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井戸の少年  作者: ryota
2/7

少女との出会い

 

 「こんばんは」と少女は言った。

 ❴こんばんは❵、その言葉は暗い井戸の中で、非現実的な響きを持って、長い間残響していた。 本当は現実的な響きだったのに、非現実的に感じたのは、それが少年にとって初めての実際の言葉だったからだろう。 少年は上手く状況を飲み込むことができなかった。ただ少女の顔を呆然と眺めた。 本当に何が起こったんだろうと思って、上手く整理出来なかった。

 「こんばんは」少年もそう言った。 その後、すぐにその言葉が少年の心の中で反復して鳴り響いた。 こんばんは……、こんばんは……、 僕は人に言葉をなげかけた、と少年は自分で思った。

 「大丈夫ですか?」その意味を上手く飲み込む事ができなかった。

 「あ、ああ、うん…」

「助けを呼んだ方がいいですか?」なんとなくその声が優しいと思えた。オレンジ色の光に包まれた少女の顔は少し遠くて、だから上手くその輪郭を捉えることができない。 それでもそう言った少女の顔には、なんとなく好意的なニュアンスがあるように見えた。 下に垂れている黒い髪の毛が少し揺れていて、少年はそれを眺めていた。 心臓が早く動いていた。 少女は鼻をすすった。 それは少年にとって、初めて耳にするタイプの音だった。

 「いや、大丈夫」まるで自分の言葉には聞こえなかった。 よく分からないけど、 あるまじき声で、あるまじき事を言っているみたいだった。

 「でも、大丈夫じゃないですよね?」

 一瞬何が大丈夫じゃないんだろう、と思った。 その後少年は 自分が井戸に閉じ込められている、という現実について思いを巡らせる事になった。 少女は少なくとも井戸の外の世界にいて、映画の中の人みたいに生活してるんだろうな、と思った。そしてその瞬間に急激に不安になった。少女の先ほどの優しい声と、自分との距離が大きくなった。

「ううん、大丈夫」その少年の声が少し明るくて、少女との距離を縮められる気になって、変に自信がついた気がした。 それから 少年は勢いをつけるみたいに、話してしまえと思った。

「僕はここに住んでいるんだ」それから幾つかの言葉を二人は交わした。 「ここに住んでいるの?」と少女は言った。うん、そうだよ……。 「お母さんとかは、いないの?」うん、いないんだ、

と少年は言った。まるで自分自身の立場を自分で確認しているみたいに、あるいは、自分自身で自分自身を更新してるみたいに思えた。 「井戸に住んでいる人なんて初めて」まあ、そうだろうね……。「 寒くない?」 そう言われた時、少年は少し嬉しかった。 自分の孤独を理解してくれた気がしたから。 少女に少し好意を抱いた。 それと同時にオレンジ色の光が、より一層、 温かく感じられた。 胸も少し温かかった。 その感触を少年は故意的に味わっていた。 「でも信じられない、本当に住んでいるの?」 本当だよ。 「どれくらい?」 分からないなあ……、 かなり長いことずっといるかな、 自分がどれくらいここに住んでいるかうまく思い出せないんだ。 「でもご飯とかはどうしてるの?」 ぼくはお腹が空かないんだ。 少女は笑った。 少年は眺めた。 笑い声が井戸の中で残響した。 映画で何度か観た事があったが、本物のそれはまるで違っていた。 少女の笑い声が、こんなに温かいなんて知らなかった。 なんだ意外に大丈夫じゃないか、というような心情を持って、少年は自分自身に自信をつけることができた。「お腹が空かないわけなんてないじゃん」 少年は少しだけ笑った。初めて笑った自分を自分で見つめた。

 「名前は何て言うの?」と少女は訊ねた。

 少年は一瞬、虚を突かれたようだった。 何て答えればいいのかわからなかった。 君の名前は?「秘密」と少女は言った。 「ねえ、本当に助けなくていいの?」 そう言われると、安心してしまっている自分に気づきつつも、少年は返事した。 本当に大丈夫だから……。 「ねえ、もうそろそろ行った方がいい?」 少年は寂しかった。 本当のことを言うと、少女に行って欲しくなかった。 だけど井戸にいる自分がみすぼらしいと言う恥ずかしさが元々あったから、無理に引き止めようとは思わなかった。 ううん、別に大丈夫だけど。

