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0.「プロローグ」



「どういうことですか?」


それは、純粋な驚きから発せられた一言だった。

私としては本当に言葉のままの意味だったのだが、机を挟んで真向かいに座っている初老の男は、バツが悪そうに目を逸らした。


「今申し上げた通りです。我が楽団は、貴女を指揮者として迎え入れることが出来なくなったのです」


彼は、大変残念ですが、と付け足しながら、言葉通りの表情を作る。


ああ、それはさっきも聞いたとも。


私はただ目の前の男を見る。

後ろに撫でつけられた薄い色の髪は、かつては輝く金色だったのだろう。金の髪も、緑の瞳も、彼の口が流す低いドイツ語も、私とは縁遠いものに感じられる。

私が黙っている間中、彼は刻まれた皺をより深め、苦い表情をしていた。


「ミツキ、私も団長も大変心苦しく思っています。今更と思うでしょうし、お怒りになられるのも分かります。本当に申し訳ございません。その気持ちは、少ないながらも、こちらに……」


「待って下さい!」


呆然としている私を余所に話を進めながらセカンドバッグに手をかけていたのを、咄嗟に出た大声が止めた。


「どういうことですか?説明もなしに、いきなりお約束を反故にされるなんて。いくらなんでも納得できません」


周りの客の目を意識し、私は努めて静かに話す。でなければ、混乱に呑まれて、喚き立ててしまいそうだった。


私、早瀬満月(はやせみつき)は来年度からフェーブス交響楽団の常任指揮者となることが決まっていた。

大学卒業と同時に日本を離れ、ここドイツに住み着き、フルート奏者として楽団に在籍しながら指揮を学び続けて十余年。長らく機を待った。そして、指揮者がひとり、今年度で辞めることになった今、空いた席にとうとう私が選ばれたのだ。

この楽団で指揮をするのが夢だった。

中学に上がる前、来日したこの楽団のコンサートを両親に連れられて観て以来、その指揮者の後ろ姿に憧れた。そして、それは私の目標になり、今日まであの背中を目指してひた走ってきた。

私が指揮をすることを楽団員達も認め、応援してくれている。団長も、その補佐である彼、ルーカスも、「期待している」と言っていた。

初めて指揮棒を振るう舞台も曲も既に決まっている。ルーカスからカフェに呼び出された時も、練習日をいつにするかの話し合いかと予想していた。

自負と覚悟を胸にその日を待つ私に彼がもたらしたものは、まさに晴天の霹靂だった。


なんで、どうして。


頭の中は疑問で恐慌を起こしている。


返答を言いあぐねているルーカスに、私は再度問いかけた。


「私では役者不足ということでしょうか?」


もし、そうだと言われれば、仕方ないと思った。指揮者を任せるにはやはり実力不足だと判断されたなら、ぐちぐち言うつもりはない。今回は諦めて、また一から出直すだけだ。

しかし、彼が話したのは全く違うものだった。


「いや、そうではない。君については、実力も適性も皆認めている」


「では、何故ですか?」


彼は非常に言いにくそうにしながらも説明を始めた。


「君の就任についての異議は、ある後援の方のご親戚がおっしゃったのだ。……君が女性であることを理由に」


…………開いた口が塞がらないとはこの事か。


「……確かに、女性の指揮者は少数ですし、好ましく思わない人がいるのは承知しています。ですが、それは楽団内はもとより、後援の方とも話し合いましたし、それでも私を、と皆様もおっしゃって下さった。それを、今になって……」


後援の親戚なんて、外野にも程がある。そんな野次、何故無視しない。


口にはしなかったが、顔に出ていたのだろう。

彼の眉間には、これ以上ないという程、皺が寄っている。


「その親戚の方というのは、地位、財力もあり、繋がりが深く、簡単に無視できないそうなのです。それに、一人そういった意見を言い出すと、賛同する方も後から……」


「そんな……」


二の句が継げない私に、ルーカスは三度目の通告を言い渡した。


「故に遺憾ではありますが、ミツキ、貴女には正指揮者には就いて頂けなくなりました。何卒ご理解を」


は?

遺憾?理解だと?

