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 「――この様にニューディール政策はケインズの理論に基づいて行われた訳です。前回も少し触れましたが、フーヴァーモラトリアムが失敗に終わった当時のアメリカでは――」

 ここでチャイムが鳴った。


 「おっと、それでは今日はここまで。次回の授業がレポート提出の期限になりますので、まだ提出していない方は次回の授業の最初に提出してください」

 教授は最後にその連絡をして、ほとんど朗読会と化している授業を切り上げ、半分も席の埋まっていない教室をそそくさと後にした。


 「えーっ、レポートとかあったっけ?マジ聞いてないし」

 俺と長机の両端に座っていた女――田沢玲子(たざわれいこ)が素っ頓狂な声を上げる。

 レポートの件は先週も言っていたし、そもそも第一回目のカリキュラムで説明していたのだが、そんな事はこの厚化粧には聞こえていない。


 「ねっ、もうレポート出した?」

 「今日出したけど」

 机に上半身を寝そべらせながら、リュックに教科書をねじ込む俺に尋ねてくる。

 彼女とは学科が違うが、この授業で一緒になってからはこうして話すこともある。

 派手好きで入念なメイクをしない日がなく、非常に社交的――より正確に言うと馴れ馴れしい――彼女と、地味で特徴のない俺との組み合わせは、傍からどう見えるのか。


 「ええーっ出してんの?マジ優等生じゃん」

 この授業は試験がない代わりに、何度か提出するこのレポートが成績に直結するため、優等生でなくとも単位の為には提出しなければならないのだが。


 「つーか何やりゃいいの?アタシ全然ノートとってねえわー、ねえノート見せて」

 本音を言えば、多分ノートではなくレポートそのものを丸写しさせてという所だろうが、生憎今日の授業に少し遅れて彼女が到着した時には、俺は既にレポートは提出済みだった。

 「ああ。次の授業の時に返してくれ」

 しまいかけていたノートを彼女に渡す。

 レポートは前回の授業までが範囲なので、今回からの内容には別に直接係ってくる訳ではないし、そもそも教科書の方に直接書き込んでいる分が多々ある。

 だがそれでも、そう言っておかないとこいつは返さないだろう。言った所で覚えているかどうかには多少の運が絡んでくるだろうが。


 彼女の第一印象はそれだ。濃い化粧といい加減な性格。

 そしてその第一印象は決して間違ってはいなかった――少なくとも俺の知る限りは。


 「おーありがとー」

 受け取ったノートを自身のバッグにしまいながら、それまでノートで塞がっていた筈の右手に西部劇のガンマンもかくやと言うべき早業でスマートフォンを取り出して何やらいじっている。

