第十一話『絵を描く道具』
「それじゃあ、頑張るんだよ?」
「……うん」
町から親戚の伯父に馬車で送ってもらい、カルラは中央にやってきた。無論、親衛隊の試験を受けるためだ。
カルラは伯父に頭を下げ、街の中へ歩いていく。伯父は馬車から下り、カルラのことを見送ってくれる。
伯父はいい人だ。小さいころから優しくしてくれたし、両親に叱られて泣いていていると飴をくれて慰めてくれた。
ただ、両親が傍に居ると、両親の肩を持って味方してくれないのは好きではないけど……。
「カルラちゃん。ご両親はカルラちゃんのことを心配してくれているんだよ。だから嫌いになってはダメだからね?」
伯父に後ろからそんな言葉をかけられたが、周りの雑音に掻き消されて聞こえなかったことにした。カルラが振り向かないと分かった伯父は、そのまま馬車に乗って町へ帰って行った。
親衛隊試験を受けることになってからは忙しかった。
今までろくにしたこともない運動を無理やりさせられ、新品の剣を一本持たされた。今も重くって仕方がない。剣の重みでスカートが落ちないか心配だ。……もしそんなことになったら、剣を投げ捨てて素手で試験を受けてやる。
こんなことになったのも父親が親衛隊の試験を告げる張り紙を見てきたせいだ。
「王族に直接仕えることができるなんてそうそうないことだぞ。私にチャンスがあればきっと参加していただろう」
「そうよ。これはとっても名誉なこと。カルラ、あなたはとっても運がいいわ」
「く……」
両親の言葉を思い出してカルラは唇を噛んで怒りに堪えた。勝手すぎる。自分には人生を決める権利がないのか?
しかし悪くない話かもしれないと思った。親衛隊になればあの町から……あの両親から離れることができる。
中央は都会なだけあって、変わり者もたくさんいると聞いた。ならば、絵を描く趣味を持った人間なんて、それらの人間に隠れて霞んでしまうだろう。町でされていたような変人扱いを受けることは無くなる……。
もしも王族が絵を描く人間が嫌いだったら……その時は隠れて描けばいいさ。自分の両親以外に、絵を描いたりしないように監視する人間がいるとは思えない……。
「……あ」
そしてカルラはその店を見つけた。門からすぐに入った場所にあり、他の店とは違った変わった装飾をしていたから目を引いたのだ。それは画材屋だった。
「キャンバス……」
始めてみる絵を描く専用の道具。そうだ、ここは中央なのだから、こういう需要の少ないの店だってあるに決まっている。
「えと……」
カルラはまっすぐにその店の前までやってきた。店先に並んでいる道具をいくつか眺めてみる。
……やはり高い。仕方ないさ、買う人がそんなに居るとは思えない道具なのだから。
少し迷った後、カルラは店の中に入った。買っても町には持ち帰れないが、どんな道具があるのか見てみたかった。どうしても欲しくて買ってしまったら、街に帰る途中で林にでも隠してやる。
「いらっしゃいませ」
「は……はい」
店に入ると、店の人間らしい男の人が定型の挨拶をしてきた。それに小さい声で返事をしてしまったが、別に返事をする必要はなかった。何を緊張しているのだろう?
店の男は特に気にせず、手に持った本を読み始めた。カルラはホッとして商品を見て回り始める。
「……」
声も出なかった。見たこともない道具の山だ。
カルラが一度も使ったことのない絵の具が当たり前に売られている。この中の数色を手に入れるだけで、絵の完成度がグッと高められる。
筆の種類も多彩だ。細い筆太い筆、硬い筆軟らかい筆。先が丸まっている物、角ばっている物。これらがすべて絵を描くための物なのだ。
最近自分は何で絵を描いた? 藁の先だぞ? 筆ですらなかったんだ。この中のどれか一本でも自由に使わせてもらえるなら、描く場所は岩の断面でも床の上でも構わないくらいだ。
「……」
顔が赤くなってるのが自分でもわかる。まるで恋人を目の前にしたかのような高揚感だった。あと少しでこの道具達と別れないといけないと気付いてしまったら、カルラは泣きだしていたかもしれない。それくらいの感動だった。
カルラは店の中をゆっくりと回り、その場所についた。
そこは紙を売っている場所だった。見た目はどれも同じだ。実際に描けば違いが分かるのだろうが、それができないのではカルラにはただの紙にしか見えない。だからこの場所は何の感慨もなく通り過ぎるはずだった。
「あ、これ……」
紙を売っている端にそれは置いてあった。使い古された筆と、落書きだらけの紙。そしてそこには、『ご自由にお描きください』と書いてあった。
つまり、これは試し描きをしてもいい場所なのだ。描き心地を実際に試すための場所……絵を描いてもいい場所なのだ。
「あ……あ……」
カルラの視線は完全にそこに奪われてしまった。
描いていいのだ。ここには自由に絵を描いていい。しかも、使い古されているとはいえ、専用の筆を使って、専用の紙に描くことができる。それがどれだけ素晴らしいことか、カルラには分かる。
でも、本当に描いていいのだろうか? いや、試し書きをするための場所だということは分かる。だからここには描いていい。だが、道具を買う気もない自分が描いてもいいのだろうか?
