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井戸の少年  作者: ryota
1/7

井戸の生活

 

 いつから始まったのかは、彼には分からない。

 彼にとってはその狭い世界が全てだった。

 

 光と闇の繰り返し。

 始まりについてあまり考えた事がなかった。終わりが来るなんて事も考えた事が無かった。それを考えるには、彼のその小さなな世界はあまりにも曖昧で観念的過ぎた。

 彼はその井戸のあまりにひどい狭さにも、あまりにも孤独な暗さにも、しばらく自覚する事さえ出来なかったのだ。


 少年は井戸の外の風景を目にしたことがなかった。 生まれた時から、彼の周囲は、暗闇の真っ黒で埋め尽くされていた。 日が昇ると光が差し込んでくるが、それはとても薄い、 貧弱な光でしかなかった。 目を刺すような眩しさは、感じることはできない。 少しだけ 彼を囲う世界のトーンが 明るくなるだけだ。 うっすらと、薄く。 まるで、淡い色の水彩画の風景のように。それはもしかすると、周りに背の高い木々が比較的に密集しているせいなのかもしれない。 でも外を見れないから、 それについての事情は 分からないままだ。分かっていることは、とにかく強い光が差さないということだけである。


 少年はその薄明かりがやってくる時間を大切にした。 この薄明かりがなかったら、僕は多分、生きていけないだろうな、と考えるのが、その暗い井戸の中のでの少年の常だった。


 もちろん少年には、自分がいつ生まれ落ちたのか、わからなかった。 母が誰なのかも、父が誰なのかも、自分の名前すらも、 わからなかった。 どうしてだろう? 深い井戸の外の世界を知らないはずだ。 なのにどうして、僕は井戸の外の世界のことについて、 想像し、 その想像の中で体験することができるのだろう……。 外に木々あるのかどうか、わからない事と同様に、そのことについても、少年は理解することができなかった。


 少年には他にも幾つかの特殊な事情があった。 例えば少年はご飯を食べたことがない。 井戸だから食べ物を収穫できないし、 作ることもできない。 少年にできることは、 頭の中で描き出した風景の中-----その中にはテーブルがある、椅子がある、 窓の外には風景もある----で、料理を食べることだ。 しかしそれは、生きていくために絶対必要な営みではなく、 それはあくまで彼の余暇的な楽しみでしかなった。少年は空腹を感じないのだ。それ故、排泄も無かった。

 また、少年は毎晩鮮明な夢を見る事もあった。

特に印象的な夢がある。ソファに座っているところから場面が始まり、その後、母なるものが目の前のテーブルにスープを運んでくる。スープが運ばれるまでの間、少年はいつもテレビを見ていた。 ソファ、テーブル、テレビ……、その部屋には他のものもいくつか置かれていた 。例えば観賞用の花であったり、CDプレーヤーであったり、掃除機であったり、時によってはギターのなどの楽器が置かれていることもあった。 でも少年は楽器に触れたことがない、いつも触れたいと思う。 鳴らせばどんな音がするんだろう……、と好奇心をもって想像もする。でも、もうもうじきスープが運ばれてくる。 ソファから離れたら、何故だかか分からないけど、母が消えてしまう気がして、それで少年はソファに座りながら目の前のテレビ、あるいはキッチンの母のぼんやりした立ち姿をじっと見つめていた。 目の前のそれが消えてしまわないように---- まるで、砂場に置かれた玩具を誰かに取られないかと心配する子供のように。 そこに自分の顔はいつもなかった。 一度鏡を見つけたことがあったけど、 不思議なことにそこに自分の顔はなかった。 あれ……、と言って、自分の頬なぞったことを覚えている。 何度か少年はその場面で飛び起きることがあった。 それ以降少年は夢の中で鏡が出てきたら、意図的に目を伏せ、足早に通り過ぎることを心がけた。

 また、彼は頭の中で映画を見ることができた。それは普通の人が想像するレベルを遥かに超えていた。 まず初めに、目を閉じ 意識を集中させる。 すると、物で例えるなら棚の引き出しのような物のイメージが幾つか浮かんでくる。 そこが一番集中力を要するタイミングだった。 その時に少年は、その引き出しを懸命に映像化する。 そうすることで----まるで自分の過去を回想するかのように----いくつかの映画の画面が思い浮かぶ。 そこで映画を選択できるわけだ。 とは言え筋道はバラバラだった。 遠い過去を、順不順に回想するようにでしか映画を見ことが出来なかったのだ。 それでもそこには色々な人の顔がある、色々な出来事がある。その風景こそが少年にとっての風景である。

