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第13話 ゆらぐ決意

夕暮れの孤児院は、薄い霧に沈んでいた。裏門近くの狭い庭、古い鉄フェンスの向こうで木々が不気味に揺れる。俺、如月隼人、16歳。細身の体に少し伸びた髪が、霧で湿って額に張り付く。ほうきを手に落ち葉を掃くが、頭の中は数日前、冬美早記との対峙で埋め尽くされている。あの黒いロングコート、歪んだ笑み、「私のもの」という言葉。胸の奥で、名前のつけられないざわめきがうごめく。まるで、心臓の裏側を爪で引っかかれるような感覚だ。


(美奈を、絶対に渡さねえ。あいつの笑顔を守る。それが、俺のそばにいる理由だ。)


美奈、6歳。大きな目、「隼人おにぃ」と呼ぶ小さな声。昨夜の図書室、震える肩と怯えた目。「黒い人」の話。テレビの殴る音に泣きじゃくった夜。暗い部屋に閉じ込められた夢。あいつの笑顔の裏に、どんな闇があるのか。考えるだけで、腹の底から熱いものが込み上げる。なのに、俺は何も知らない。美奈の過去、俺には何も見えねえ。それが、胸を締め付ける。まるで、俺の無力さを嘲るように。


ほうきを動かす手が止まる。フェンスの向こうで、影が動いた。心臓が喉元で脈打つ。あの女だ。冬美早記。黒いロングコート、帽子を深く被った姿。霧の中、彼女の足音が鈍く響く。まるで、闇が歩いてくる。彼女の手には、くしゃくしゃの美奈の写真と、分厚い紙の束。雑誌の原稿だ。俺の喉がカラカラに乾く。霧が、まるで俺の心を包み込むように濃くなる。


「また会ったわね、如月隼人くん。」


早記の声は低く、霧に溶ける。帽子の影から、口元が歪む。俺の名前を知ってる。どうやって? 背筋に冷たいものが走る。彼女がフェンスに近づき、紙の束を掲げる。表紙には、でかでかと「不良少年の告発:如月隼人の暴力と問題行動」と書かれている。俺の名前が、太字で嘲るように並ぶ。胸が締め付けられる。まるで、俺の存在自体がその紙に押し潰されそうになる。


「何だよ、それ……。」


声が、かすれる。早記は笑う。まるで、獲物を追い詰めた獣だ。彼女が原稿をめくる。そこには、俺の過去が歪められた言葉で並ぶ。


「如月隼人、昨年9月に校内で先輩と暴力沙汰、相手に軽傷を負わせる」「授業を繰り返し無断欠席、教師に反抗的な態度」「孤児院内で他の子供に威圧的な振る舞い、孤児院の秩序を乱す」。全部、でっちあげだ。いや、喧嘩は確かにあった。去年、先輩が絡んできたとき、俺はただ突き飛ばしただけだ。怪我なんかさせてねえ。授業サボりも、一度か二度、友達と屋上でだべっただけ。孤児院での威圧? そんなわけねえ。なのに、この原稿は本物そっくりのレイアウト。雑誌編集者の早記らしい、完璧な偽装だ。


「ふざけんな……。それ、偽物だろ。俺がそんなやつじゃねえって、分かってんだろ。」


声が震える。早記の目が、帽子の下で光る。狡猾な、蛇のような目。彼女は原稿をフェンスの隙間に押し付け、俺に差し出す。ペンが一緒についている。


「偽物? ふふ、雑誌編集者の私が作ったのよ。本物そっくりでしょ? ほら、ここに書いてある。如月隼人、16歳。孤児院の不良少年。学校で問題児、孤児院でも他の子を怖がらせてる。職員が見たら、どう思うかしら?」


胸に冷たい刃が突き刺さる。俺の過去を、こんな風に捻じ曲げやがって。頭の中で、佐伯先生の顔がちらつく。彼女は俺を信じてくれるか? 去年の喧嘩で、「隼人くん、気をつけてね」と言ったあの優しい声が、頭に響く。だが、この記事を見たら? 「孤児院の秩序を乱す」なんて書かれたら? 俺の居場所は、ほんとに無くなるのか? 心臓がバクバクする。霧が、俺の視界を狭める。まるで、俺の心を閉じ込めるように。


「ふざけんなよ……。そんな偽物の紙で、俺を脅せると思うな。職員は、俺がそんなやつじゃねえって知ってる。」


嘘だ。ほんとにそう信じたい。だが、頭の片隅で、別の声が囁く。


(職員は、どこまで俺を信じる? あの喧嘩、確かに問題になった。サボりも、佐伯先生は知ってる。もし、この記事が本物だと思われたら……。)


胸が締め付けられる。息が苦しい。美奈の笑顔が、頭に浮かぶ。あいつの「隼人おにぃ」、震える小さな手。俺がここにいられなくなったら、誰が美奈を守る? 佐伯先生か? 他の職員か? いや、誰も美奈の過去を知らねえ。俺しかいねえ。なのに、この記事……。


早記が続ける。「この記事に署名して、こう書けばいいわ。『私は新川美奈と関わりません』。そうすれば、この記事は表に出さないし、美奈ちゃんにも近づかない。簡単な取引でしょ?」


署名? 美奈と関わらない? ふざけるな。美奈の「隼人おにぃ」が、頭の中で叫ぶ。あいつの怯えた目、暗い部屋の夢、テレビの音に震えた夜(9/22)。あのちびを、こんなやつに渡せるかよ。だが、早記の言葉が蛇のように滑り込む。


