窓際
甘みを口内でガシャガシャと平べったく伸ばす。チョコレートは黒とピンクの二層に分かれていて、噛むと綺麗に割れる。その割れた両方をうまく噛めるように舌を動かしてそれを移動する。そんなことをしているうちにミホとの待ち合わせの時間になっていた。
ミホ、それは僕の恋人。今日はミホとデートに行く予定だ。でも僕はまだベッドの中から出ることができずに手を伸ばした先にあったチョコレート菓子を、おそらくなんだか神妙な顔をして食べているのだ。そんなことをしていれば、おそらく30分後くらいに電話がかかってくるだろう。僕はそれを待つ。
ベッドのすぐ横にあるローテーブルの上に置いてあった携帯が震えてそのまま床に落ちた。テーブルの上には昨日食べたままのスナック菓子の袋とコーラのペットボトルが何個も置いてある。片付けるのは面倒で放置しておいたものだ。携帯はその端に置いてあったので、そこから落ちてしまうのは何となくわかっていた。
その様子をぼんやり見ながら、僕はゲームセンターのコインゲームによくあるような感じだなと思った。それと、UFOキャッチャーにもあるなと思った。ゲームセンターには久しく行っていないなとも思った。今日は映画はやめてゲームセンターに連れていこう。携帯を拾い上げメッセージを読む。ミホからだった。“寝てる?”
僕はいつものようにすぐに電話をかける。実際僕は低血圧のせいで朝はなかなか起きれないので今日のような日と本当に寝坊している日は半々くらいだ。数回の呼び出し音の後にミホが出る。僕はすぐに悪気のなさそうな声で言う。「ごめん、今起きた」「だと思った。家に迎えに行っちゃっていい?」「うん、あと飲み物買ってきてよ」「わかった」僕は電話を切ると布団に入り直した。少し待てばミホが部屋にやってきて僕に飲み物を差し出してくれる。僕はそれを飲むけど、そうしたらミホを抱きしめてキスしてその流れで今日は一日ここにいようと思った。ミホはきっと不満そうな顔をするだろうけど僕はそれでも構わないと思った。
チャイムが鳴った。その音で僕はようやく体を起こした。鍵を開けようと玄関に向かう途中で自分がよれたTシャツの下に下着しか身に纏っていないことに気づいた。だが、ミホは飲み物の他にも今日の昼ごはんの食材も買い揃えていることだろう。だから待たせるのは悪いと思った。そして僕はそのまま足元にある衣類や手紙たちを踏まないように彼女を迎えに行った。
「何その格好」ドアを開けると彼女は笑っていた。スーパーの袋は2つあったがそのうちの1つはとても軽いものだった。僕は重たい方の袋をキッチンに置いてから、彼女が持つその軽い袋の中を覗く。そこにはゴミ袋だけが入っていた。「買い足したんだよ。そろそろだと思って」彼女はそれを開封すると、僕の横をすり抜けて部屋に入っていった。玄関と部屋の間にあるキッチンに窓はなく、日中だというのに薄暗い。僕は彼女が買ってきた食材たちをガシャガシャと広げ、冷蔵庫にしまい込む。豆腐、卵、野菜(僕の嫌いなトマトもある)、鶏肉、それから納豆。僕は目を見開いた。自分の口角が少し上がっているのを感じた。換気扇のスイッチに手を伸ばし、置いてあったタバコを吸う。ゆっくり、ゆっくり細い呼吸をする。換気扇の音は仕事の割には大袈裟な音を立てていた。時間をかけてようやく1本吸い終えたので僕は部屋の片付けを始めている彼女の方へ行き、ローテーブルの下に落ちたゴミを拾っている彼女を後ろから抱きしめた。
あまり力を入れすぎないように、と頭の中でぼんやり繰り返していた。あまり力を入れてしまうと彼女は壊れてしまうから。よく彼女は僕に「ハルカは細いから、ポキッとしたら、もうダメだよね」なんて言っていた。だが、そんなことを言いながら笑う彼女の方が僕からしたら壊れやすくて儚いものに思えた。ミホの笑い声は鈴みたいにささやかに響く音で僕の頭に切ない余韻として残る。ミホの体は相変わらず柔らかくてぴたりと僕に吸い付き、そして僕を離さない。
「ごめん、飲み物買い忘れちゃった」と彼女は白状する。ゴミ袋は買い足したのにね、と呟く。ミホが買い物袋を僕に押し付けそそくさと部屋を片付けている時点でなんとなく僕は察していたし、そんなことはどうでもよかった。僕が気にしていたのは納豆の方だった。彼女は自分のことも、他人のこともすごく気にする。僕が餃子を食べたいと言った日、次の日のために彼女は僕にだけ餃子を作り、彼女は別の料理を作って食べていた。僕に餃子は美味しいかと尋ねにこにこ微笑んでいた。僕は一緒に食べたかったと言ったけど彼女はにこにこ微笑むだけだった。
