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井戸の少年  作者: ryota
3/7

 「本当に住んでいるんだね」それが少女の言葉だった。 少女は昨日と全く同じように、今にも 笑い出しそうな無邪気な顔をしていた。 うん、と少年は言った。 少女の黒い髪が井戸の淵から するりと零れ落ちた。 少女はその下に垂れた髪の毛を、不安定な動作で耳にかけ直した。 少年はドキッとした。 オレンジ色の灯りが揺れた。  「嘘だと思ってた、 でも嘘つくわけないよね 、それは分かるんだけど…、 信じられなくて」

 昨日の夜寂しかった。 だからこそ少年はそれを悟られたくないと思い、明るく振る舞うと思って、 そんな心持ちで話しけた。

ねえ、大丈夫なの?

 「何が?」と少女は言った。 もう夜、遅いでしょ? その……、家族とかさ、普通は怒ったりするもんじゃないのかな?僕にはよく分からないんだけど。「大丈夫だようちのお母さん、水商売だから。 夜遅くまで帰ってこないんだ。 ヒマだからやることがなくて……、 家もそんなに遠くないし」 水商売が何なのか分からなくて、どうしても訊きたかった。砂漠で水を売っている、女性の姿を少年は思い浮かべた。水商売? 「うん、 スナックで働いてるの」お菓子?と思い混乱した。 スナック? 「スナックっていう所。 でもうまく説明できないな、 男の人とお酒を飲んでお話する仕事」と少女は言った。 「ねえ、井戸の生活について教えてよ」

 少年は自分自身について考えた。 あまりにも空っぽで、あまりにも普通じゃなかった。 だから、なるべくその話題は避けたいと思った。 でも同時に自分のことを聞いてほしいとも思った。 それで、なるべく自分が大きく見えるように話そうと思った。

 僕はね、と言った。 いつも音楽を聴いているんだ、CDプレーヤーはここにはないけど、頭の中に全部入ってるからさ、いつでも好きな時に好きな音楽が聴けるんだ。 いいでしょ? 「すごい、 いつも何聴いてるの?」 Bill Evans とかビートルズとか。「 でも、CDプレーヤーで聴いた方が、良いんじゃないの?」、 その通りだった。実際、CDプレーヤーで聴きたかった。 うん…、でもさあ 、僕は何て言うか、頭の中でかなり鮮明に音楽が聴くことできるんだ。 まるで本当に聴こえてるみたいに、って言うかさあ。「うそお、すごいね、でもご飯とかど本当にどうしてるの? お腹空かないの?」少年はまた嘘をついた。 井戸から上がって、いくらでも採取できるよ。 適当に、たとえば川とかで魚を捕ることもできるし、木に登ったら、木の実を取れるでしょ。 「うそお、すごいね、魚なんて取れないよ普通。子供なんだから」慣れたら簡単だよ。 「でもずっと井戸の中にいるなんて退屈でしょ? そう思わない? 映画館とか行きたくないの? 例えば本を読んだりさ」少女の言葉はなんだか心に刺さる、と言うか、奥まで食い込んでくる、という感じがする。 実際にその通りだった。 映画館にも行きたい、 本も読みたい。 そう思って少年はしばらく言葉をなくしていた。 また二人は見つめ合っていた。 少女の方から口を開いた 。

 「ねえ、上がってきてよ、近くで顔を見たいんだ」近くで顔を見たい、と言ってくれたことが嬉しかった。 いつも井戸の底で 物思いにふけっているこの惨めな少年に、好意を抱いてくれた少女に、好意を抱いた。 しかし同時に、少年はそこはかとない切なさを感じていた。 上に上がりたくても、僕には上がることすらできないんだ…。 ねえ、僕はね、外の世界に出ることはできないんだ…。 君たちとはね、違う世界で生きてきたんだ…。 今から上がって、同じになることはできないんだ…。

 「何黙ってるの」

 そう言った少女は微笑んでいるようだ。どうして微笑んでいるんだろう?僕は腹の底にこんな暗い想いを抱えているのに……。 その時少年の体に電撃が走った。 体が熱くなって、時間が引き伸ばされた。 時間が止まっているんじゃないかと、思う程だった。息を吸ったら、そこから濃厚な何かが入ってくるみたいだった。 オレンジ色って、こんなに明るかったっけ?恋、という文字が少年の頭の中に浮かび出した。 恋……、ラブストーリーで見たやつだ。 僕は恋をしているんだろうか? 多分そうだろう。 だってこんなにドキドキして、こんなに今までと違うんだから。

 少年がその 余韻を 感じ取るまでもなく 少女は再び言葉を投げかけた。

「ねえどうしたの?井戸から出たくないの? だってさ、そんなの寂しいじゃん」 少女はいつも分かりきったことを言う。 分かっているけど、解決できないことを言う。 それが多分複雑だったのだろう、それと、恋という現象の大きさに戸惑っていた事もあったのだろう。 少年は自分の意思とは反対の事をしてしまった 。

 「出たくないって言ってるじゃん。 同じことを何回も言わないでよ」 言ってから、やってしまったと思った。 少女に嫌われたくなかった。 こんなに好きなのに何故、その瞬間にそれが潰れるようなことを言ってしまうのだろう。 一番潰したくないと思っている、この瞬間なのに何故…。嫌な沈黙が流れた。その沈黙は二人をジャッジしていた。 その裁判人の機嫌次第で、この後どのように動いても良かった。 それはとても不安なことだった。

