第12話 影との対峙
朝の孤児院は、冷たい霧に閉ざされていた。古い木造の建物は、まるで世界から切り離されたように息を潜める。俺、隼人、16歳。細身の体に少し伸びた髪が揺れ、霧で湿ったシャツの袖口が冷たく肌に張り付く。ほうきを手に中庭の落ち葉を掃くが、頭の中は昨日の佐伯先生の言葉で埋め尽くされている。
(美奈の叔母さん……。虐待。探してる。美奈がそんな目にあってたなんて、俺、なんにも知らなかった……。)
美奈、6歳。あのちびの大きな目、「隼人おにぃ」と呼ぶ小さな声。昨夜の図書室、震える肩と怯えた目。「怖い夢」の話。暗い部屋に閉じ込められ、誰も来てくれない。テレビの殴る音に泣きじゃくったあの夜(9/22の会話)。考えるだけで、腹の底から熱いものが込み上げる。守らなきゃ。あいつの笑顔を、絶対に。
ほうきを動かす手が、思わず強くなる。枯葉が乾いた音を立てて散る。その時、孤児院の古い鉄フェンスの向こうで、黒い影が動いた。俺は手を止め、目を細める。霧の中、ぼんやりと人影が浮かぶ。あの影だ。昨夜、図書室の明かりをじっと見つめていた、黒いロングコートの女。
心臓が喉元で脈打つ。彼女がフェンスに近づいてくる。帽子を深く被り、顔は影に隠れている。コートの裾が霧に濡れて重そうに揺れ、足音が鈍く響く。まるで、闇そのものが歩いてくる。彼女の手には、くしゃくしゃの写真が握られている。美奈の写真。俺の喉がカラカラに乾く。
彼女がフェンスの前に立つ。帽子の影から、口元だけが薄く見える。歪んだ笑み。背筋に冷たいものが走る。彼女が写真を掲げる。小さな女の子。美奈の大きな目が、紙の上で俺をじっと見つめる。
「この子、見たことある?」
彼女の声は低く、霧に溶けるようだ。まるで、俺の心を抉るように響く。ほうきを握る手が震える。細い指が白くなるほど握りしめた。頭の中で、美奈の「隼人おにぃ」が響く。あいつの怯えた目。暗い部屋の夢。テレビの音に震えた夜。あのちびを、こんなやつに渡せるかよ。
「……何のことですか? そんな子、ここにはいませんけど。」
俺は目を逸らさず、声を低く抑えて答える。喉が締め付けられるように苦しい。彼女の口元が、さらに歪む。笑みか、怒りか、分からない。彼女は写真を握る手を震わせ、フェンスに一歩近づく。鉄格子越しに、彼女の目が一瞬だけ見えた。冷たく、底知れぬ闇のような目。俺の息が止まる。
「ふうん……。そう? でも、この子、確かにここにいるって聞いたのよ。美奈ちゃん、でしょ? 6歳。大きな目で、いつも絵本持ってる子。」
名前を呼ばれた瞬間、胸に刃が突き刺さる。どうしてこいつが美奈の名前を……? 佐伯先生の「住所が知られたらまずい」が頭をよぎる。だが、俺は顔に出さない。出したら終わりだ。美奈を渡すわけにはいかない。
「知らないっすね。名前も聞いたことねえ。写真だって、誰だか分かんねえよ。見ず知らずの人間が急に現れて、子供の話持ち出すとか、怪しすぎるんで帰ってくれ。」
声が、なんとか落ち着いて出た。だが、彼女は動かない。フェンスの鉄格子に、ゆっくりと指を這わせる。爪が金属を引っかく音が、キリキリと響く。俺の背筋が凍る。彼女の帽子がわずかに動き、目がもう一度見えた。まるで、俺の嘘をすべて見透かすような視線。霧が彼女の周りで濃くなり、まるで彼女自身が霧の一部になったみたいだ。
「へえ……。本当に? 変ね。私の情報だと、この子、この孤児院にいるはずなの。」 彼女は写真をもう一度掲げ、ゆっくりと続ける。「美奈ちゃん。髪の毛、細くて、ちょっと茶色がかってる。いつも大人しくて、でも、誰かにくっついてる子。……あなた、隠してるんじゃない?」
彼女の声が、まるで蛇の舌のように滑り込む。俺の心臓が締め付けられる。美奈の姿を、こいつがこんなに知ってるなんて。どうやって? 誰から? 頭がぐるぐるする。だが、俺は目を逸らさない。彼女の視線に負けたら、美奈が危ねえ。
「だから、知らねえって言ってるだろ。絵本持ってる子なんていくらでもいる。髪が茶色? そんな子、ゴロゴロいるよ。間違えたんじゃねえの? とにかく、帰れよ。」
俺は一歩踏み出し、彼女を睨む。声が少し震えた。彼女は一瞬、黙る。だが、すぐに口元がまた歪む。笑ってるのか、怒ってるのか、わかんねえ。彼女はフェンスに両手を置き、鉄格子がかすかに軋む。俺の足が、思わず一歩下がる。
「ふふ……。少年、嘘が下手ね。」 彼女の声が、さらに低くなる。「あなたの目、動揺してるわ。美奈ちゃんのこと、知ってるでしょ? 隠してるの、わかるのよ。だって、私、彼女のこと、誰よりも知ってるんだから。」
「誰よりも知ってる」。その言葉が、頭の中で反響する。吐き気が込み上げる。美奈を、物みたいに言うな。俺はほうきを握りしめ、拳を震わせる。言いたいことが喉まで出かかるが、グッと飲み込む。こいつを刺激したら、美奈が危ねえ。
「何だよ、それ。知ってるも何も、俺はそんな子見たことねえ。いい加減、しつこいぞ。警察呼ぶか? 怪しいやつが子供の写真持ってウロウロしてんのは、十分通報モンだろ。」