納豆という食べ物は、そんな彼女が一番人前で食べないものだった。もちろん、僕の前でもそうである。あの口にまとわりつくねばつきは彼女に全く似合わない。今までの買い物で彼女がこれを買ってきたこともなかった。僕が納豆を食べないと知っているからだ。すっかり彼女はあれを嫌っているのだと思っていた。だけど買ってきたのであれば彼女はこれを食べるし、つまり今日は映画を見る気もなく、ゲームセンターへの誘いももちろん断る気だったのだろう。
僕は彼女の体をくるりと返し、僕の方に向けた。ミホの目は丸くなっていた。少し肩を強張らせ口を開いていた。そして笑う。部屋のゴミたちはある程度片付いていた。おそらくローテーブルの下にあるゴミをゴ片付けて、ベッドの上に積まれた衣類を洗濯機に入れればだいたいいつもの部屋に戻るところだったのだろう。
僕はミホに顔を近づけた。彼女の瞳は明るい茶色でカーテンの隙間から差し込む光がそれを光らせていた。ほとんど化粧をしていない肌は僕が触れると指がするりとすべった。キスをする。愛おしいという感情よりももっと捉えがたい感情だと思った。
彼女は拒むこともなく僕に合わせた。瞼を落とし、瞳に蓋をするようにした。まつげはくるりと上を向いている。柔らかいカールのかかった黒髪が綺麗だった。白い肌と薄い唇と、すべてが綺麗で儚かった。
勢いは増して、僕と彼女の息は細く混じる。これまで頭で考えていた複数のことはどうでもよく感じ、彼女の歯の感触だけを確かめていた。そういえば僕は今日歯を磨いたっけ、とかそんなことが頭に一瞬浮かぶのだけど彼女の手が僕の服の後ろのほうを情けなく掴むのを感じて、より彼女のことが愛おしくなるのだった。
結局、僕たちは今日もまたこの部屋にいることにした。そうやって何度も何度も僕らのデートは予定変更される。ミホは僕の嫌いなトマトをふんだんに使った鶏肉の煮込みを昼食として作った。なぜ納豆は食べなくて良いというのにトマトは許されないのだ、と不満を言うと彼女はケラケラと笑った。彼女の喉の奥で歯車が回っているのだと思った。カラカラと音を立てて、そんなうふうな笑い声だった。「ハルカの困った顔を見ている時だけ、ちょっとだけ、愛されてる感じがするから」そう言うと彼女は白ご飯の上に納豆を乗せて、箸でそれを口に運び始める。小さな口の中に広く光る粒と粘ったあの茶色。僕は全くあの食べ物の良さは理解しないけどなんだか彼女が力の抜けたようにして口を動かしているのを見て満足した。
彼女が開けたカーテンからはたっぷりと日差しが注ぎ込んでいて、空気が緩やかに流れているように思えた。少し高めの位置にある小さな窓の手前にいくつか立ててある本の中に、いつのまにか彼女が買ってきたと思われる本が置いてあるのが見える。僕の置く本の大抵は小説だが、彼女の本は料理本か情報誌なのですぐにわかった。ハードカバーの小説を僕が買うのは相当なお気に入りの作品に限っていて、その本の列はその中でもお気に入りを置くスペースだった。最近新しい本を置いた時には少し埃をかぶっていた気がしたのだが、今見ると埃がないどころかサッシの隙間のあたりまで綺麗に掃除されている。
視線を自分の手元に戻す。口の中の鶏肉はしばらく居座り続けた。僕の口はすぐに動くのをやめてしまう大変なさぼり癖を持っていて、集中力もないのですぐにローテーブルの脇に置いてある携帯に手を伸ばす。ミホは自分の分が食べ終わり、食器をシンクまで戻しに行くところだった。「もう食べない?」とはじめの頃は聞かれていたな、なんてことをぼんやり考える。指を滑らせ人々の日常を見送る。僕の日々は目の前だけで完結しているけれどこの中にはたくさんの人が住んでいる。小さく開いた口からまとまって息を吐いた。
ミホが食器を洗い出す音が聞こえ始めると僕はベッドに移動した。窓の外から子どもの声が聞こえ出し、しばらくすると消えた。この辺りは住宅街で今日は土曜だから、もしかするとどこかへ出かける前に家の前ではしゃいでいたのかもしれない。だがそんなことを考えても僕には見えないので関係ない。液晶に視線を戻して、いくつかを開いては閉じてという作業を繰り返した。