そう、キッチンからスープを運んでくる母なるものの姿の像は、まさに映画の中で見た女性達だった。

 つまり、その度に母なるものの女性像が変わるのだ。彼女たちは映画に登場する人たちでしかないのだから。母なるものは少年の側にスープを置き、それからその隣に腰掛ける。少年は真っ先にスープを喉に通す。 とても温かい。その温かさの中で、いつも母とは一体何だろうと考える。 でも考えようにも、どう考えれば良いのか分からない。 それがたとえ重要な存在だとわかっているのに、それにも関わらず、それはあまりにも抽象的な存在であったから。 少年は母の方を見る。 母の表情は、まるでポットから立ち昇る淡くて柔らかいミストのように、手でつかめないような形をしていた。 少年は目を凝らす。 あなたは僕の何なの? 少なくとも胸が温かくなることは分かっていた。 そしてそれが子供にとってなければならない存在であることも。 お母さん……、と口ずさむ。 でも言葉になっていない、声が出ていない。 もう一度少年はお母さん、と言う。 母が何かを言う。 でも同じように何も聞こえてこない。 まるで精巧に仕掛けられたカラクリ人形のような口の動きが繰り返される。 少年は必死に耳を澄ませる。何としてでも、そこから何かを得たい。 自分が誰なのか、母が何なのか 、ここはどこなのか、井戸がどこなのか………。 その答えを母の言葉から探り取ろうとする。 でもいつも母は口を動かしているだけだ。 そしてそれを見つめていると、母の姿がどんどん遠ざかっていくように感じられ、鼓動が高鳴り、目を覚ます。

 初めて強い痛みを感じた時の事をよく覚えている。いつものように、その狭い空間で運動をしたすぐ後の事だった。地面に座ろうとしただけだったけど、すぐに衝撃を感じて顔をしかめた。そういう感覚は初めての事で、なんだろうと思った。足の先を少し動かせば、それと同時に強い痛みが応えた。今までは、映画で観てきた「怪我」というものをよく理解できなくて、偏見を持っていた。あれはただのポーズじゃないのかな、と。でもその時によく理解した。こんな怖い感覚だったんだ………。それから、もっと大きな怪我について考えてみた。血まみれの男がすぐに思い浮かび、ゾッとして、顔をしかめた。それからしばらくは、定期的にその姿が思い浮かんできたから、少年はその度に怖くなったし、これからずっとそのイメージと生きていくんだ、という風に構えていた。でも時間と共に、血まみれの男が思い浮かぶ事はなくなっていった。ある日少年はそれに気がつき嬉しくなった。

 一時期の話だけど、少年は自分で自分を痛めつける事にはまり込んでいた期間があった。壁を拳で強く突く、というやり方だった。痛いのにも関わらず、何故か徐々に癖になっていった。まだ大丈夫だ、と、自分自身で確認し、その先のラインを越えてしまうかも知れない恐怖感を楽しんでいた。とうとう拳を痛めた後、その行為に対する興味が消え失せ、すっかりやらなくなった。

 これも一時期の事だ。夜に少女の顔を頻繁に思い浮かべた。そうするとドキドキするし、特に、胸を細い指先で突付かれるようなあの感覚が好きで、それを求めて故意的に思い浮かべるようになった。いつも決まって金色の髪が風でなびいていて、彼女は緑が綺麗な庭先にいた。すぐ側にブランコがあったけど、想像の中で彼女がそれに乗った事はない。彼女じっとコチラを見つめ、笑っている。笑った口に入り込むその金色の細い髪と、ノースリーブのワンピースから露出した、前に組まれた綺麗な両肩、特にその二つに意識が吸い付けられる。言うまでもなく、映画の中の少女だった。すぐに少年がそれをやめてしまったのは、苦しくなったからだ。夜の事で、いつものように少女の姿を思い浮かべたその最中、突然に強い閉塞感を感じだした。よく分からないけど、頭の中の少女が月くらい遠い場所にいる気がして、その後、彼女は自分の事を笑っていたのだ、というように感じた。井戸の壁をさわったそのザラザラが、悪い何かを暗示しているみたいでこわくなった。井戸の上の外側を見上げて、その距離が絶望的に遠いものに思えて悲しくなった時、泣き出した。少女の顔に手を伸ばしたけど、すぐにそれをやめた。なんとなく、そうするべきじゃないと思った。翌朝の僅かな明かりの中で目を覚ました時の安心感を少年はずっと覚えている。昨日あれだけ怖ったのにもう今は消えているじゃないか、という拍子抜けのなかで笑ったみせた事も。