カルラはそんな疑問を持ち、ちらりと紙の値段を見た。……思ってたより高い。だが、買えない額じゃない。自由に絵を描く料金にしては安いくらいかもしれない。
描き心地が良かったら買おう。カルラはそう考えて筆に手を伸ばした。
その時、なにか……小石が床に転がるような音が聞こえた……。
『絵を描くんじゃありませんッ!』
「!?」
カルラは突然母親の怒鳴る声を聞き、驚いて手を引っ込めてしまった。あたりを見回すが母親はいない。当たり前だ。
カルラはもう一度筆に手を伸ばす。だが……。
『お前は何度言ったらわかるんだ!』
「あ、痛ッ!」
今度は父親の声と共に、頭に殴られたような痛みが走った。カルラは痛みが走ったところに手を添えたが、痛みはすでに消えていた。
「……」
カルラは呆然として自分が今触ろうとした筆を見つめた。筆は変わらずそこにある。だが、カルラはその筆に手を伸ばすことができない。
「ちょっと……まって……」
カルラは慌てて筆を売っている場所に移動する。そして一番安い筆に手を伸ばした。
『どうしてお前は……!』
『いい加減に……何のために今まで……』
「ひッ!」
カルラは手を伸ばしたまま怯えたように震える。間違いなく自分の親の声だ。親の声が、カルラに向かって絵を描くなと叫んでいる。怒鳴るように、怒りを込めて声を張り上げている。そのうち、叫ぶだけでは足りなくなり、手を振り上げた。
「や……」
カルラは手をひっこめた。それと同時に声は消える。痛みも来ない。
「どうして……?」
カルラは自分にしか聞こえない呟きを言った。なんなんだこれは? どうして居もしない両親の声が聞こえてくるんだ? 絵の道具を触ろうとしただけなのに……。
「まさか……」
カルラは最悪の想像をした。
自分はまさかトラウマになっているんじゃないだろうか? 両親の懸命なしつけによって、絵を描く道具に触れることに恐怖を覚えているんじゃないだろうか?
思えば最後に筆を使って紙に絵を描いたのはずいぶん前だ。あの日は、今までにないくらい痛みつけられて心底懲りたんじゃなかったっけ? それ以来筆を持っても、字以外書くことは無いように自分を抑えつけていた。
だから、絵を描く専用の道具に触れることができなくなってしまった?
「いや……」
カルラはそんな想像を否定したくて、店中の商品に手を伸ばしてみた。すると、考えが的中したように、手が道具に触れそうになると両親の声が再生された。
どの道具に手を伸ばしても、不意をついても、目をつぶっていても、触ろうとすると両親の声がする。『絵を描くんじゃない』と叫んで叱る。
「こんなの……」
ひどい! カルラは心の中で両親に向かって叫び返してやった。しかし、両親の声はびくともしない。カルラの嘆きなど耳に入らないかのように声を荒げてくる。
「いらっしゃい。何かお探しですか?」
「!?」
店の人が話しかけてきた。気付くと、店に入ってから随分時間が立っている。さすがに迷惑かもしれない。
「……あ」
カルラは店の人に背を向けて走り出した。走りながら心の中で叫んだ。
(誰か……誰か私を許して! 褒めてくれなくていい! 関心なんて持ってくれなくていいから、ただ私に一言……『絵を描いてもいい』と許しをください!)