気がつくとミホが僕の前に戻ってきており、僕は布団に彼女を招き入れようとした。「ご飯、もういい?」と聞かれてようやく僕は昼食の途中だということを思い出す。ミホは呆れたような顔をしてラップをキッチンから持ってくると丁寧に皿をしまい始めた。ミホの指先は細く、そして長い。華奢な手首がワンピースから覗いて薄っすらと彼女の血管が見えた。壊れそうだと思った。
彼女がこちらに戻ってくるとすぐに僕はミホを抱きしめベッドに押し込んだ。ミホはもう驚かない。抱きしめて、抱きしめて彼女の息を止めてしまおうと思った。布団と彼女をかき混ぜて、力一杯に抱きしめた。ミホは面白がってばたつくが僕は離さない。彼女が文句を言うのを途中で止めるように口を塞ぎ、口を離すと彼女は笑う。そんなことを繰り返しているうちに部屋に差し込む光の色が変わった。
「ハルカは、そんなのばっかりだよね」ミホが天井の染みを見つめながらそう言う。ミホは枕の横に置いてある彼女の携帯を取り上げ、彼女の好きなバンドの音楽を流した。スロウでピアノが印象的な音楽。僕は彼女に会うまでそんな音楽は全く聴かなかったけど聴かされるうちに何だか気に入っていたし、この曲の次に流れるインストは目覚まし用に流す曲にも選んでいた。
僕の頭のすぐ横にある彼女の頭の匂いを嗅いだ。ミホは嫌がるようにして僕から離れようとする。彼女の笑う口元を見て、僕は髪を触った。ミホの黒い髪は僕のものとは正反対で好きだった。ごちゃ混ぜにされた布団はそうしているうちに半分ほど床に落ち、冷たい空気が入り込んできた。僕はそれを拾おうと彼女の体を覆うようにしてその先に手を伸ばした。彼女の足がはみ出ないように布団を戻してまた元の位置に戻ろうとすると、ミホが涙を流していた。
僕はその涙を舌で舐めとった。塩辛さが舌先にあり、僕は彼女の頬からそれを離さなかった。何度か軽くキスをして彼女の手を握った。彼女の腕は細く華奢であるが、その時しっかりと僕の指を握り返していた。
「ハルカ」僕の名前を呼んだ。何度も何度も呼ばれた名前。鈴のような声で呼ばれた名前。僕は彼女の名前を呼び返す。彼女は僕の顔に手を伸ばして指先を唇に触れさせた。
ミホは携帯をあまり熱心にいじることはしないが、対照的に僕はよくそれを覗いていた。何となく癖になっていた。彼女が縁を切っているSNSの類に、時々変な投稿をしてやろうか、なんて考える夜がある。決まって彼女が寝息を立て始めた夜にそれは起こる。彼女が僕の家で眠って夜を過ごすことは月に5回程あるくらいなので、なんだか寝てしまうのはもったいないと考えた僕はいつも彼女が寝るのを待っていた。ミホは寝つきが悪い方なので決まって僕が寝たふりをしなくてはいけないのだけれど、そういう時に目をつぶって僕は窓際の本棚の本のタイトルを左端から思い出す作業というのをしている。時々更新されるその本たちを思い出していれば間違って眠ることもなく、そしてなかなか眠れない彼女が規則正しい息をするのもあっという間に訪れてくれる。
画面からの刺すような光で彼女は起きないか、とはじめは心配していたが何度か試しても彼女は起きることがなかった。いつものようにもうあまり動かない画面を縦に滑らせては色とりどりの世界に目を細める。『ぼくのかのじょは せかいでいちばん かわいい』僕はそう打ち込んだ。そしてその文字列を一字ずつ丁寧に消す。ミホの寝息をずっと横で感じながらそれを繰り返す。時々『ぼくのかのじょは ときどき くちうるさい』という文章に変えたりしながら朝が来る。カーテンの輪郭がぼやけて、夜がどんどん溶けてなくなってしまう。そして僕はようやく眠くなってミホを抱きしめた。
