顔色が悪いね
結婚式が終わって一ヵ月後、美智子があたしたちの家にやってきた。
「遅くなってごめんね」
もちろん、彼女がやってきたのはあたしたちが三人暮らす家。拓の隣で笑顔で綾が出迎えていた。彼女は行儀がいいのか、相手に自分のことが見えなくても、玄関で出迎える。帰るときも見送りを忘れない。そして、自分の存在に気づいてもらいたいのか遊び心なのか自己アピールも忘れない。
リビングに通された美智子は手に持っていた紙袋を差し出す。
それは昔からおいしいと三人でよく食べたお店で地元ではちょっとした有名なお店だった。
「これ、よかったら食べて」
あたしは美智子からケーキの箱を受け取った。
拓はあたしの隣に座り、綾は美智子の体にまとわりつくように座っている。
綾の細くて綺麗な指先が美智子の手のひらをなぞる。美智子は体を震わせ、手のひらを見て首を傾げていた。
「この部屋って涼しいね」
「風通しがいいからじゃない?」
あたしは嘘を吐く。一ヶ月も経てばそんなことも言えるようになった。
別に冷房が入っているわけでも風通しがいいわけでもない。家の窓は全部閉め切ってあるのだ。
寒い理由が彼女の隣にいる綾のせいだなんて言えない。
「お皿に移すね」
あたしはケーキの箱を持ってキッチンに向かう。
このマンションのキッチンはオープンキッチンなので、美智子の姿も綾の姿も見える。
綾は美智子に会えてうれしいのだろう。いつもみたいに台所でちょっかいを出してこなので、危うく手足を切りそうになることもない。
胸を撫で下ろし、ケーキの箱を開けたとき、背中に冷たいものが走るのが分かった。
できるだけ平静を装い、高鳴る心臓を押さえながら美智子に聞く。
「他にも誰か来るの?」
「どうして?」
ケーキの箱の中に入っていたのはケーキが四つ。普通、人の家にお土産を持ってくるときは自分の分も加えて持ってくるものだと思う。
少なくとも美智子はそうだった。わたしたちが三人で食べるにはあまりに中途半端な量だ。
「ケーキが四つある」
「え? あたしが買ったのはショートケーキにチョコレートケーキに、マロンケーキだよ」
彼女の言葉とともに、ケーキの姿を目で追う。
でも、目の前に名前を呼ばれなかった緑色のスポンジをしたケーキの姿がある。名前を呼ばれるのを待っているような気がして、その名前を呼んだ。
「あと一つ、抹茶シフォンがあるよ」
それは誰の好物だったっけ?
そんなこと考えなくても分かる。
「おかしいな」
美智子は本当に知らないのか、首をかしげている。ケーキを三つ買うのと、四つ買うのでは桁が違ってくる可能性も高い。
だから、多く買ったらお金を払ったときにまず気づくはずだった。
その彼女の瞳から迷いが消え、切なそうな表情を浮かべている。でも、ほんの少しだけ懐かしそうだった。
「でもそれって綾の好物だよね。綾、どうしているのかな。生まれ変わりとかあったら綾に会うこともできるのかな。会いたいよね」
拓の顔は見えないけど、強張っているとは思う。
「あたしも美智子ともう一度話をしたいな」
綾はうれしそうに美智子に抱きつく。
「残り一つのケーキは後で二人で食べてよ」
「分かった」
無理。
でもそんなことは口に出せずに適当に笑顔を浮かべ、ケーキと箱をテーブルのところまで持ってきた。美智子が食べたがってくれればいいのに、という願いを込めて―――。
あたしがフォークにチョコレートケーキを載せて口に運ぼうとしたときだった。
「生きているっていいよね。おいしそう」
甘えたような声。あたしは無視して食べる。いつもなら反応するが、今日は美智子もいるのだ。
ケーキを口に含むタイミングを見計らったのかもう一度声が聞こえる。
「おいしい? どんな味?」
美智子はあたしのなんらかの変化に気付いたのか、心配そうに顔を覗きこんできた。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