そんな、そんなの納得できるか。


私の今後について、このままフェーブスに奏者として残るか、あるいは他の楽団に紹介状を書いてもいいなどと、ひとりで話を展開させていくルーカスに、遂に私の中で理性の糸が切れた。

思わず机に拳を打ち付ける。手前にある、手の付けていないコーヒーの水面が波打った。

店内の注目が集まるが、最早気にならなかった。


「そんな!そんな話、納得できません!当事者を無視して、急に決定事項のように……」


「“ように”もなにも、その通りです。もう決まったことですので」


「ならば、再考を申し立てます。私には認められない。性別を理由に長年の夢を奪われるなんて、たまったもんじゃない!」


敬語も忘れて噛みつく私に、彼は、これだから、と溜め息を吐いて言った。


「……女はすぐに感情的になっていけない」


決して大きくはない、コーヒーの香りの吐息に紛れる程の呟きだった。しかし、その言葉は、重い刃が骨肉を断つように、私から反論の意欲を見事に削ぎ落とした。

熱くなっていた頭が一気に冷え、世界の全てが静止したかのように音が消える。

つい口走ったことが私の耳に届いたことを知り、気まずそうに視線を逸らすルーカスの姿も、サイレント映画のワンシーンのようだ。

コーヒーの波紋も消え、周囲の視線も散っていく。

沈黙を破った第一声は、私のものだった。


「……お話は分かりました。取り乱し、失礼しました。お金も他団体への口添えも結構です。今までお世話になりました。失

礼します」


それだけ言って席を立った私を、彼は追ってこなかった。




店を出ると、日が暮れかけていた。

橙色に沈む異国の古い街並みは、絵葉書にもよく見るもので、観光客の目にはそれは美しく見えるだろう。

私は、仕事帰りの人々に紛れて木枯らしの吹く街道を歩き始めた。


私は歩きながら考えた。


分かっていたはずだ。そう簡単には叶わない夢だということは。

女性差別だ、間違っているなどと憤る気持ちは全くない。怒ったところでどうなる話ではないし、差別意識が払拭されるわけではない。それに、その傾向さえもこの世界の、音楽の世界の伝統なのだと私は考える。あの日両親と聴いた音の奔流、そして、それらの舵を取り、ひとつにまとめ上げる者の背中は、今も私の中に鮮烈に焼き付いているのだ。


長い時間と偉大な音楽家達に育まれた音楽が私を魅了したのであり、自分が蔑視の対象になっても、それを間違っているとは思わない。ちなみに、ルーカスを責める気もない。彼も疲れていたのだろう。仕事とはいえ、リストラの通告なんて、気持ちのいいものではないはずだ。


……駄目だ。それでも、と思ってしまうのを、矛盾しているが、抑えられない。

必死で努力をしてきたと断言できる。女性であることや、何の後ろ盾もないことから、報われる可能性は低いとは承知していた。それでもこの10年はそのために生きてきた。常任指揮者を、と声がかかった時は、我が耳を疑ったものだ。伝統ある楽団の指揮者として、あまり浮かれないようにと戒めながらも、歓喜に胸が震えた。

それが、それが―――――……。


………………落ち着かなくては。


身体を内側から破壊しようとばかりに暴れる激情を理性で押さえ込み、私は歩を進める。


これだけ動揺しているのも「女だから」だろうかーーーーー。


ふ、とそんな考えが頭を過ぎり、思い悩む自身が滑稽に思えて笑ってしまった。


長年住んでいる下宿先の家の前に着いたが、私は立ち止まることなく歩き続けた。


あの仮宿は私が帰る場所ではない。

だが、そんな場所はどこにもない。私の帰りを待つ人も誰もいない。

私の家族はもう1人もこの世にいないのだから。


フェーブスのコンサートを観た帰り道、私達一家を乗せた車は事故に遭った。運転をしていた父に落ち度はなく、突然反対車線からトラックが飛び出してきたのだ。後から聞いたが、居眠り運転だったそうだ。