 「(とおる)?今終わったー。うん。え?は?違うから……。うん――」

 付き合っている男に大声で電話しつつ人のまばらになった教室から出て行く。

 俺もそれに続いて廊下に出ると、次の授業の教室へ移動する列を潜り抜けて一階へ降りる階段に向かった。


 「あっ、宗彦!」

 階段手前で後ろから声を掛けられる。

 俺を名前で呼ぶ人間など殆どここにはいない。

 振り返った先にいたその数少ない例外――細川環(ほそかわたまき)が小走りで駆け寄ってくる。

 傍から見ればさっきの田沢玲子並に馴れ馴れしいかもしれないが、彼女は俺の幼馴染だ。

 小さい頃から家が近く、高校まで同じ学校に通い、大学もこうして同じところに進学した。

 もっとも、ほとんど幸運で滑り込んだ俺に比べ、優等生だった彼女は余裕の合格だった訳だが。


 その優等生は、化粧気のない顔にこげ茶色のセミロングの髪を揺らして小走りでこちらに近づいてくる。

 羽織ったコートが足の動きに合わせて左右に揺れる。

 「授業全部終わり?良かったら今日さ――」

 「ああ、ごめん。今日はちょっとバイト早入りしないといけないから」

 何か誘ってくれたようだが、残念ながらバイトが入っている。


 彼女は少し残念そうな顔をして、しかしすぐに元に戻った。

 「そっか……、じゃあ仕方ないね。大した用じゃないし、それじゃあまた今度――」

 その時、下からさっきまで聞いていた喧しい声がかかった。

 「あっ、いたいた。今日この後暇?」

 先に帰った筈の田沢が階段を上ってくる。

 当然ながら、もう一度同じ答えを返して、彼女の横を通り抜け、ぼろいコンクリートの校舎を後にした。

 ほんの一瞬だけ、環の表情が曇ったように見えたが、それを確認するには距離が開き過ぎている。






 「40円のお返しになります。ありがとうございました」

 夜間までやっている託児所か保育園から子供を引き取っての帰りだろうか、キャリアウーマン風の女性客に手を引かれた子供が私に向かって手を振る。

 にっこりと笑顔を作って手を振りかえすと、その子もまた手を振りながら、もう片方の手を母親に引かれて店を出て行った。


 宗彦と別れた後、結局私は一人で家に帰り、適当に時間を潰してバイト先に向かった。

 「お疲れ様でーす」

 バックヤードから交代の深夜シフトが間延びした挨拶と共にカウンターの中に入ってきた。

 もう一人の交代要員は既に入っていて、廃棄の弁当から夜食を物色している。

 「お疲れ様です。1レジのリーダーがまた調子悪いので、その時は2レジの使ってください。それじゃ、あがりますね」

 引き継ぎ事項を伝え、私もあがらせてもらう。


 バックヤードに戻って制服を脱ぐ。暖房の効いた店内では、長袖のシャツ一枚に制服を着るだけで良い。

 バックヤードは意外な程静かで、店内に流れている放送や、客や店員の声もここには聞こえず、精々すぐ横の飲料コーナーの冷蔵庫が低く唸っているのが聞こえるだけだ。

 ため息を一つ。今日の事を思いだす。

 「自由……か」

 ため息のついでのように呟いてみる。

 外の音が聞こえないように、中からの音もまた、外には漏れない。


 あの後、宗彦と別れた後に、私は何の気もなく学食へ向かい、そこで大迫美香(おおさこみか)に出会った。

 彼女とは共通の知人を通して知り合っただけだったが、向こうは私の事をよく覚えているらしい。

 私とは全く違う、人生をエンジョイしているようなタイプ。私は正直な所特別親しい仲ではなかったと思っていたが、向こうは私に興味を持ってくれていたようだ――もっとも、珍獣とかいじる相手ぐらいの感覚だったけど。


 今日の私は、多分どこか狂っていたんだと思う。


 私に気付いた美香に、時間を潰そうと思って自分から声を掛けた。

 大した話は出なかったが、その席で私は先程の出来事を話してみた。

 あの人――田沢玲子という名前だという事は宗彦からの話で私も知っている。

 「ああ、しょうがないよあいつは」

 美香は何か汚い物でも見るように、露骨に嫌そうな顔をしてそう吐き捨てた。


 「あいつなんていうかさ、女王様気質?なんか、他人の男でも自分のものにしたがるっつーの?」

 苦々しくそう続ける彼女。

 目立ちたがり屋で派手好きという点で彼女と田沢玲子は似ているが、どうやらあまりいい感情は持っていないらしい。

 「何かむかつくんだよねー、ああいうの。『世界は私中心に回っています』って感じで」

 田沢玲子の詳しい事はよく知らないが、どうやらそういうタイプの女性のようだ。


 「でもまあ。今回の件は仕方ないんじゃない?」

 だから、その後に出てきた言葉が意外だった。

 「えっ?」

 「環さ、恋愛ってのは自由じゃん?そこに誰の物とか無い訳。その男に名前書いてあった訳でもないっしょ?略奪するのも一つみたいなところだし」


 よく分からないでいる私に、多分私より遥かに手馴れているであろう彼女は自分の恋愛観について教えてくれた。

 何でも、恋愛感情というものは、一度芽生えてしまえばどうしようもない物らしい。

 それは最早恋心などという――彼女の言葉を借りれば――ガキ臭い代物ではなく、より直接的な肉欲だ。

 男と女が求めあい、お互いの性的欲求を刺激し合っている。

 その状態をオブラートに包んだ物が恋愛なんだそうだ。


 そこまで思い出し、もう一度ため息をつく。

 私の宗彦への思いは、なんなのだろう?