 それで少女は立ち去ることを先延ばしにしたようだ 。少年は不思議な嬉しさを感じた。 そしてそのすぐ後に、上にあるオレンジ色の明かりが消えた時の井戸の黒について、思いを巡らせた。 少しだけ悲しい気持ちになった。 二人はまた言葉を交わした。「でもやっぱり信じられない、 井戸に住んでいる人なんて初めて。 本当にお母さんとかいないの?捨てられたとか?」 捨てられたという言葉の響きがなんだか惨めで、少年はそれを嫌に思った。 「うぅん、あんまり覚えていな……捨てられたっていう記憶はないよ。でも 一人で平気だよ、 今までずっとやってこれたんだから」と、明るいトーン言った。 「でも信じられない、ご飯とか本当にどうしているの? 一人で上がったりできるの?」  うん、 一人で上がれるよ。しばらく間を置いてから少女は言った。

 「じゃあ今から上がってきて」

 外は嫌いなんだ、ここの方が狭くて落ち着くし。 そう言ってからすぐに、少女を遠ざけてるみたいだと思って、複雑な気持ちになった。 胸の中心をそっと握りしめられているみたいな、微妙な心苦しさを感じた。それから少女の----気持ちを確かめるように----顔を眺めた。白い歯が見えている、と思う、多分。でも 確かな事はわからない。 でも、頬が上を向いていることは、おそらく間違いなかった。 少なくとも、悪い気分でもなさそうだし 、僕の事が嫌いなわけでもないだろう、と少年は思った。 その少女のご機嫌な口元を好きに思った。 今にでも何か面白いことを言えば、笑い出しそうな頬だった。

 「学校も行ってないんでしょ?」と、少女は言った。 行ってないよ、と言ってから、 少年は少女が学校に入っているところを想像し、寂しい気持ちになった。

 「友達もいないの?」 嘘をつきたかったけど、それはバレると思った。うん……。「じゃあ友達になっていい?」 大きな声で 返事しそうになり、それを自分で制した。少し間をおいてから小さな声で、うん、と言った。 少女は白い歯を見せた。 今度は確実だった。 それから彼女は一度、井戸から顔を出したのだろう、 オレンジ色の明かりが離れ、一瞬だけ中が真っ暗になった。 その時少年は無力な気持ちになり、悲しくなった。 その後また、井戸の内側がオレンジに染まった。

 「もうそろそろ行かなきゃ」

寂しかったけど、少女に嫌がられたくなかった。 うん、と少年は言った。 少女はしばらく少年を見つめていた。 少年も同じように見つめていた。 無言の微妙なコミュニケーションがあるように感じた。 「じゃあバイバイ」と少女は言い、 「うん、バイバイ」と少年が言った。

 少女が去って井戸から明かりが消え失せた。 すごく真っ黒だった。 少年は呆然としたまま、その黒を眺めていた。 しばらく少女の言葉が耳鳴りのように頭の中で残響し、オレンジ色の光が同じように頭の中にこびり付いていた。少年はその余韻を味わっていた。振り返っても、まるで現実のように思えなくて、夢なんじゃないかと、少し混乱していた。 色々思い浮かんだけど、特に少女の揺れる髪の毛が多く思い浮かんだ。とにかく少女の声が頭にへばりついていた。 柔らかくて、少し高くて、温かい気がして、 そういうのは本当に今まで自分の人生になくて、深い衝撃を受けていた。 井戸の暗闇に対して思いを巡らせたのはそのすぐ後だった。

