幸せに
あたしは今日結婚する予定になっていた。派遣先で働いている山田拓という人とだ。肌は適度に日焼けし、昔はスポーツをしていたらしく体つきもがっしりしている。仕事もでき、誰にでも親切で会社内の評判も上々だった。
あたしは彼から告白され付き合うようになった。そこまでは良くある話。
そんな折、綾から相談を持ちかけられた。彼女には付き合っている人がいて、彼の態度が最近おかしいというのだ。友達との合コンで知り合った人らしい。そんな彼女に恋人ができたということもできずに、彼女の相談に乗っていた。そして、何度か彼女の相談に乗った後、彼女から彼とわかれることになったと聞かされた。
彼から別れを告げられたらしい。相手の男は自分の荷物を捨てていいと綾に伝え、彼女は彼の荷物を処分しないといけないと言っていた。だが、顔面が青ざめ、顔色の悪い彼女を一人でさせることはできずに、彼女の彼女の手伝いをすることにしたのだ。
荷物は幸いそんなに多くなかった。何度か一人暮らしの彼女の部屋に泊まったのか歯ブラシと、着替えがある程度だった。
そのとき、綾の体が固まっているのに気付いた。彼女の手に握られているのは写真だ。大きな瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
「綾?」
「あ、ごめんね」
彼女は指先で払うように目元を拭った。
「写真、見る? もう捨てちゃおうと思っているから」
あたしは綾を泣かせた男に興味があって頷いた。
顔だけはいいこと、他に女がいたことは綾から聞かされていた。
彼女から差し出された写真を見て、あたしの心臓が大きな音を立てるのが分かった。排水溝にどっと水が流れ込んでいくような音。心臓がこんなに大きく震えるとは思わなかった。
そこに綾と並んで笑みを浮かべているのはあの山田拓の写真だった。
彼にあたしの前に彼女がいてもおかしくない。でも、まさかそれがあの子だとは思わなかった。
「本当に顔はかっこいいね。でも、最低だと思うよ」
とっさに出てきたのは綾を一時的にせよかばう言葉だった。
そのとき彼女に打ち明けていてばどんなに良かっただろう。何度もそう思ったが、そんなのは後の祭りだった。
あたしはしばらく悩み、彼と別れようとした。親友を裏切ることなどできなかったからだ。涼しい顔をして、また綾の隣で微笑んでいようと思った。最悪な行いだったとしても、それを知られないならかまわないじゃないかと言い聞かせていたのだ。
でも心のどこかであの子を捨てたようにあたしも時間が経てば捨てられると思っていたんだと思う。だから、そうなる前に彼と別れようとしたんだと思う。
別れを持ち出そうとした日、山田拓は何かを深く考えた表情を浮かべているように見えた。あたしが声をかけると、そんな暗そうな顔が一気に明るくなる。その表情を見て嬉しく思う反面、綾を一週間前に泣かせたくせによくそんな顔ができるな、と冷めた気持ちを抱くようになっていた。
自分のことを棚にあげて本当に嫌な女だ。
「話があって」
「俺も話があったんだ。すごく大事な話」
その言葉に胸の奥が抉られるような痛みを感じていた。綾と同じように捨てるつもりなんだと思った。言葉を模索し、先に何かを言おうと思ったけど、出てこない。あれほど彼に伝えるべき別れの言葉を捜していたのに、彼にそういわれたことで、何を言うべきか分からなくなり、次の言葉さえ見つけ出せなかった。
うつむいたあたしの視線の先に、小さな小箱が差し出される。
「これを渡したくて」
その箱を確認すると、顔をあげた。
彼は顔を赤く染めていた。
その箱の中に入っていたのは指輪だった。それを見て何も言うことができずに唖然としていたのだ。綾をすてた彼があたしと結婚を望んでいるとは思いもしなかった。
「もしかして気に入らなかった? やっぱり一緒に買いにいったほうがよかったかな」
彼に対する憎しみに似た感情が一気に消え去る。ただ、何も知らずに彼に恋焦がれていたときのように、その突然のできごとに胸を高鳴らせていた。
あの子の涙が頭に浮かばなかったわけではない。だが、何かを考える前にそれを受け取り、指にはめてみる。サイズはぴったりだった。
「ありがとう。うれしい」
彼もあたしを見て、笑顔を浮かべていた。
そのとき、あの子のことよりも自分の幸せを選んだのだ。
今から考えるとその後でも彼女に言えばよかったのかもしれない。万が一、彼女に罵倒されても、叩かれても彼女を思えば口にできたかもしれない。あのとき謝れば、今とは違う結果になっていたのかもしれない。でもあたしは逃げたのだ。彼女に直接彼の話をすることはなく、ただ前からつきあっていた人と結婚するとだけ言った。
「恋人がいたんだ。羨ましいな。幸せになってね」
何も知らない彼女はまるで自分のことのようにはしゃぎ、微笑んでいた。
そのお詫びとして神社であの子に素敵な彼氏ができることをお願いしておいた。奮発していつもなら絶対に入れないような額を入れておいた。そんなことで嘘を取り返せるような気分になっていたのだと思う。
彼女にはいつものようにすぐに新しい恋人ができ、そのときに本当のことを切り出そうと思っていた。つきあい始めが気持ちの最高潮になる彼女であれば、少し怒るかもしれないが、受け入れてくれる、と。
だが、その望みは届かなかったのだ。
彼女にはそれから数か月、恋人が全くできなかった。
結婚の前に友人を招いて彼を紹介した。あたしはそのときに綾も呼んだ。そのとき、彼女が急病で来れないといいと思っていたが、そんな願いが通じることもなく、彼女は笑顔であたしの家にやってきた。
拓を目にした綾はその場に固まり、ただ目を見開いてあたしたちを見ていた。
彼も綾の存在に気づいたようだったが、何も言わなかった。
彼女は何も泣き言を言わなかった。悲しそうな顔さえも見せなかった。
「はじめまして」
そう拓に挨拶をし、軽く言葉を交わすと、最後に笑顔を浮かべていた。
「幸せに」
悪意のないあどけあに笑顔に、彼女は分かってくれたのだと思っていた。
彼女に何も言わずに逃げ続けたあたしを許してくれたのだと思っていた。
さすがに披露宴の挨拶などは綾には頼めず、大学時代の友人に頼んでいた。
それから半年、久しぶりに会ったのは変わり果てた彼女の姿だった。あたしがあのとき、拓の指輪を受け取らなければ彼女は死ななかったのではないか。そう思わずにいられなかった。