るのと全然違うよ」少年はテレビですら観た事がないから、うまく想像できなくて、またそれによって隔たりを感じるのだった。 その隔たりを少しでも埋めたいから、今度は音楽の話をした。 音楽いつも何聴くの? 「サティのピアノって知ってる?」あーなんか聴いた事あるな、「あなたが欲しい」とか「ピカデリー」とかだった? 「うわー、すごい詳しいね、クラシックピアノなんて学校の友達に話しても 共感してくれないし、嬉しい」音楽に詳しかったから、少年は優越感を感じて、もっと続けた。 「トルコ行進曲」とか好きだな。 「あー、それ私も好き、一緒だね」と少女は言った。 うん、と少年は言った。「嬉しいね」うん、と少年。うん、とても嬉しい……。

 「本当に寂しくないの?」

 その声が少し優しくて、少年はそれにすがりたいと思ってしまった。 それでその先の可能性について思いを巡らせた。 例えば 助けを呼んでもらって井戸から出してもらうとか、それでその後にいっしょに友達になって色々な所に行くとか。 でもその後に、 やはりそれは怖い事だと思い知った。 

 そして再び現実と向い合った。 少女は髪を耳にかけて、鼻をすすった。 それから、うん、と咳払いをした。 少年はそれを眺めながら出来ればずっとここにいて欲しいと思った。 でも同時に現実についてもよく理解していた。 明日になれば少女は学校にいる、そこでは色々な勉強をしている、勉強が終わればまた家に帰るんだろう。じゃあなんでここに来るんだろう……。 そう思ったところで少年は黙り込んだ。 もう井戸から出してもらおうかな。恥ずかしいけど、仕方ないんじゃないかな。そうすれば井戸の外に出て、友達になって、学校に行って、でもそんなことは想像できなかった。 あまりにも自分には関係のない事のように思えた。 また少女と自分との間の隔たりが大きく感じて、切なくなった。 少女は少年を見つめていた。 少年は平気なふりをして、井戸の地面を手の平でなでていた。

「ずっとここに住んでいるの?」 さあ、分かんない。「ふうん」その声がなんとなく優しくて、少女を好きに思った。 でも同時に、もしかしたら少女は自分のことを哀れんで、その為にここに来ているんだろうか、と思って、切ない気持ちがより大きくなった。 その上、そこからしばらく沈黙が流れたから、その少年の考えがますます大きくなっていき、いよいよ居心地が悪くなってきた。「ねえ」

 だから少女がそう言った時、その言葉は重要な何かに触れる為のものだという気がしてならなかった。 「本当は上がってこれないんじゃないの? 本当に大丈夫? それとも私のこと嫌い? 一回でも上がってきて欲しいんだけど。 もう帰った方が良い?」   少女は少女なりに何か想いがあってそう言っているんだろうけど、少年にとっては、それはすごく重たい選択を迫られる言葉だった。 帰ってほしくない、上に上がりたくもない、もうどうしようもない。 ただ友達になりたいだけ、でもそれすらも出来ないのだろうか? いよいよ自分の置かれている状況が、深刻だという事に気がつき始めた。 いつか少女は---それも近い将来----目の前から消える。そして延々に消え去るのかも知れない。 時間と共に それは徐々に確信に変わっていった。 その事について考えれば考える程、それ以外の可能性が無いのだと自覚するしかなかった。 気がつけば、少女が手に持つ明かりも煩わしく感じていた。

 そういうことがあったからだろう、その後少女が学校の話をし始めた時、その時間がとても大切で愛おしく思えたのは。少女はクラスの問題児についての話をした。 クラスの変な子が授業中に おもらしをしたという話を少女が笑いながら話した時、少年も一緒に笑った。 少女の笑い声がなんとなく嬉しかった。それから修学旅行について話をしてくれた。「1年前に修学旅行っていうのがあってね、それはね、みんなでバスとか乗ってね、遠いところに行くんだけど、すごく楽しいよ、肝試しとかって、いい思い出になるんだ、学校に行けばいいのに、楽しいのに」少年は少女と一緒に修学旅行に行くところを想像した。 でもその風景ははっきりとした輪郭を持っていなかった。 少女の顔すらもはっきりと描けなかった。 それでもそんな風に想像しながら、井戸の中で少女の声が残響していたから、自分の体が宙に浮かんでるみたいな 不思議な心地よさを感じていた。 僕も学校に行きたい……。 「もうそろそろ帰えろうかな」

 そう言われた時、まるで見えない鉄砲に撃ち抜かれたみたいな、唐突的な悲しみを感じた。 何故かはわからないけど、もう ここで少女が行ってしまったら、彼女が永遠に消え去ってしまうような気がした。 それでも引き止める訳にはいかない。うん……、そう……と少年は言った。 沈黙の中で二人は見つめ合った 。 いつもよりはっきり少女の顔が見えてるような気がした。 「バイバイ……」 バイバイ……。

 その夜少年は泣かなかった。

  何故なら、まだこの時、事態の深刻さを本当の意味で彼は理解していなかったから。

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