そして、後部座席に乗っていた私だけが助かった。

ありきたりな表現だが、気が付くと病院のベッドの上で、事故の瞬間は覚えていない。



前に座る父と母に、いかにコンサートを観て、聴いて感動したかを捲くし立てる私。

相槌を打ちながら、「それでそれで?」と話を促してくれる父。

くすくすと笑いながら、私達のやり取りを見守る母。



それが家族との最後の記憶だ。


葬儀や手続きは全て親戚達が済まし、私は母方の祖父母に引き取られた。両親が受取人を私にして掛けていた保険金や遺産も、成長した頃に全て渡してくれた。それらと奨学金をもって音楽の道に進む私を、誰もが応援してくれた。

助けてくれた親戚や祖父母には心から感謝しているし、私は恵まれていると思う。

しかし、私の家族は失われたのだ。それは掛け替えのないもので、別のものでこの孤独を埋めることはできなかった。

深い喪失感と、ひとり残された恐怖に潰されかけた私を生かしたのは音楽だった。

両親と交わした最後の会話で私は、「指揮者になりたい」と言った。それは、冷めやらぬ興奮のままに言った言葉で、確固たる意志があったわけではない。しかし、私はそれを本気で目指そうと、両親の墓を前に決めたのだ。

最早執着と言ってもいいかもしれない。しかし、その強い想いが私を今日まで支えてきた。


人の波が止まる。信号が赤になったようだ。

十字路の角に立つ百貨店の前で立ち止まると、大きなショーウィンドウに映る自分の姿が目に入った。

そこには疲れた顔の女がいた。

気が付けば、もう来月で35だ。家庭も恋人もいない。友人なら何人かはいるが、連絡を取らなくなって久しい。楽団の仲間達とは雑談を躊躇わない程度である。

これからどうしよう?

先のことを考えようとすると、頭が動かなくなる。もう一度楽団に訴えかけるなり諦めるなり、行動の選択肢はいくつかあるが、どれを取るにも気力が湧かない。そうするには、絶望が大き過ぎた。


男だったら、すぐに気持ちの整理をつけて、次へと進んでいけるのだろうかーーーーー。


私には分からなかった。


大切なものはいつも手から零れ落ちていく。望めば望む程遠ざかり、私の元には何も残らない。

既に心に動揺はない。思考はひとつの結果に収束された。


もうこれ以上―――――。


その時、何かが私の足下に落ちてきた。

少し転がって停止したそれは、小さなネジだった。

上を見上げると、百貨店のシンボルである大時計が不吉な軋みを上げていた。私と同じように気づいた隣の男が短く叫ぶ。そして、すぐに危険を知らせるように

大声で言った。


「危ない!上だ!時計が落ちるぞ!」


何事かと頭上を見遣った人々は、理解した者から慌ててその場を離れていった。


私はというと、未だにギシギシと揺れる大時計を見上げていた。


「おい!君、危ないぞ!」


動かない私に気付いた誰かが叫ぶが、私は動かない。


ネジが1つ飛んだくらいで落ちるものだろうか。

いや、老朽化しているようだし、これが1つ目とは限らないか。

そういえば、10年前も大丈夫なのかと疑わしく思ったような……。


……などと、どうでもいいことを考えていた。「危ない」とは思わなかった。恐れる気持ちがなかったからだろう。


ギャリッと、一際嫌な音を立てると、大時計はついにその身を宙に投げ出した。


さっき心に浮かんだのは、「もうこれ以上生きられない」という結論だった。

だって、仕方ないじゃないか。道は絶たれたのだ。何らかの可能性も探せばあるのかもしれないが、もう私に自分を信じる力は残っていない。

当たれば無事では済まない、と分かっていながら避けなかったので、これは消極的な自殺である。


事故の瞬間がスローモーションに見えるというのは本当だったようだ。

ただ、目を閉じるべきだろうか、とキスをする直前のようなことを考えていたらあっという間だった。


―――――お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は何にもなれなかった。


迫り来る大時計の影の暗がりに埋もれた一瞬、ぼんやりと思った。


―――――そうだ、もし生まれ変われるなら、男になってみたいな。


そんな他愛ない思い付きは、聞いたこともないような轟音に私の存在ごと掻き消された。




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