第17話 反撃の刃
放課後の学校、裏階段。錆びた手すりが冷たく、ひび割れたコンクリートに夕陽の赤黒い光が滲む。湿った空気に、タバコの焦げた匂いが混じる。遠くの体育館から、バスケットボールの跳ねる音がかすかに響く。俺、如月隼人、16歳。細身の体に汗で張り付く髪。ポケットのスマホを握る手が、わずかに震える。カメラアプリを起動する指先に、冷や汗が滲む。胸の奥で、怒り、恐怖、罪悪感が渦を巻く。まるで、心臓に刃が突き刺さり、ゆっくり抉られるような痛みだ。
美奈を守らなきゃ。新川美奈、6歳。大きな目、「隼人おにぃ」と呼ぶ小さな声。昨日の図書室、目を真っ赤にして絵本を握りしめた姿。「黒い人、来ないよね?」 あの震える声が、頭の中で反響する。テレビの殴る音に怯えた夜、暗い部屋の悪夢。あの子の笑顔の裏に、どんな闇が潜むのか。考えるたび、胸が熱く燃え、同時に冷たい絶望が這い上がる。俺は何も知らない。美奈の過去は、俺にとってただの暗闇だ。その無力さが、心を切り裂く。
冬美早記の私信が、頭の奥で響く。「1週間後に、私の記事を上回るネタを持ってきなさい。なんでもいい。先輩の本性、喧嘩の原因がカツアゲだった、誰かの汚い秘密。できなければ、わかるよね? 大切な人のために、他人の人生を売る覚悟があなたにできるか。」 あの女の狡猾な声、歪んだ笑み。昨日録音した田中のカツアゲ会話――「新入生から50万、100万」「親父が市議会議員で脅す」――は強烈だったが、早記の求める「決定的な証拠」には写真が必要だ。だが、他人の人生を売る行為は、俺の心を蝕む。美奈を守るため、俺はどこまで汚れなきゃいけない? その問いが、胸を刃で刺す。
階段の下、田中先輩の声が響く。去年、俺と喧嘩した3年生。カツアゲ野郎。あの時、アイツが新入生を脅してたから突き飛ばした。腹の底で、怒りが再び疼く。俺は影に身を潜め、スマホを構える。心臓が、脈打つたびに胸を締め上げる。踊り場に、ガリガリのメガネ男子。1年生。田中が言ってた「図書室のやつ」。細い肩が震え、教科書を胸に抱く。田中がそいつの襟首を掴み、取り巻きの佐藤と山本がニヤつく。
「おい、メガネ。50万、今日までだろ? 金持ってこねえと、どうなるかわかってんだよな?」 田中の声は低く、刺すように鋭い。1年生の顔が恐怖で歪む。「で、でも……そんなお金、僕には……!」 声が震え、涙がメガネの奥で滲む。俺の胸が締め付けられる。止めたい。田中をぶん殴りたい。だが、早記の声が頭を刺す。「他人の人生を売る覚悟」。俺はスマホを握り、シャッターを切る。カシャ。田中の暴力的な手、1年生の怯えた顔。心が軋む。まるで、俺の良心が砕ける音だ。
「ふざけんなよ。」 田中が1年生の肩を突き飛ばす。教科書がコンクリートに落ち、ページが破れる。「俺の親父、市議会議員だぞ。逆らったら、お前の親ごとSNSで晒して人生終わらせてやる。100万でもいいぞ? 親の銀行カード、さっさと持ってこい。」
「やめて……お願い……!」 1年生が膝をつく。涙がコンクリートに落ちる。カシャ。俺はまたシャッターを切る。怒りと罪悪感が絡み合う。止めなきゃ。だが、動けば証拠がパーになる。美奈が危なくなる。「隼人おにぃ」が頭で泣き叫ぶ。早記にこの写真を渡せば、美奈は助かるかもしれない。だが、俺はこいつを見捨ててる。1年生の涙が、俺を共犯者のように抉る。
その瞬間、背後の空気が変わる。佐藤が振り返り、俺の隠れる影に目をやる。
「ん? 誰だそこ!」