「大丈夫」
あたしは美智子の問いかけに答えた。あたしと同様に綾の声が聞こえている拓は何も言わずに黙り込んでいた。
美智子は首をかしげ、不思議そうな表情をしていたが、それ以上は言わない。
でも、本当に美智子には綾の姿が見えていないのだろうか。あたしにも拓にも見えているのに。二人とも霊感が強いとか、そんなことは全くなくて今まで無関係だった。
見えていてあたしと拓の反応を伺っていたら。
そんな浅ましいことを考えて、自分で自分が嫌になる。
そのとき、目の前でガサガサという音が聞こえた。
「でも、ケーキが四つにしてはやけに安かったな。千円でおつりがきたし」
美智子が鞄から財布を取り出していたのだ。白い紙を取り出して首をかしげる
それをあたしに差し出した。そこにはさっきのケーキショップのお店の名前が記されている。
「レシートには三点しか載ってないのに」
彼女から渡されたレシートを覗き込む。
そこには合計の点数が記されていて三点とご丁寧に書いてあった。
「気になるから箱の中身確認していい?」
「……いいよ」
テーブルの端に置いていた箱に美智子が触れた。美智子が眉間にしわを寄せる。
「箱の中って空っぽだけど」
彼女はあたしを見る。
「そんなこと」
彼女は悪い冗談を言っているのだと思ったあたしが箱の中を覗くとさっきまであった抹茶シフォンが消えていた。あるのはケーキに入っていた冷却材だけだ。
「大丈夫? はるか?」
そう言ったのはにやにやと笑っている綾。
「ごめん。疲れているみたい」
あたしは頭を抱え込む。真面目に考えるのが間違っているのだと言い聞かせる。
美智子が帰った後、ケーキの箱の中にはなぜか抹茶シフォンが入っていた。もう何も考えない、何も見えないのだと言い聞かせることしかできない。でも、綾らしきものが触れたところは氷を当てたようにしっかりと冷えている。
……彼女との生活は必要以上にあたしの心を憔悴させていく。
綾との生活に疲れ、楽になりたかった。どうしたら楽になれるんだろう。そう考えていたとき、目の前を車が走りぬける。ただそのときは運転している人にどんな犠牲があるのとか考えていなくて、ただどうしたら楽になれるかを考えていて目の前の車道に飛び込もうとした。
足を踏み出し、もう少しで楽になれると思ったとき、体が動かなくなる。
「大丈夫?」
あたしの手首と首筋を撫でるように冷たい感覚が残る。
「どうして邪魔するの?」
目の前の彼女を睨んでそう言った。
「邪魔なんてそんなこと。ただ、親友がこんな危ないことをするのを見過ごせないでしょう?」
心配そうな物憂げな瞳で告げた。
でもあたしには絶対に逃がさないからそう言っているように聞こえた。
あたしが翌朝目を覚ますと、首に冷たいものが触れていた。それが何かも確かめたくない。
「おはよう」
綾が姿を現し、微笑む。
「こんなところに変なものが置いてある。はるかが怪我をしちゃったら大変だね」
そう言って、彼女があたしの脇から取り出したのは鈍く光るもの。
その想像以上のものに身震いする。
「どうかしたの? 顔色が悪いね」
さっきより冷たい感触があたしの首を襲う。綾は屈託のない笑顔を浮かべている。
「拓はお仕事に行っちゃったよ」
拓が仕事に行こうがどうしようがどうでもよかった。ただ聞きたいのは一つだけだ。
「手、どうするつもり?」
綾の手があたしの喉に触れ、糸を引くようにすーっと冷たい感覚を残していく。それに反応するように全身に鳥肌が立つのが分かった。
「なんとなく。はるかの首筋って綺麗よね」
彼女は間を置いて話を続ける。
「細くて、華奢で、ちょっと力を込めたらどうなるんだろうなって思ってさ」
最後に顎からすっと下に指を這わせていた。彼女の手の冷たさが、何かの刻印を残すように、しっかりと根付くように残っていく。
だが、それでも綾は無邪気な子供のような笑みを浮かべている。