用済みと「畳は刺せる」と言われ、七年ぶんの寸法採りから手を引きました——踏めば、お宅の框だけ浮いて鳴る
角は、初めから揃っておりません。
喉の奥へ、畳針を一本、逆さに飲み込んだようだった。抜けば血が出る。ならば置いておくしかない。
「お前がいなくても、畳は刺せる」
為蔵は、板の間へ立てかけた三枚を顎で示した。刺し上がったばかりの畳は、青い匂いばかり一人前で、框の角は一枚ごとに一分ずつ違っている。困らないのだそうだ。角のほうは、すでに三枚ぶん困っているというのに。
「千賀は寸法を見ていただけだろう。差し金を当てて、数字どおりに切れば足りる」
留吉まで、父の横からそう言った。夫婦七年の重みは、差し金一本より軽いらしい。差し金が嫁入りしてくれば、飯も炊くのだろうか。たいそう器用な道具である。
「聞いているのか」
「はい」
千賀は立てかけた畳の前へしゃがんだ。右の一枚は、框の下がわずかに甘い。真ん中は上を落としすぎている。左はそもそも角が立っていない。三枚合わせて、直し賃は半枚ぶん。言葉にすれば、また「細かい」と片づけられる値打ちだ。
千賀は指を出しかけ、膝へ戻した。頼まれていない。見なくても困らない方々には、角の一分など初めから存在しないのである。
「明日からは留吉に任せる。お前は奥のことだけしていればいい」
「奥のこととは、どこまででございましょう」
「飯と洗い物と、かめの手伝いだ」
三食に水仕事、それに義母の御機嫌取り。畳に直せば毎日二枚半、繁忙日は三枚。しかも代金は出ない。なかなか景気のよい注文だが、注文主だけが景気よく、請ける側の懐は七年間ずっと冬だった。
「返事は」
「承知しました」
千賀は畳へ触れずに立った。框の角は揃っていない。初めから、何ひとつ。
* * *
二分は、見なければ消えます。
翌朝、千賀はいつものように仕事場の柱を撫でた。南側は二分、北側は一分、去年より痩せている。差し金が示すのは今日の幅だけで、梅雨に膨らむぶんも、冬に板が引くぶんも教えてはくれない。柱というものは無口なくせに、年じゅう寸法を変えてくる。嫁よりよほど手がかかる。
これまでは、その癖を寸法棒へ刻んでいた。どの角を削り、どこを一分残すか。為蔵が畳床を切る前に印を移し、留吉が気づかず刺せるところまで整える。それで納まれば、為蔵の経験。納まらなければ、千賀の測り違い。なんと便利な家だろう。責任だけは、一枚の畳へ二人ぶん載る。
「朝から柱なんぞ撫でて、埃がつきますよ」
かめは帯の端を直しながら言った。今日の帯は、金糸の入った新しい品だ。あの帯で框が三十枚。三十枚ぶん腰を締めておいでの方が、柱を一度も撫でていないのは不思議ですこと。
「もう仕事場へ出なくてよいと、お義父さんから伺いました」
「そう。女が前へ出すぎると、留吉の顔が立ちませんからね」
顔は立っても、畳の角は立たない。世の中、立てる順番がむずかしい。
千賀は寸法棒から手を離した。南二分、北一分。見なければ消える寸法なら、今日から消して差し上げよう。
昼前、庄六が畳表の見本を抱えて来た。仕事場へ上がると控えを開き、余計な挨拶を一つも足さずに読み始める。
「座敷八枚、次の間六枚、廊下二枚。計十六枚」
「表は十六。縁は十八枚ぶん届いております」
「予備二枚。幅、南が五尺八寸三分、北が五尺八寸二分」
「控えは同じです。柱際だけ、寸法棒で採りました」
「一本、借ります」
「どうぞ」
千賀は短い寸法棒を渡した。庄六は受け取り、十六と十八をもう一度指で追って控えを閉じた。数量、寸法、以上。夫婦より話が早い。余分な言葉がないぶん、畳なら四分の一枚ほど得をした気分である。
「では、十六枚」
「はい。十六枚でございます」
庄六が辞したあと、千賀は柱を見た。南二分、北一分。今日も柱は正直だったので、千賀も黙っていることにした。
* * *
頼まれた数だけ、数えました。