俺は声を低く、鋭くする。彼女の目が、わずかに細まる。霧の中で、彼女のシルエットが揺れる。彼女は写真をコートのポケットにしまい、フェンスに顔を近づける。鉄格子の間から、彼女の息が白く漏れる。まるで、俺の顔に触れるように。
「警察? ふふ、いいわよ。呼んでみなさい。でも、ねえ、少年。」 彼女の声が、囁きに変わる。「美奈ちゃんは、私のものなの。隠したって、無駄よ。私は必ず見つける。あなたがどんなに嘘をついても、ね。」
「私のもの」。その言葉が、胸を抉る。美奈を、物みたいに言うな。俺はほうきを握りしめ、歯を食いしばる。怒りが、恐怖を押し潰しそうになる。だが、俺はまだ目を逸らさない。こいつの言葉に負けたら、美奈が危ねえ。
「何度も言うけど、知らねえよ。そんな子、いねえ。さっさと帰れ。次来たら、ほんとに警察呼ぶからな。」
俺はもう一歩踏み出し、フェンスに近づく。彼女の目と、真正面から向き合う。心臓がバクバクする。霧が冷たく頬を刺す。彼女は一瞬、俺を見つめ返す。まるで、俺の心の奥まで見透かすように。だが、突然、彼女は低く笑う。
「ふふ……。いいわ。覚えておきなさい、少年。美奈ちゃんは、私が取り戻すから。その時まで、ちゃんと隠しておきなさいね。」
彼女はフェンスから手を離し、ゆっくりと後ずさる。帽子をさらに深く被り直し、霧の中に消える。足音が、鈍く遠ざかる。だが、その音は、まるで孤児院全体にまとわりつくように、いつまでも響いている。俺はほうきを握りしめたまま、動けない。胸の奥で、怒りと恐怖がぐちゃぐちゃに混ざる。
(ふざけんな……。美奈を、絶対に渡さねえ。)
でも、頭の片隅で、別の声が囁く。(俺なんかに、ほんとに美奈を守れるのか? あいつの過去、俺、なんにも知らなかった……。)
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昼下がり。図書室の窓から差し込む光が、美奈の細い髪を照らす。彼女は低い椅子に座り、絵本を胸に抱いている。6歳の小さな手は、ページをめくるでもなく、ただ本をぎゅっと握っている。大きな目が、どこか遠くを見ている。昨夜の怯えた顔が、まだそこにある。
俺がドアを開けると、美奈が顔を上げる。目を丸くして、笑顔がぱっと広がる。だが、その笑顔はガラス細工のように脆い。まるで、テレビの殴る音に泣きじゃくったあの夜(9/22の会話)の続きだ。
「隼人おにぃ! 掃除、終わった?」
「ああ、終わったよ。……お前、絵本読んでるか?」
無理に笑って、俺は彼女の隣に腰を下ろす。クッションが沈む。だが、頭の中はさっきの女のことでいっぱいだ。黒いコート。歪んだ笑み。美奈の写真。「私のもの」。あの目。胸が締め付けられる。美奈の小さな横顔を見る。あいつの笑顔の裏に、どんな恐怖が隠れてるのか。考えるだけで、息が苦しい。
「なあ、美奈。」 俺は声を低くして言う。「この前、変な感じするって言ってたよな。……最近、なんか、変なやつ、見なかったか? 黒い服着たやつとか。」
美奈の手が止まる。目を伏せ、絵本の角を小さな指でぎゅっと握る。彼女の体が、ほんの少し縮こまる。声は、ほとんど囁きだ。
「……うん、ちょっと。窓の外、なんか、黒い人いた気がして……。でも、夢だったかな? 隼人おにぃいるから、だいじょうぶだよね?」
その言葉に、胸が凍る。黒い人? やっぱり、あの女を……? 美奈の大きな目が、潤んで光る。涙か、光の反射か、分からない。だが、6歳の子供がこんな怯えを抱えてるなんて。腹の底から、熱い怒りが込み上げる。
(「私のもの」だって? ふざけんなよ。あいつの笑顔を、絶対に奪わせねえ。)
口には出せず、俺は拳を握りしめる。美奈が俺の袖をぎゅっと掴む。その小さな手が、頼りなげに震えている。俺はそっと彼女の頭に手を置く。細い髪が、指の間を滑る。
「なぁ、美奈。俺、いつもそばにいるからな。……何かあったら、絶対言えよ。約束だ。」
美奈は小さく頷く。だが、彼女の目は、窓の外の闇をちらりと見る。まるで、そこにまだ何かいるような気がして。俺は彼女の小さな背中を見つめ、胸の奥で何かが燃えるのを感じた。守らなきゃ。このちびを、絶対に。
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夕方。孤児院の外、霧が晴れた空の下。黒いロングコートの女が、遠くの街灯の下に立っている。帽子を深く被り、顔は見えない。彼女の手には、美奈の写真が握られている。写真の端が、彼女の爪で裂けている。彼女は孤児院の門をじっと見つめ、口元が再び歪む。低く、囁くような声が漏れる。
「……隠したって、無駄よ。」
彼女の足音が、夕暮れの静寂に響く。まるで、孤児院全体を包み込むように。その影は、門の鉄格子に長く伸び、ゆらゆらと揺れていた。
俺の声が、頭の中で響く。
「美奈を、絶対に渡さねえ。あいつの笑顔を守る。それが、俺のそばにいる理由だ。」