 あれ、おかしいな、と思った。 今までこんな暗かったっけ? あれ?これがずっと続くの…。 その時に少年は、今までと何かが変わってしまったんだと、気付くことができた。 もうそこには何も聞こえていなかった。 沈黙が継続的に引き伸ばされているだけだった。 その時初めて彼は自分が今まで本当に暗い場所で生活していたんだと、本当の意味で理解することになった。 そこには可能性がほとんどなかった。 その井戸の闇を照らすことも、沈黙を埋めることも、たとえどれだけ努力をしても、できないのだ。 そこで少年は改めて自分の人生を再認識した。 今までは誰とも人と会ってこなかった。 自分が普通ではないと理解していたけど、結論は保留されたままだった。 しかし今日少女が姿を現した。 そして結論が出たのだ。 僕は普通ではないのだ……、と。 その時少年が思い出したのは、今まで自分が何度もパニックに襲われてきた過去の数々だった。 そしてその後すぐに、すぐさっき少女と会話をした事を思い出した。 少女はとても温かかったし、出来れば仲良くなりたい、自分も一緒だと思いたい、でもだからこそ、そのすぐ後、また例のパニックのことについて思い出してしまう。 そしてそうすれば、少女との隔たりを感じ、また悲しくなる。 さっき起こったことは現実の事ではなかったような気になってくる。 少年は手のひらを、ぎゅっと握りしめ、固く閉じた。 そしてもう一度開いた。それから何度かそれを繰り返した。 まるで自分がそこに存在する事を確かめるみたいにして。

 その夜、少年は何度も少女の顔を思い浮かべた。 その風景の中には鮮やかで濃厚なオレンジがあった。 少女の言葉は、はっきりと頭の中で再現することができた。 そこには鮮明な色彩と、温かみがあった。 自分が今まで思い浮かべた映画のワンシーンに比べ 、その少女の声は遥かに現実的なもので、遥かに説得力のある生命に満ちていた。 もう自分が意図しなくても勝手に顔が浮かび 、声が聞こえた。 井戸は暗かった。 少年はそれをずっと胸の中で温めていた。 眠りについてしまう間際までずっと。

 

 

 少年は目を覚ました。いつも通りの---ほとんど光とは言えないほど薄い----光の白に井戸は染まっていた。 いつもそうするように、少年は立ち上がり、大きく伸びをした。 それから上を向き 白い輪っかを眺めた。 それから胸に拳を当てた。 少女の面影が 残っているのだ。

 ---じゃあ友達になっていい--- 少年はその言葉について考えた。 ということはまた今日来てくれるんだろうか? できれば会いたいな……。 それからはいつもの事をした。 手首を回したり、 腰をひねったり、足ふみをしたり。 そうやってしばらく体を動かして疲れると地面に座る。 体が疼きだすとまた運動をする。 そして座り、音楽を聴く。 頭で色々な事を想像する。 徐々に降り注ぐ白は希薄になって行き、やがては完全な黒へと変わり果てる。また長い夜がやってくる、と少年は心を構える。  

 その夜少年が---少女が来るかもしれないことについて---あまり期待しなかったのは、そうすることによって返って苦しくなると本能的に理解していたからだ。 井戸の中の完全な黒に染まってから、少年はなるべく少女が来ることを期待せず、このまま一人で過ごすことを、意図的に何度も想像した。 大丈夫、この暗闇の中では、音楽が聴ける、映画のワンシーンを思い出すこともできる。 あの少女が来なくても平気なんだ、そう言い聞かせた。 何度も何度も、自分自身の内側に刷り込ませるみたいに言い聞かせた。

 だからだろう、しばらくの時間が経った後、再び井戸の中の一面がオレンジに照らされた時、それに対して、本当は嬉しいのに 喜んでいいのかわからないような、複雑な気持ちになっていたのは。 本当はとても嬉しかった。 井戸の中がオレンジ色に照らされた時、心臓が飛び跳ねた。 何度も何度も、その光景を頭の中で 反復していた。 何かの拍子で音が鳴った時、頭の中の色はオレンジに染まった。 何かの拍子で思考の回路が変わった時、頭の中は オレンジに染まった。 だから、実際に井戸の中がオレンジに染まった時 、それが来たんだというような既視感が、そこには大きくあった。 少年はそれを自覚しないわけにはいかなかった。

 ともかく少女がそこにいる。

 「本当に住んでいるんだね」それが少女の言葉だった。

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