 私達は小学生のころから一緒にいた。

 家も近く、しょっちゅう一緒に遊んでいて、ある日、二人で家の近くにある空き地に遊びに行ったことがあった。

 そこは不法投棄のスポットだったのか様々な粗大ごみの類が転がっていて、本来は立ち入り禁止になっている所だったのだが、私達はちょっとした好奇心と、そういう場所に会えて立ち入るスリルを求めて入り込んで遊んでいた。

 そこで私が、ごみの山の上にあったボロボロのハンドバッグを見つけた。

 今にして思えば全くなんの価値もない、悪趣味なだけのバッグだったのだが、当時の私には、薄汚れていてもピンク色に複雑な金具がついたそれは妙な魅力があったのだと思う。


 宗彦は取って来てやると言ってゴミの山によじ登り、私はそれを真下で見ていた。

 あと少しでバッグに手が届くという所で、彼はバランスを崩した。

 咄嗟に手をついた冷蔵庫が大きく動き、立てかけてあった何に使ったのかよく分からない鉄パイプが、私の方めがけて崩れてきた。


 今でもその時の映像をスローで思い出せる。

 私は大泣きして、血が辺りに飛び散った。

 尖っていたパイプが私の左胸の上を縦に抉っていった。


 その後、二人で家に飛んで帰り、私は病院に運ばれ、私達はそれぞれの両親にこっぴどく叱られた。

 当然私もものすごく叱られたが、これは予想でしかないけれど、宗彦は私とは比べ物にならないぐらい叱られたと思う。

 彼のご両親が傷物にしただのなんだの言っていたのをおぼろげながら覚えている。


 そう。傷物だ。

 結局その傷は、今でも同じ場所に残っている。

 シャツの上から傷跡をなぞってみると、そこだけ確かに感触が違う。

 多分、十二単を着ていようが宇宙服を着ていようが、私はこの傷跡だけは正確に上からなぞれるだろう。


 私と彼の間にあるのはこれだけ。二人の間にあるのはこれだけだ。


 自分の体をよく見てみる。

 見えるところも、そうでないところも、あの時と今は全く違う。


 「もう子供じゃないんだ」

 自分を言い含めるつもりで一人呟く。

 私はもう子供じゃない。宗彦もそうだ。

 どこで何をしてもそれは彼の勝手だし、私がそれにとやかく言う資格はない。

 彼がどんな女性を好きになっても、その結果どうなろうとも、それは彼が決めることで、私には関係がない。


 それは分かっている。

 でも、ならどうして、こんなに悲しいのだろう。


 着替えを終え、バックヤードから出た私は、品出しをしていた同僚に挨拶して出口へ向かう。

 出口付近の雑誌コーナーに、制服を着崩した茶髪の女子高生が二人。

 「てかさ、あれ見た?グッデイ」

 「見た見た!あれヤバすぎじゃねErika。あれ実体験とかマジ肉食過ぎる」

 ケラケラ笑いながらそんな事を話している。

 グッデイ――確か『グッデイ・フォー・ダイ』とかいう映画だ。

 ワイドショーやら、ネットニュースなんかでやたらとプッシュされていた恋愛映画。


 「死ぬのにいい日」なんて凄い名前だけど、聞いた限りでは遊び人な男が繁華街で出会った女と刹那的にセックスするだけの映画らしい。それの何が面白いのか私にはよく分からない。