千賀が数えたのは、預かったものだけだった。畳表十六枚。縁十八枚ぶん。糸六把。自分の寸法で切った紙は、南北も東西も、柱の癖も書いたまま箱へ揃えた。破りもしない。隠しもしない。七年ぶん親切にして、最後だけ意地悪をするほど暇ではない。
「これで全部か」
為蔵が箱の中を覗いた。千賀は控えと現物を一つずつ指で合わせた。数える手だけなら誰にでもできるそうなので、たいそう丁寧に、頼まれた数だけ数えてみせた。
「表十六枚、縁十八枚ぶん、糸六把。寸法の控えは納め先ごとに重ねてあります」
「ならいい」
「南の座敷は——」
留吉が紙を一枚持ち上げた。千賀は続きを待ったが、留吉は「南」の字を見ただけで箱へ戻した。二分残す理由を訊く気はないらしい。質問一つで畳が救われるところだったが、畳にも運不運がある。
千賀は自分の櫛と針箱、替えの足袋を風呂敷へ包んだ。かめは土間の上がり口に立ち、新しい帯の端を二度直した。呼び止める代わりに、帯だけがたいそう正しく胸元へ納まった。
「どこへ行くつもりだ」
「伯母の空いている裏座敷を借ります」
「大げさな。仕事場へ出るなと言っただけだ」
飯を炊き、洗い、御機嫌を取り、名のつかない仕事だけは続けろということらしい。無銭で一日三枚。年に直せば、考えるのも腹立たしい枚数である。
「留吉」
千賀は夫を見た。留吉は箱の中の寸法紙を揃えている。紙の端ばかり見て、千賀のほうは見なかった。
「差し金を当てれば足りるのでございましょう?」
「数字どおりならな」
「承知しました」
千賀は風呂敷を抱え直した。警告はしない。予告もしない。ここで口を出せば、また千賀が埋めることになる。それでは、いつまで経っても要らない者を辞められない。
「わたくしは要りようございませんのね」
為蔵は返事をせず、留吉も顔を上げなかった。千賀は誰にも袖を掴まれないまま、敷居を越えた。
門を出てから、足袋の底で道の傾きを測る。西へ一分下がっている。世間まで真っ直ぐではないらしいが、家の板の間よりは、よほど歩きやすかった。
* * *
目だけは、きれいに揃いました。
千賀のいない最初の月、畳は見事に揃って仕上がった。目の幅も、縁の出も、縫い目の間も。板の上へ立てて眺めるなら満点である。据えさえしなければ。
南の座敷では柱際がきつく、北では一分余った。為蔵は畳表が湿気を吸ったせいだと言い、留吉は床板が反ったせいだと言った。畳表と床板、濡れ衣二枚。よく揃っている。
千賀はその月の終わりに一度だけ、残してきた冬物と小鍋を取りに戻った。仕事場を通ると、壁際の寸法棒が目に入る。南の柱へ当てた刻みが、古いままだった。
見るな。触るな。もう一分も要りようがない女なのだから。
千賀の手は、勝手に寸法棒を拾った。刃を当て、南を二分、北を一分だけ直す。やってしまった。未練とは、三文芝居の台詞ではなく、こうして指先が先に働くことらしい。しかも直し賃は取れない。最低の客である、自分が。
「何をしている」
留吉が仕事場の入口に立った。千賀は寸法棒を壁へ戻し、刃を布で拭いた。
「刻みが違っておりましたので」
「父上は、表が悪かったと言っている」
「そうでございますか」
それ以上は言わなかった。留吉は真新しい畳床を見たまま、千賀を見ない。千賀も小鍋を風呂敷へ入れた。その一度で終わりにする。一分を直すたび、七年へ戻っていては身がもたない。
借りた裏座敷へ戻った日の夕方、庄六が来た。戸口で包みを差し出し、千賀が開くと、貸していた短い寸法棒が入っていた。
千賀は寸法棒を受け取り、作業台へ置いた。庄六は控えに一本と記し、それだけで辞した。寸法棒はまっすぐなのに、持つ者が変われば何も測らない。ただの木切れになる。木切れなら薪何本ぶんか。そこまで換算して、千賀はやめた。さすがに可哀想だ、寸法棒が。
それから五か月、為蔵の畳は目だけきれいに揃い続けた。柱際の隙間を縁で隠し、きつい角を叩いて納め、梅雨には持ち上がり、乾けば鳴った。取引先は一軒減り、また一軒減った。千賀は数えなかった。もう、預かっていない数だった。
* * *
踏めば、角は答えます。