「署名しないなら、この記事を孤児院の職員に渡すわ。あなた、孤児院に居られなくなるんじゃない? それに、美奈ちゃんは私が連れていく。彼女は私のものなのよ。姉貴の子供を、私が手放すわけないじゃない。」


「私のもの」。その言葉が、頭の中で反響する。吐き気が込み上げる。美奈を、物みたいに言うな。俺はほうきを握りしめ、歯を食いしばる。だが、心の奥で、恐怖がうごめく。(この記事、もし職員にバレたら……。俺、ほんとに追い出されるのか? 美奈が、こいつの手に渡るのか?)頭がぐるぐるする。霧が、俺の心を押し潰す。美奈の笑顔が、遠くなる気がする。いや、ダメだ。そんなわけねえ。俺は美奈を守るって決めたんだ。


「知らねえよ。美奈なんていねえ。お前の偽物記事、燃やしてやる。俺を脅したって無駄だ。さっさと帰れ。」


声が震える。早記の口元が、さらに歪む。「ふふ、自信満々ね。でも、少年、職員はこんな記事見たら、どう思うかしら? 如月隼人、暴力的な問題児。他の子供に悪影響。孤児院に置いておけない、ってね。あなた、どこに行くの? 美奈ちゃんは、私が連れていくわ。彼女の過去、私がどんな目に合わせてきたか、知らないくせに。」


「どんな目」。その言葉が、胸を抉る。美奈の暗い部屋の夢。テレビの音に怯えた夜。俺は目を逸らさず、早記を睨む。だが、心の中は嵐だ。


(俺は、ほんとに美奈を守れるのか? 俺の過去、確かに完璧じゃねえ。喧嘩も、サボりも、ほんの少しあった。それを、こんな風に捻じ曲げられたら……。)


俺の居場所、美奈の笑顔、全部が崩れる気がする。なのに、俺には何もできねえ。16歳のガキに、何ができる? 頭の中で、美奈の「隼人おにぃ」が泣き叫ぶ。俺の手が、震える。ほうきが、地面に落ちる。乾いた音が、霧に響く。


「ふふ……。少年、嘘が下手ね。あなたの目、動揺してるわ。如月隼人、16歳。孤児院の不良少年。過去の失敗、全部ここに書いてある。職員が見たら、あなたの居場所はなくなるわよ。それでも、美奈ちゃんを守るつもり?」


早記は原稿をフェンスの隙間に押し付け、ペンを俺に突きつける。霧の中で、彼女のシルエットが揺れる。俺の拳が震える。署名すれば、美奈は助かるかもしれない。だが、美奈と離れるなんて、考えられねえ。俺のそばにいる理由は、美奈の笑顔を守ることだ。なのに、この記事……。心臓が締め付けられる。まるで、俺の心が鉄格子に閉じ込められたみたいだ。


「警察呼ぶぞ。こんな怪しいやつ、子供の写真と偽物記事持ってウロウロしてんのは、十分通報モンだ。」


俺の声が、霧に響く。早記の目が、わずかに細まる。「警察? ふふ、いいわよ。呼んでみなさい。でも、ね、少年。この記事、職員に見せたら、どうなると思う? あなた、孤児院から追い出されて、美奈ちゃんは私の手に渡る。それでいいの?」


頭の中で、美奈の「隼人おにぃ」が響く。あいつの泣き声、テレビの音に怯えた夜。俺がここにいられなくなったら、誰が美奈を守る? なのに、この記事……。俺の過去の小さな傷を、こんな風に抉ってくるなんて。心が、ぐちゃぐちゃになる。俺は、ほんとに美奈を守れるのか? 16歳のガキに、こんなやつに勝てるのか? 霧が、俺の視界を閉ざす。まるで、俺の未来まで飲み込むように。


突然、裏門の向こうで小さな足音が響く。「隼人おにぃ!」 美奈の声だ。俺は振り返る。美奈が、図書室から抜け出して、庭に立っている。大きな目が、早記を見て凍りつく。彼女の小さな体が震え、絵本を胸に抱きしめる。


「隼人おにぃ、怖い……! あの黒い人、怖いよ……!」


早記の目が、美奈を捉える。歪んだ笑みが、ゆっくり広がる。


「あら、美奈ちゃん。やっと会えた。」


その瞬間、俺の心の中で何かが弾ける。美奈の怯えた目、小さな手、震える声。俺の居場所が無くなろうが、関係ねえ。美奈を、こいつに渡すわけにはいかねえ。俺は美奈を背中に庇い、早記を睨む。


「近づくな! 美奈は、お前なんかに渡さねえ! 偽物の記事だろうが何だろうが、俺は美奈を守る!」


早記は低く笑い、踵を返す。


「次はないわよ、如月隼人。」


彼女の足音が、霧に溶ける。だが、その音は、まるで孤児院全体にまとわりつくように、いつまでも響いていた。


俺は美奈を抱きしめる。彼女の小さな体が、震えている。


「大丈夫だ、俺がいる。絶対に守る。」 


だが、頭の片隅で、早記の記事がちらつく。あれが職員にバレたら……。俺の居場所は、ほんとに無くなるのか? 心臓が、締め付けられる。霧が、俺の心を覆う。だが、美奈の小さな手が、俺の袖をぎゅっと掴む。その温もりが、俺の決意を燃やす。

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