心臓が跳ねる。やばい。スマホをポケットに突っ込み、階段を駆け上がろうとする。だが、遅い。
「てめぇ、如月か!」
田中の声が背中に突き刺さる。振り返ると、田中が踊り場から俺を見上げ、蛇のような目でニヤリ。佐藤と山本が階段を塞ぎ、1年生は教科書を抱えて縮こまる。
「コソコソ隠れて、俺のこと撮ってたのか?」
田中が一歩踏み出す。タバコの火が床に落ち、赤い火花が散る。
「生意気な野郎だな、如月。医大目指してるって聞いたぞ。医者になる気かよ? お前みたいな貧乏人が、偉そうに!」
喉が締まる。医大。親の借金を返すため、美奈に未来をやるための夢。どうやって知った? 早記の情報網か? 恐怖が這い上がる。「親父が市議会議員なの、知ってるよな?」 田中が近づく。タバコと汗の匂いが息苦しい。
「親父に一言頼めば、お前の医大受験、簡単に潰せる。推薦枠? 願書? 全部パー。お前の人生、俺がこの場で終わらせてやる。」
田中の手が俺の胸ぐらを掴み、コンクリートの壁に押し付ける。背中に鈍い痛み。佐藤が肩を掴み、山本が1年生を押さえつける。泣き声が響く。
「スマホ渡せ。」
田中の声が刺す。
「今すぐ写真消せ。さもないと、親父に電話一本。医大の夢、粉々にすんぞ。ついでにお前の親の借金、SNSで晒して、美奈ってガキも地獄に落とす。」
美奈の名前が雷のように響く。
「黒い人、来ないよね?」
あの子の目が脳裏に焼き付く。逃げ場がない。スマホを渡せば証拠が消え、早記の試練に失敗する。美奈が危ない。だが、渡さなければ医大の夢が終わる。胸で怒りと恐怖が刃のように絡み合う。心が、コンクリートに叩きつけられ、ひび割れる。
だが、ふと、頭で何かが閃く。田中の言葉――「親父が市議会議員」。昨日の録音。
「親父が市議で脅す」
それが、俺の刃になる。目を細め、田中を睨み返す。震える唇が動く。
「田中、お前の親父、本当にそんな力あるのか?」
声は意外に落ち着いてる。田中の目が一瞬揺れる。
「市議会議員って、汚い金の噂、結構あるよな。カツアゲの金、親父の選挙資金に流れてねえ? 俺、昨日のお前の会話、録音してんだよ。」
空気が凍る。田中の手が緩む。佐藤の笑みが止まり、山本が1年生を離して振り返る。
「新入生から50万、100万。『親父が市議で脅す』って、はっきり言ったよな。その録音、早記に渡したらどうなる? 雑誌のトップ記事だ。親父のキャリア、終わるぜ。SNSで拡散されたら、お前の人生も一緒に終わりだ。」
田中の顔が歪む。蛇の目が、怯えた獣に変わる。心臓が跳ねる。効いてる。実は録音の音質は悪く、証拠としては弱い。だが、田中は知らない。俺のブラフが、こいつの恐怖を突く。
「お前、ふざけんな……!」
田中が声を荒げるが、目は動揺で揺れる。
「録音なんて、あるわけねえ!」
「試してみるか?」
スマホを取り出し、画面をチラつかせる。田中の目が吸い込まれる。
「この写真と録音、早記に渡せば、お前の親父の汚職疑惑、即バレ。市議の息子がカツアゲ三昧。最高のスキャンダルだろ?」
佐藤が田中に耳打ちし、山本が一歩踏み出す。空気が剣呑になる。だが、俺は目を逸らさない。美奈の「そばにいてね」が頭で燃える。医大の夢、美奈の未来、俺が守る。この手は汚れてる。なら、この汚れを刃に変える。「選べ、田中。」 目を真っ直ぐ見据える。
「俺を潰すか、親父の秘密がバレるか。どっち取る?」
田中の息が荒くなる。拳が震える。階段の空気が、心臓を握り潰すように重い。だが、俺の目は揺れない。霧の中で、俺の決意が刃になる。