カルラはそのまま親衛隊の受付まで走って行った。
* * *
カルラは机に突っ伏して落ち込んでいた。
「……私は馬鹿だ」
心底そう思った。画材屋でのことではない。宿に着いてから、自分の財布を落としてしまっていたことに気付いたのだ。
幸い、親が出してくれた旅費とは別にしていたから、中央に滞在することは問題ない。だが、お金を落として気落ちしない人間などいないだろう。カルラは、今日つくづく自分が嫌になった。
「お客様、国からお荷物が届いています」
落ち込んでいると、宿屋の女がそう言ってドアを叩いてきた。国から荷物ということは、親衛隊試験がらみだろう。両親という牢獄から抜け出すためにも、しっかりしてそれを受け取らなくては……。
カルラはそう考えて無理やり立ち上がり、ドアまで向かう。
「ありがとうございます。どれですか……?」
「お届け物はこれですよ。可愛らしい模様が描いてあるお財布です」
「え……あ!」
カルラはそれが何かを理解すると、すぐにそれを手に取った。それは今日なくしてしまった財布だった。どうやら誰かが見つけて国に届けてくれたらしい。
「よかったですね? ふふ」
「は、はい……」
宿の女はニヤニヤとしながらカルラを見つめている。少し子供っぽいがらの財布だから笑われたのだろう。恥ずかしいからあまり人に見せないのだが、この上なく恥ずかしい形で他人に見られてしまった。
「ありがとうございました……」
カルラはできるだけ早くひとりになりたくてドアに手をかけた。すると、宿の女が慌ててもう一つ何かを差し出した。
「あ、それとは別に届き物があるんです。何でも、届けてくださった方がこれも一緒にと……」
「? そうですか」
カルラは不思議に思いながらそれも受け取る。ちょっと怪しいが、わざわざ財布を届けてくれる人なのだから変なものではないだろう。
「んと……」
カルラは一人になると一応財布の中身を確認する。中身は特に抜き取られていない。変なものも入っていないし、そのまま届けられたらしい。疑った自分が少し恥ずかしかった。
届けてくれた人はやはり悪い人ではないのだろう。そうなれば、気になるのはもう一つの荷物だ。これは何だろう? 小さな箱を、荷物を包むための紙でくるんである。
思い切って紙をはがしてみた。すると、それは別に何の変哲もない箱だった。なら、重要なのは中身ということだ。カルラは軽い気持ちでそれを開ける。
「これ……」
中には三つの物が入っていた。今日穴があくほど見つめていたあの道具だった。
「筆と紙……それとインクも……」
瞬間的に、財布を届けてくれたのは画材屋の男の人だったのだと理解した。画材屋の人が、あまりにも長い間道具を見ていた自分を憐れに思い、筆と紙とインクを一つずつくれたのだろうか?
「でも私は……」
カルラは一瞬その道具から目をそらしてしまった。
確かにこの道具がもらえたのは嬉しい。だが、自分は絵を描く道具に触れることができない。それなのにこんなに近くに、絵を描く道具があるなんてむしろ残酷だ。明日お礼を言うついでに返してこよう。
カルラはそう思いながら再び箱の中身を見た。そして、紙に何か書いてあることに気付く。
『ご自由にお描きください……』
そこまでは店に置いてあった紙にも書いてあった。だから、これだけしか書いていなければ、カルラはそのまま箱を閉じてしまっていたと思う。だが、その後ろにもう一言書いてあった。
『ご自由にお描きください……カルラ・ビショフ様』
そこには、カルラの名前が書いてあった。はっきりと、フルネームで……。
「わ……たし……?」
カルラはそう言ってもう一度紙に書いてある言葉を読んだ。
「ご自由にお描きください……カルラ・ビショフ様」
そこにはさっきまでと全く同じ文が書かれてあった。カルラがそれを声に出して読んでも、消えることは無かった。
恐らく店の男は軽い気持ちで書いたのだろう。財布に名前が書いてあったから、からかうくらいの気持ちで名前を書いたのかもしれない。
それでも、この文は名前を書いたことによって、カルラに向けてのメッセージになった。
ご自由にお描きください。
絵を描いていいと言われた。それは赤の他人からの言葉ではあったが、絵を描いてもいいという間違いのないメッセージ。カルラに絵を描くことを許可する言葉だった。
「……ん!」
カルラは恐る恐る筆に手を伸ばす。筆を良く見ると、使い古されたあの筆だった。カルラを最初に拒絶したあの道具……。
いや、この道具が拒絶したんじゃない。ただ、両親が邪魔をしただけだったんだ。この道具はむしろ、絵を描いてくれと言ってるじゃないか。よく使いこまれたことによって筆じゅうについた、この傷がその証だ。
「……あ」
カルラは筆に触ることができた。そのまま持ち上げて見る。カルラを叱る声など聞こえない。部屋の中は静かなものだ。
カルラは筆にインクを付けて紙の上に持って行った。はじっこに細く線を描いてみる。素人のカルラには分からないが、書き心地は良い様な気がする。少なくとも、埃にまみれた床よりは快適だ。
カルラは手で目をぬぐった。危うくせっかくの紙が汚れてしまうところだった。
気を取り直して絵を描こうとするが、また手で目をぬぐわなくてはならなかった。今度は腕を使って念入りに目のあたりをぬぐった。
それなのに、目からどんどん熱いものが出て来て止まらない。せっかく絵を描いてもいいというのに、道具がここにあるというのに、これじゃあ店の時と同じじゃないか。
……いや、違うか。だってこれが終わったら自由に絵を描けるんだから。今度は絵を描いてもいいって言われたんだから。だから慌てなくていいんだ。
だから……今は泣こう……。
カルラはそう考えて、声を押し殺して泣いた。