町の普請で新しい座敷へ畳が納められた翌朝、お梶は入口で履物を脱いだ。為蔵の説明より先に、一歩、二歩と畳の上を歩く。六枚の目は整然と並んでいる。見栄えだけなら、どこへ出しても恥ずかしくない。見栄えだけなら。
千賀も呼ばれ、座敷の端に控えていた。お梶がなぜ自分まで呼んだのかは聞かなかった。慰めを言う人ではない。用があれば呼び、なければ呼ばない。その短さが、千賀にはありがたかった。
お梶の足が框の角へ乗った。
こ、と乾いた音がした。
「床板が馴染んでおりませんので」
為蔵がすぐに言った。お梶は返さず、同じ角へもう一度体重をかける。今度は、かた、と一段高く鳴った。
「表が朝の湿りを吸いまして」
「為蔵」
「はい」
「いま、表は踏んでいないよ」
お梶の声は短かった。為蔵の説明が、畳一枚ぶん余って宙に浮く。留吉は框へ手をかけようとしたが、お梶が先に千賀を呼んだ。
「千賀。踏んでごらん」
千賀は座敷へ上がった。框の角へ足を置く。浮きは二分足らず。柱の南は痩せ、北はまだ粘っている。目は揃っているのに、畳は歩く人の足を押し返していた。
いつもなら、直しに何刻、框何枚ぶん、と頭の中で値踏みが始まる。始まらなかった。
千賀は腰を落とし、柱へ指を当てた。南から北へ、木目に沿ってゆっくり撫でる。七年前から毎朝してきたのと同じように。
「この柱は、南が二分、北が一分、痩せております」
「紙の数字とは違うのかい」
「紙は、幅を記したものです。どこを残して、どこを削るかまでは」
為蔵が鼻を鳴らした。
「その程度は、据えるときに見ればわかる」
千賀は柱から手を離した。
「わたくしは、七年、柱を撫でてまいりました」
座敷の誰も、すぐには口を開かなかった。お梶が框を踏み、浮いた角がもう一度、小さく鳴った。
胸の内で、ずっと立てかけられていたものが、ようやく床へ下りた。
「この寸法を採ったのは誰」
お梶の顔が、まっすぐ千賀へ向いた。
「以前のものは、わたくしです。こちらは違います」
「今回のは」
「俺です」
留吉が答えた。けれど千賀の顔は見なかった。差し金の数字どおりなら足りる。その確信が抜けた顔は、浮いた框より落ち着きが悪い。
「昔の座敷は鳴らなかったね」
「はい」
「同じ柱かい」
「はい」
お梶はもう一度、角へ足を置いた。踏めば答える。框は、人よりずっと話が早かった。
* * *
測る人が、もうおりません。
「この六枚は引き取り。代は払わない」
お梶は浮いた框を指した。言葉が短いぶん、逃げ道も短い。為蔵が口を挟む前に、次の一言が落ちた。
「次の普請にも呼ばないよ」
「お梶さん、たった一枚の角で、それは」
「一枚を踏んで、六枚を見た。目は合っていても、柱には合っていない」
為蔵は框の角へ足を置いた。一度目は、こ、と鳴った。足を退け、まったく同じ場所をもう一度踏む。かた、と返された。
(寸法なんぞ、差し金さえ当てれば誰でも——)
為蔵は口を開かなかった。留吉と二人で畳を起こし、六枚を運び出す。青い表が一枚ずつ座敷から消え、最後に合わない角だけが敷居へ当たった。為蔵は持ち上げ、何も言わずに外へ出た。
「ところで」
お梶は空いた床板を見下ろした。
「町の仕事で、寸法を採っているのは誰だい」
留吉の足が止まった。為蔵は畳を抱えたまま、答えない。家に刺す者は二人いる。測る者は、もういない。お前がいなくても畳は刺せる——なるほど、刺すところまでは本当だった。納まるとは、誰も言っていない。
六枚が荷へ載せられ、為蔵たちはそのまま門を出た。損は紙の上ではなく、青畳六枚の重さで肩へ載っている。千賀は見送らなかった。空いた座敷の四隅を見た。ここなら、南を一分残し、東の框をわずかに落とす。もう手が勝手に仕事を始めている。
それから、柱際が鳴る家、襖の前だけ畳が盛り上がる家、冬になると隙間風が通る座敷から、千賀へ相談が来た。半年で離れた取引先は戻らず、為蔵の家へ運ばれる畳表も減った。千賀はそちらを数えない。自分の台へ載る寸法だけで、手がいっぱいになったからだ。