そういう幾つかの事が、あってからの事だった。 ある夜、突然少年はパニックに襲われた。 家族もののヒューマンドラマの映画について回想していた後の事だったと思う。 いつものように井戸の中は真っ暗だった。 その真っ暗闇の中で少年は井戸の地面に座っていた。 まず初め、母というものについて思いを巡らせた。 先ほど見ていた映画に登場する母を、自分の夢の中に出てきた母に重ね合わせ、そして検討しようとした。 パニックになったのはその数分後だった。 その数分間の間、どのようなことを考えていたのか、上手く説明をする事はできない。 少なくとも言えることは、今まで自分が見てきた映画の中の女性達---そう、母なるものの姿だ----が、まるでフラッシュバックするように連続的に脳裏に焼き付いていた事だ。 それがどのようなタイプの恐怖をもたらしたのかは分からない。一体どこの部分が引き金になったのかもわからなかった。 しかし、いきなり鼓動が自分の意思とは切り離されたみたいに動きを速め、上手く呼吸する事が出来なくなっていった。混乱しながら少年は、その異様な鼓動の音を自分で眺めていた。 明らかに普通ではなかったから、時間と共に悪い何かが連鎖するように、混乱は強まっていった。 貯水タンクの隅にできた小さな割れ目から滴り落ちる水を必死に止めるような形で、少年はその混乱を沈めようとした。でもそうすればする程、混乱は強まっていった。彼自身、その悪循環を自覚していたけど、それでも混乱を止めようとする事を止められなかった。無意味に立ち上がり、座り、そしてまた立ち上がった。 井戸の壁を神経質な動きで指でなぞり回した時、今自分は何をやってるんだろう、と思って、怖くなった。その後、同じように自分の顔を指でなぞった時も、出れないとわかっているのに井戸の壁をよじ登ろうとした時も、同様だった。 やがて少年は地面に諦めたように座り込んだ。 試しに体の力を抜いてみようとしたけど、自分が死んでしまうようで、どうしても力を抜けなかった。 そうなれば激しい呼吸も止まらない。別のことを考えようとして、自分が誰なのかについて思いを巡らせた。 そうすると激しい恐怖を感じた。 上手く言えないけれど、今まで見てきた映画の風景や、その中の人たちが、井戸の外から自分を見下ろしているみたいに感じた。 自分だけが違う人みたいに感じた。 どれほどの時間が経ってからの事か分からないけど、パニックは治った。

少年は深い衝撃を感じていた。もう二度と経験をしたくなかった。そんな思いですぐに、たった今起こった事について振り返っていた。 何が原因かわからなかった。 一体何が恐怖をもたらし、 そして、その恐怖が何を意味するのか、全く分からなかった。 分からなかったから、そこには飽くまで「とりあえず」という前置きがつくのだけれど、とりあえず少年は母について考えるのはもうやめようと思った。トラウマのように「母」という言葉を思い浮かべただけで心臓がまた動き出しそうな気がして、怖かった。 それから、自分が誰か考えるのももうやめようと思った。 もっと暗闇を好きになればいいんだ、そうだ、そうだ、と思って、笑ってみた。 でも顔がひきつっていることには気がついていた。 少年は頭の中で音楽を聴くこともできるので、その後、すぐ音楽が聴きたくなった。 明るいロックを聴いた。 涙がポロポロとこぼれ落ちてきた。 音符がとても優しかった。 ありがとう、ありがとう、ありがとう、と何度も心の中で叫んだ。 地面に頭をつけて 大声を上げた。 ここがどこか分からないよう、僕が誰かわからないよう、音楽が優しいよう。ありがとう……。それ以来、パニックは恒例となってしまった。


 あるいはそういう事があったからなのかもしれない 、例によってその大きな混乱が去っていった後、まさに ビートルズのメロディー を頭に思い浮かべたその矢先に、 井戸の上から物音がし、顔を上げ、そこに一人の少女とオレンジ色の明かりを確認した時、 少年の胸が今まで体験したことがなかったほど、温かくなり、絶えず揺れ動いていたのは。 それとも少年がそのようになったのは、直前の大きな混乱の事なだは関係なく、ただ純粋にその少女の持つ温かさの為だったのだろうか。 その理由がどちらなのかは少年には分からないし、確かめようもないことだった。 いずれにしても少年は その少女の顔を目にすることによって、心が すごく温かく感じていたのだ。


 そんな感覚を体験するのは本当に初めてのことだった。 それは少年にとって歴史的な瞬間だった。 今までずっと続いていた日常が、その点を境に大きく変わってしまったのだから。 少年の鼓動はひどく激しく 運動していた。 今まで頭の中で色々な人の顔を思い浮かべてきたはずだったが、しかし、その想像と実際に 目にする現実とでは、 あまりにも大きな ギャップがあった。 そのギャップのために、その後少女が声をかけてきた時、少年はうまく返事することができなかった。


 「こんばんは」 少女はそう話しかけてきた。



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