 Erikaというのはそれの主演女優だ。元々はモデルだったらしいが、その破天荒なキャラクターが受けているそうで、所謂カリスマと呼ばれている。

 玲子も美香も、確かこの人を心酔していた。


 何度か写真や映像で見たことがあるが、成程、自己主張の強そうな顔立ちだった。

 その男性経歴もすごいものらしく、最高で四股を掛け、自分から申し込んだ男をその中で最初に振って、他の彼女がいた男を奪ったとかなんとか。


 店を出て帰路につく。

 何気なく窓際の雑誌コーナーを見ると、並べられた雑誌が見える。

 その中の女性週刊誌に、件の自己主張の強そうな顔が映っていた。


 『Erika 本誌独占インタビュー!! 女はわがままな者勝ち!!』


 自嘲の笑い。

 店の明かりが遠くなって、家路を急ぎながら、私は自分を嘲っていた。

 この人に心酔している美香が楽しそうに生きているのを見て思う。

 もし本当にそうなら、私はきっと負けなのだろう。

 今までの人生、我が儘を押し通したことなんてなかった。

 いつだって私は優等生でいようとした。むしろ優等生でいなければいけないと思っていた。

 謙虚さが美徳であって、相手の事を思いやるのが美徳であって、それは人と関係していく中で絶対に必須なものだと、いつの間にか思っていた。


 だから、自分の我が儘は我慢するのが当然だった。


 やりたいことも、欲しいものも、その意欲がなくなるまで我慢するのが普通だった。

 無私無欲であることを自分に課していた。

 その結果が貧乏くじであっても、それはただ単に運が悪かったと諦めていた。


 これまでそうで、きっとこれからもそうだ。

 私は何かが目の前から無くなっても、他の誰かが私の欲しかったものを攫っていっても、きっとニコニコ笑っていることしか出来ない。

 大切なものを取られても。

 宗彦を取られても――。


 バイト先から歩いて十分ほどの距離にある自宅。両親は明後日までいない。

 鍵を開け、真っ暗な自宅の照明をつける。

 しんと静まり返ったリビングに入る。誰もいない、静かな自宅。


 「……嫌だ」

 思わず口走った。

 「嫌だよぉ……」

 視界が滲む。

 先程から、あのバックヤードから、頭の中には一人の顔が浮かび続けている。

 明智宗彦(あけちむねひこ)。私の幼馴染。私の数少ない気心の知れた相手。私の、私の――。


 いなくなってしまう。

 彼は私の元を離れて行ってしまう。

 彼は玲子の方に行く。そして私にはそれを止める事が出来ない。

 私にはただ黙って見ていることしか出来ない。

 心の内を隠したまま、自分の思いは我慢したまま、ニコニコ笑って快く送り出す。そんな優等生しか私には出来ない。


 そんなの嫌だ。


 涙が止まらない。

 気が付くと私は上着も脱がず、リビングの真ん中で子供のように泣いていた。

 宗彦の事を何度も呼び、嫌だ嫌だとうわ言のように言いながら、ただ泣きじゃくるしかなかった。


 どれだけそうしていただろう。散々泣き続けた私は、テーブルの上に雑誌が一冊置きっぱなしになているのに気付いた。

 『Nan-Nan』――女性ファッション誌。

 恐らく妹が置き忘れて行ったのだろう。

 妹――美容師になりたいと言って高校卒業と同時に遠くの専門学校に進学し、一人暮らしを始めた。

 考えてみれば、この家で、あの子の姉であったことが、もしかしたら優等生の第一歩だったのかもしれない。


 「お姉ちゃんなんだからちゃんとして」母はいつも私にそう言っていた。

 「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」何かねだると、よくその答えが返ってきた。

 気が付くと私はそれが骨の髄まで染み込んでいた。

 妹――私を優等生にした最初の要因。


 その後の私は、その生き方しか知らなかった。そればかり馬鹿の一つ覚えに繰り返した。

 小学校の頃、クラスで飼っていたモルモットが死んでしまった時、他の子が敬遠している中で私は死体の処理をやった。

 中学校の頃、軽度の知能障害がある子が同じクラスにいて、席が近かったという理由だけで私がその子の面倒を見ていた。

 高校生の頃、誰もやりたがらないクラス委員をやらされて、「媚を売っている」「内申点狙いだ」と、折り合いの悪かった女子グループから陰口を叩かれながら、それでも与えられた仕事は全うした。


 みんな私が引き受けた。

 私が我慢して引き受けた。

 でも、私以外の誰も、私に対して我慢しなかった。

 ――糞共。


 テーブルの上の『Nan-Nan』に目を落とす。

 表紙にはまたあの女――Erika。

 その自己主張の強そうな顔が、他の顔へと変わっていく。

 玲子に変わってげらげらと笑う。

 笑って、ケバイ化粧をして、遊び人の男と刹那的にセックスする――頭の緩い男と股の緩い女。


 げらげらと笑って宗彦に抱かれる。遊び人の男は宗彦の顔をしている。

 ――ふざけやがって。


 宗彦の腕の中で、女は、Erikaは、玲子は、げらげらと笑う。

 私の気持なんか知らないで。

 Erika――鼻持ちならない糞アマ。

 玲子――以下同文。


 「……ふざけんなよ」

 手に力を入れる。糞アマの顔が横に引き伸ばされる。

 さらに力を入れ、その馬鹿面を引き裂く。

 「ふざけんな!ふざけんな!ふざけんなっ!!」

 びりびりに破き、引き千切り、投げ捨てる。


 何が自由だ。


 「ふざけんじゃねえ!!どいつもこいつも!私の邪魔ばっかしやがって!!」

 美香の言葉。

 恋愛は自由。略奪も一つ――耳糞のもと。 

 恋愛感情というものは、一度芽生えてしまうとどうしようもない――白昼夢。

 奪うのも一つなら、それが自由なら、防衛も自由の筈だ。

 紙吹雪――主演映画の記事。

 「Good day for die」

 呟く。|Good day for die《死ぬのにいい日》――そうだ。私は今日死んだ。何も言わない、怒らない優等生は死んだ。


 頬がヒクつく。口角が吊り上る。

 あの糞に、宗彦を渡してやるものか。


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