お帰りなさい
「大丈夫か?」
結婚式の後、拓の声で我に返る。
顔をあげると、端正な顔立ちをした彼の顔が目に飛び込んでくる。
あたしはうなずくことしかできなかった。
そんないつもと違う様子から何かを感じ取ったのか、目線を足元に落とすと、息を吐く。
「綾のこと、何と言っていいか」
感情の乱れをごまかしているのではないかと思えるほど、淡々とした話し方だった。
彼の気持ちを感じ、あたしは目を逸らす。
今日の挙式の前に拓には綾のことを告げた。あたしの言葉を聞きながら、彼の表情が凍りついていくのにあたしは気づいた。
彼もどこかで後ろめたい気持ちがあったのか、あたしの話の後に彼から昔、二人が付き合っていたことも聞いた。
「綾はあたしたちのこと恨んでいるのかな」
やっと喉から押し出した言葉だった。
「あいつはそんなやつじゃないと思うよ」
拓が喉から絞り出すようにそう告げた。
あたしもそう思っていた。
彼女はそんな子ではないと互いに思おうとしていたのだろう。果たしてそう考えたのは
彼女のため? それとも自分たちのため?
自問自答しても答えなど出てこない。
「綾の分も幸せになろう」
拓の手があたしの手に触れた。
彼の手は誰よりも温かく、その声も聞く人を安心させるような声だった。
綾の分まで幸せになろう。
あたしたちはそう心に誓った。勝手にそう決めたのだ。
幸せになることがせめて彼女に報いることだと決めたのだ。
彼女がそんなことを望んでいたかどうかなんて分からないのに。
あたしと拓はマンションの前で車を降りた。送ってくれた姉にお礼を言う。彼女は今日はゆっくり休むようにと言い残すと、去っていった。
あたしたちは数日前からここで暮らしている。これから二人で過ごす、新居となる場所だった。
五階まで行くと、エレベーターを降り、家の鍵を開けた。
だが、わたしはその場に凍り付いた。
薄いカーテンから漏れるように光が入ってきて、目の前にさらっとした髪の毛をした女性が立っていた。少女といっても過言でない、あどけなさの残る可愛い女の子。
「お帰りなさい」
彼女は笑顔でそう答えた。
今の状況が理解できなかった。
「何であなたがここに」
だが、すぐに言葉を飲み込んだ。今日のできごとを思い出し、これは幻なのだと思い出したからだ。見えているのはあたしだけ。
きっと彼の視線は綾じゃない別のどこかを見ているはず。そう思い、あたしは拓を見た。だが、拓の視線はまっすぐ綾に向けられている。拓の唇が震え、そこから聞きたくなかった名前が漏れた。
「綾、どうしてここに」
これは幻でないとそう悟った。
綾は拓の手を握る。彼の顔が次第に青ざめていく。
「うれしい。久しぶりにそう呼んでくれたね」
彼女は笑みを浮かべ、その手を頬ずりするように頬に当てた。
「ねえ、飲み物入れてよ。たあくんが飲みたいんだって」
綾は明るい声であたしを呼び、頬を膨らませる。いじけたような子供のような笑顔だ。彼女と友人でいた間、何度その笑顔を可愛いと思ってきただろう。
せかす綾に逆に尋ねる。
「何が飲みたいの?」
「……コーヒー」
浮かない顔で拓が答えた。彼はあの幸せになろうと誓った日から笑うことはない。その気持ちは分からなくもない。彼女が命を落としたあの日から、あの子はあたしたちと一緒にいる。大げさな表現でもなく、本当に彼女は一緒にいるのだ。
彼女がその気になれば、お風呂に入っているときも夜眠るときも昼間買い物に出かけたときも拓が仕事をしているときも彼女はあたしたちの傍にいる。
傍で子供のような愛らしい笑顔を浮かべて。
だが、綾はたまに姿を消すことがあった。どこかに出かけたのかと安堵し、あたしはベッド腰を下ろす。やっと解放された。そんな気持ちで満たされ、体から力が抜けた。
このまま眠ってしまおうかと思ったとき、拓があたしの隣に座ってきた。
拓が大きな手をあたしの頬に這わせた。
あたしは目を閉じ、彼の唇が触れるのを待った。軽く触れるだけほんの数秒のものなのにこうしてキスをしたのも一週間ぶりだった。
拓はごつごつとした手であたしの足をそっと撫でた。その手がシャツの中に入り込み、上へと移っていく。拓はあたしの首筋にキスをすると、体の上にのしかかってきた。あたしの体はベッドに受け止められる。
「綾がいるかも」
「大丈夫だよ。どこにもいない」
耳元で囁くそんな声を信用したくなって抵抗するのをやめた。
布のこすれる音がし、あたしの肌に心地よい風がじかに触れる。拓の指が肌の上をすべる。あたしの呼吸が自ずと乱れ、その感触に酔いしれようとしたとき、耳元で風のざわめきに同化したように聞きなれた笑い声が耳に届く。
くすっ。
あたしの体が震える。
「いるって。絶対に」
「気のせいだよ」
拓は息を荒げながら、否定の言葉を伝えていた。
意図せずに自然と漏れてくる吐息にそれ以上何かを言うこともできず、この感触に再び浸ろうとしたとき明るい声がベッドルームに響く。
「そう、そう。気のせいだって」
拓の体が震え、その動きが止まる。彼は横のクローゼットを見る。そのクローゼットとベッドの間に綾の姿があった。彼女はベッドの上にひじをつき両手で頬杖をついていた。
あたしと拓を交互に見ると、笑顔を浮かべていた。
「あたしのことは気にしなくていいから続きを楽しんでよ」
そんな綾の言葉にあたしたちは固まったままだった。
「あれ? どうしたの?」
その目は今の状況を心から楽しんでいるみたいに見える
拓は我に返ったのか、あたしから離れようとする。綾はベッドの上に来ると、拓の頬に触れた。
「続きをしていいって言ってあげているのに」
彼女はふわっと浮き上がると、あたしたちを見下すような目で見た。だが、その表情から彼女の笑みは消えない。
「たあくんはいつもあたしの洋服をたくしあげて、優しい手つきで触ってきたよね。全身を撫でまわして。きっと同じようにはるかを愛しているんだろうね」
あたしは思わず拓の手から逃れ、体を隠すと壁に張り付く。
拓は金縛りにあったかのように動かなかった。
綾はそんな拓の首に手を回し、蛇のように絡みついた。
「だって、拓にとってあたしは空気みたいなものだったんだよね。それが本当の空気になったからって今更あたしの存在を気にしなくてもいいのよ。それよりも早く二人の赤ちゃんに会いたいな。きっとはるかの両親も拓の両親も二人の子供を見たがっていると思うのに。子供が大きくなったら、二人の赤ちゃんにあなたがどうやって授かったか教えてあげないとね」
そんな言葉を伝えてくる。
彼女は時々姿を消してはあたしたちを油断させる。そして声をかけて欲しくないときに声をかけたり、姿を現したりする。ちょうど今みたいに。タイミングを見計らって……。
人は何か悪いことをしてしまったとき、憎いと言って睨まるのと笑顔を浮かべられるのはどちらが楽だろう。
少し前のあたしなら分からない。だが、今のあたしなら前者を選ぶ。だって、その憎しみの深さを知ることができるから。