お梶は短い寸法棒を取り上げ、刻みを親指でなぞった。
「これを使うのは、あんただね」
「はい」
「刺す者とは別の仕事かい」
「別にしていただければ、別の値をつけられます」
言ってから、千賀は少しだけ顎を引いた。しまった。七年無銭だった反動で、口が商人になりかけている。だが値のない仕事に戻るより、ずっとよい。
「あんたの寸法に、町は月いくら払えばいい?」
「月ではなく、納める一枚ごとに。刺し賃の四分の一をいただきます」
「安いね」
「では、三分の一で」
「よし」
お梶は即座に決めた。値切られる支度をしていた千賀のほうが、一拍遅れた。三分の一。十六枚なら五枚と三分の一枚ぶん。帯なら——そこまで考えて、千賀は口元を締めた。仕事の値を、かめの帯へ戻す必要はもうない。
「この座敷を採りな」
「承知しました、お梶さん」
千賀は自分の寸法棒を持ち、空いた床へ膝をついた。
* * *
今度は、わたくしの名で。
次の普請で、千賀は朝から柱を撫でた。南一分、東は半分、敷居際だけ冬に引く。寸法棒へ刻み、紙へ移し、畳床のどこを残すか自分で決める。刺す手を借りても、寸法は渡さなかった。渡すのは数字ではなく、納まる形である。
据え終えた畳は、四隅を踏んでも鳴らなかった。お梶は入口から框を順に踏み、最後の一枚で止まる。
「踏んだよ」
「はい」
「鳴らないね」
「はい」
「なら、名前を入れな」
千賀は畳を一枚だけ返した。框の裏へ細い墨を引き、小刀の先で二文字を刻む。千、賀。家の名も、為蔵の印も借りない。自分が測り、自分が残し、自分の名で納めた畳だった。
墨が溝へ入り、木の色の中で二文字だけが黒く立った。表へ返せば見えなくなる。それでよい。見えない仕事にも、今度は持ち主がいる。
「次も頼むよ」
「何枚でございましょう」
「二間で十二枚。廊下が三枚」
「十五枚ですね」
「そう。十五枚」
お梶はそれだけ告げて、もう一度框を踏んだ。顔を上げたとき、口元がほんのわずかに緩んでいた。千賀は見なかったふりをした。取引相手の顔を一つ見逃すくらい、三分の一枚ぶんにはなるまい。
その夕方、借りた裏座敷の門前へ為蔵と留吉が来た。為蔵は古い寸法紙を束にして抱え、留吉は千賀が直した寸法棒を持っている。道具だけ揃えても使えなかったらしい。釜と米があっても、火を入れねば飯にならない。七年前に教えて差し上げたかった真理である。
「町の普請を請けたそうだな」
「はい」
「うちで請ければよい。もともと、お前はうちで覚えた」
為蔵は家の名を口にした。千賀の名は呼ばない。戻るのは千賀でなく、寸法を採る手であれば足りるのだろう。七年経っても、数え方だけは変わらない。
「紙も残っている。お前が見れば、前の得意先も戻る」
「お義父さん」
「家の名で出したほうが、町も安心する」
框の裏へ入れた二文字が、指先にまだ残っていた。千賀は為蔵ではなく、留吉を見る。留吉は寸法棒を握ったまま、やはり千賀の顔を長く見られなかった。
「戻ってくれ」
一度だけ、留吉が言った。
千賀は責めなかった。七年の目録を読み上げても、畳は一枚も納まらない。差し金の数字どおりなら足りると決めたのは、二人である。千賀はただ、その注文どおりに手を引いた。
「わたくしは要りようございませんのね」
為蔵の抱えた紙が、かすかに鳴った。留吉は返す言葉を失い、寸法棒の刻みへ目を落とす。千賀は戸を閉めた。
ああ、よく閉まる。七年でいちばん納まりのよい戸だった。
翌朝、庄六が畳表の数を書いた控えを持って来た。
「次の普請は霜月の十日から入ります」
「はい」
「表十五枚、予備二枚。計十七枚」
「十七枚、承りました」
庄六は控えを閉じ、それだけで辞した。千賀は寸法棒と針箱を持ち、新しい座敷へ向かった。
朝の柱へ手を置く。南一分、北はまだ動かない。千賀は木目を指でたどり、自分の寸法棒へ最初の刻みを入れた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