「ハルカ、今日の夜泊まってもいい?」当たり前のように僕は毎日それを望んでいるのにも関わらず、ミホがそう口にする回数はあまりないので僕はとても口元を緩めたくなった。だが僕はそうしないでただ彼女の顔に布団をかぶせてやる。そうすると彼女は笑いながら怒り出すのだ。「夜ご飯はどうする?また何か作ろうか?」布団から抜け出してミホは言った。僕は返事をしないでローテーブルの上に戻されていたリモコンを拾い上げ、テレビをつける。もう少し、こうしていよう。僕は言った。ミホの腕を掴みベッドに引き戻して、キスをした。「またそうやって」と彼女は困った顔をする。僕もまた、彼女の困った顔を愛しているのだ。彼女の眉間に人差し指を置いて、その皺を伸ばした。そうすると彼女の額はわざとらしく上がるので僕はそこにもキスをする。テレビから聞こえてくる音はちょうど彼女の笑い声に負けるくらいの音量だった。
夕方が終わって僕は今日初めて家の外に出た。クローゼットから洗ってあるスウェットをミホが取り出し僕に履かせた。ミホは部屋に来てからまだ着替えていないのでなんだか不釣り合いな格好だと思った。だがそれももう慣れたことだった。深緑色のワンピースは彼女の足首を時々ちらつかせた。ゆらゆらと揺れるスカートは彼女らしいリズムを刻んでいる。近くのコンビニに向かって僕らは歩く。マンションを出てすぐ横にコンビニはあるのだが、僕らはそれを通り過ぎて大通りへ出るとすぐにあるコンビニの方へ向かう。ミホと僕ののお気に入りのアイスは現在そこにしか売っていないのだ。
ミホがピッチのズレたおかしな歌を歌う。それは特に機嫌の良い時の歌だ。大通りを通る車は決まってスピードを出しているので少しうるさいが、それを利用してミホは調子に乗った音量で歌う。夕方はやけに通行量が多い。通り抜ける車のナンバーの地方名を眺めて、僕は彼女をほぼ無視をするように歩き続けるのだけれどそれをずっと続けると彼女が少ししょぼくれてしまうのも知っている。だから彼女の手を握る。夕方の大通り。あっという間に通り過ぎる車たち。僕らのことは誰も見ていない。
用を済ませコンビニを出て、マンションの側の道に戻ると辺りには誰もいなかった。そんなに長い時間歩いてはいないのにほとんど暗くなってしまっていたし、もし近くに誰かいたとしてもおそらく気付くこともないのだろう。さっきまでは離していたミホの手を繋いで、彼女がこちらを向くのを待つ。きょとんとする顔を目で捉えると僕は彼女の唇に軽くキスをする。そうするとミホはすぐに顔を離して、小走りでエントランスへ向かう。マンションの鍵はミホに預けているのでそれを開けるのは彼女の役目だ。ミホは振り返って僕の方を見ると口元だけを上げるようにして笑った。僕らの城。誰も見ていない僕らの城に帰る。そして僕たちは誰にも見られないその永遠の中で生きる。瞳が星のように輝いていたのはエントランスの白熱灯のせいだったが、それは世界で一番美しい輝きなのだと思った。僕の金色の髪も彼女のその輝きの眩しさには敵わない。
部屋に戻ってカーテンを閉じても、僕らは電気を付けなかった。付けっ放しのテレビに目を向けることもなく、結局ぐちゃぐちゃになってしまっている布団の中で何度もキスをした。ミホは僕の唇から首へキスを落とし、そして僕のよれたTシャツの隙間から僕の中へ侵入した。そしてなだらかな僕の膨らみを撫でた。僕も彼女のそれを探し出す。彼女はまた鈴の鳴る音を僕に聞かせる。「ハルカ」僕の名前を呼ぶ。
僕が自分のことを「僕」と呼ぶようになったのは、ミホに出会ってからのことだ。それまで自身のことは周りの大半がそうであるように「私」と呼んでいたし、今でも城の外の世界では変わらないことだ。けれど、ここは僕とミホの城だ。彼女が漏らす息さえも逃してしまうのが惜しくて僕は口を塞ぐ。「またそういうことばかり」と彼女はまた繰り返すけれど、彼女が僕の背中に回す腕の力は弱まらない。僕は彼女を愛している。そして彼女もきっとそうだ。
ミホの決心は、きっとそろそろつくのだと思った。彼女が今まで築いていた薄い膜は剥がれようとしている。スーパーの袋の中でも、暗い通りの影にも僕らの生きる道を探しているミホが、世界で一番愛おしかった。
僕は自分の胸を掴むようにして触った。「綺麗だよ」とミホは言う。僕はこれが憎いと思うけどそれでも彼女は何度も繰り返して言った。「綺麗だよ」その言葉を繰り返し丁寧に発するその唇が、僕にとって世界で一番美しい形だった。光る画面の中の世界は僕だけが見ていればいいもので、ミホには何もいらなかった。僕らは永遠に一つになれないけれど、こうして抱きしめて近づいて愛することで共に生きていけるのだと思った。そして僕らはまたキスをした。