 「もう帰る」と少女は言った。 その裁判は悪い結果に終わったようだった。 少年はその結果を見届けた。その後すぐにオレンジ色の明かりが消えることはわかっていた。 それを先に受容した方が楽になるから、早く消えろよ、と言い聞かせた。 実際その通りに、すぐオレンジ色の明かりが消えた。 再び井戸の中は完全な黒で覆い尽くされた。 少年はその黒を噛み締めた。それは、そう簡単には受け入れ辛いものだったから、だからこそ、故意的に受け入れようと、黒と向き合った。 おかしなことに、涙が流れ始めたのはその黒に目が慣れ始めた頃だった。 少年は声を出して泣いた。 そんな事は初めての事だった。 その現象は、意思とは遥かに関係のない所で鳴っていた。 その溢れる涙は止めようとしても到底止められるものではなかった。 狭い井戸の中で、自分の声がひどく大きく残響していた。 彼はその声を聞きながら、自分の悲しみを推し量っていた。 彼女と自分との距離が、遥かに遠いことを確かめていた。 いつか涙が止まることは分かっていた。 いつかまた暗い井戸の中で、例によって音楽を聴いたり、物思いに 耽ったりするということも、分かっていた。 それは悲しいことに思えた。 少年はくるくると回るサーキットレースを思い浮かべた 。僕は一体なんのために生きているんだろう? 同じ場所で、同じ回路をくるくると回っているだけなのではないだろうか? ジャズを聴いた後はロックが聴きたくなる。 そしてロックを聞いた後は ポップスが聴きたくなるんだろう? それに何の意味があるんだよ。 その後少女の顔が思い浮かんだ。 少女は井戸の淵から落ちた髪の毛を指で耳にかけ直した。 少女は少年の顔を見つめた。 少女は何もできない少年に対して微笑んでいた。 その面影は少年の胸を絞り上げた。 少年はもう、井戸が嫌になった。 でもそれ以上に、その苦しみが消えるのが怖かった。 もう一度暗闇の中で 、平然と音楽を聴いている自分を想像するとうんざりした。 おかしいことかもしれないけれど、ずっと少女の面影に苦しめられていたかった。 でも、少年はいつのまにか泣き止んでいた。 そして音楽を聴いてしまった。 ビルエヴァンスの「マイ.フーリッシュ.ハート」だった。 皮肉な事に、そのピアノの音は少年の心の中で、今までにないくらい美しく響いていた。

 



少女が姿を現さなかったその一週間は、やはり少年にとって、辛いものとなった。 朝起きると、いつものように、とりあえず大きく伸びをして、それから手首を回し、腰をひねり、足を動かした。 疲れたらまた座って、体が疼きだすと、また同じように体を動かした。 はたからみれば、それは今までとほとんど同じ格好だったはずだ。 でも、心の中では何かが違っていた。 ほとんどそこには自主的な意思は見受けられなかった。 まるで、どこかから誰かに命令されて、それに従っているみたいだった。 息を続けているのではなく、止めらる訳じゃないかないから、嫌々継続してるみたいだった。 その最中に何度も少女の言葉が頭に浮かんだ。 「もう帰る」、その言葉には、確かなとげのようなものがあった。 初めて人と知り合い、初めてその人を好きになり、その上 嫌われたのだ。 それは中々応えるものだった。 その結果と、自分のこの普通ではない境遇とを、結びつけないわけにはいかなかった。 音楽を聴く回数は、うんと減った。 理由ははっきりとはしないけど、何かに集中していると、自分が井戸と言う母体に引きずり込まれていくと言うか、少女がもう完全に手の届かない所 まで離れてしまうような気がしていたことは、確かだった。 映画を観ても、以前のようにのめり込む事はできなかった。 以前は 自分が誰かなんて考えずに、素直に、その場に居合わせることが できたけど、もう今はできなくなったからだ。 もう今は、「少女に嫌われた井戸の孤独な少年」としての心情が、そこに投影されてしまう。 だからその映画の内容は、自分とは関係のないものに思えてしまう。

夜が来るとひどく寂しかった。 真っ黒な壁を見つめながら、少年はその黒と自分の体の境界線がわからなくなっていった。 まさか、ここまでとは思わなかった。 少女が初めて姿を現した時、それはただ単に嬉しい出来事のように思えた。 もちろんある程度は 辛くなったりすることは本能的に理解していたけど、まさかここまでとは思わなかった。 少女が現れる前と、今とでは、もうまるで違っているじゃないか。人生が決定的に変わっていた。 寝る前になると肩を揺らしながら涙を流した。 涙が流れた時、少年は自分の悲しみを正確に理解した。それと同時に、人生に対し大きな不服を訴えたい気持ちが湧き上がった。 僕の顔も声も、この環境も、何も変わっていないはずだ。 なのに少女がこの井戸の中を照らして、そして去っていき、 変わってしまったのだ 。それだけなのにどうしてこんなに人生を変えられなくてはいけないのだろうか? 納得のしようがなかった。

 

 日にちと共に、苦痛と寂しさが薄れるわけではなかった。 毎朝起きるたび、少年は一番にそのことを痛感した。 将来のことを考えると、とても不安になった。 井戸の中で、このまま一人で一生を終えのるのなら、死んだ方がマシだとさえ思った。 その中で 時折、少女のいくつかの言葉が唐突に蘇ってきた。 少年はそれを光にして、時間を過ごし続けた。 少年の心が混沌としていたのは そのせいだろう。 一方では少女が現れたことを嘆いていた、でももう一方ではその心苦しさを大事にもしていた、そういうことだ。 相変わらず寝る前になると、肩を揺らして泣いた。

 そしてまた朝がやってきた。

 

 

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