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第11話 漏れ聞こえた真実




夕暮れの孤児院は、まるで息を殺すように静まり返っていた。古い木の廊下が、窓から差し込む夕陽の光で血のように赤く染まる。俺、隼人、16歳。細身の体に少し伸びた髪が揺れ、汗が額を伝ってくすんだシャツの袖を濡らす。モップを手に床を磨くのはいつもの仕事だ。だが、今日は胸の奥で、名前のつけられないざわめきがうるさい。


(美奈のやつ、今日も図書室で絵本読んでたな。あのちび、最近、笑顔が薄い。目が……なんか、遠くを見てんだよ。まぁ、俺がそばにいりゃ、怖いもんなんてねえはずだろ。)


バケツの水をかき混ぜる。濁った水面に映る自分の顔は、いつもよりやつれて見えた。目を細める俺の耳に、廊下の奥から低く響く声が届く。職員室のドアが、ほんの少し開いている。いつも鍵がかかってるはずのその隙間から、佐伯先生の声が漏れていた。40代の穏やかな女の先生だが、今日は声に冷たい影が混じる。


「……美奈ちゃんの叔母さん、ひどかったらしいよ。まだ3歳なのに、ろくに食事も与えられず、暗い部屋に閉じ込められて……。あの子が逃げてきたのは、奇跡みたいなものよ。」


モップを握る手が凍りつく。水滴が床に落ち、ぽたぽたと不気味なリズムを刻む。心臓が喉元で脈打つ。職員室のドアに目が釘付けになった。


(叔母さん? 虐待? 美奈が……そんな目に?)


頭の中で、言葉が刃のように突き刺さる。美奈、6歳。あの小さな体、大きな目で絵本をじっと見て、俺のことを「隼人おにぃ」と呼ぶちび。数日前、図書室で美奈が俺の袖を小さな手で掴み、震える声で言った言葉がよみがえる。彼女の怯えは、テレビの音に反応して泣きじゃくったあの夜とも重なる。あの時、彼女はただの子供のわがままじゃない何かを抱えていた。


「隼人おにぃ、なんか、こわい感じするの……。誰か、見てるみたい……。」


あの小さな声には、確かに恐怖があった。俺はモップを握る手に力を込め、唇を噛む。細い指が白くなるほど握りしめた。喉がカラカラに乾く。


(美奈、なんでそんなこと俺に……いや、6歳のガキに何を話せってんだよ。)


職員室のドアに近づきそうになるが、足が鉛のように重い。佐伯先生の声が、まるで呪文のように続く。


「……叔母さんが美奈ちゃんを探してるって噂もあるの。孤児院の住所、もし知られたら……。あの子、どんな恐怖で逃げてきたのかと思うと、胸が締め付けられるよ……。」


胸に冷たい刃が突き刺さる。探してる? 美奈を連れ戻す気なのか? 頭の中で、美奈が小さな手で誰かに掴まれ、泣きながら「隼人おにぃ」と叫ぶ姿がちらつく。吐き気が込み上げる。息が詰まる。空気が重く、俺の体を押し潰すようだ。廊下の窓から見える中庭は、まるで時間が止まったように静かだ。子供たちの笑い声も、今は聞こえない。木々の影が、風もないのに不自然に揺れている。まるで、何かがこの場所をじっと見つめているような、嫌な予感がする。


(ふざけんな……! 美奈を渡すもんか!)


だが、すぐに別の思いが胸を抉る。


(俺なんかに、美奈を守れるのか? 美奈の過去、俺、なんにも知らなかった……。)


夕陽が廊下を赤く染める。俺は立ち尽くす。モップが床に倒れ、乾いた音を立てた。窓の外、孤児院の古いフェンスが、夕陽に黒く浮かぶ。その向こうに、動く影を見た気がした。いや、気のせいか? だが、胸のざわめきは収まらない。


夜。図書室の小さな明かりが、孤児院の中でひっそり灯っている。美奈は窓際の低い椅子にちょこんと座り、絵本を胸に抱えている。6歳の小さな手はページをめくらず、ただ本をぎゅっと握っている。目は窓の外の闇に吸い込まれ、小さな肩が震えている。細い髪が、月明かりに薄く光る。まるで、彼女自身が消えてしまいそうなほど儚い。


俺がドアを静かに開けると、美奈が顔を上げる。大きな目が丸くなり、笑顔がぱっと広がる。だが、その笑顔はいつもより弱々しい。まるで、テレビの音に怯えたあの夜の続きみたいだ。


「隼人おにぃ! おそーい! 掃除、たいへんだった?」


「ああ、ちょっと……汚れがしつこくてな。」


無理に笑って、俺は彼女の隣に腰を下ろす。床のクッションが、わずかに沈む。だが、頭の中は佐伯先生の言葉で埋め尽くされている。美奈の過去。叔母さん。虐待。探してる。言葉が頭を離れない。美奈の小さな横顔を見る。無垢な笑顔の裏に、どんな恐怖が隠れているのか。考えるだけで、胸が締め付けられる。息苦しい。


「なあ、美奈。」


俺はためらいながら口を開く。


「この前、変な感じするって言ってたよな。なんか、怖いこと……ねえか?」


美奈の手が絵本の上で止まる。目を伏せ、小さな指で本の角をぎゅっと握る。彼女の小さな体が、ほんの少し縮こまる。声は、ほとんど囁きに近い。


「……うん、ちょっと。なんか、こわい夢見たの。暗いとこに閉じ込められて、誰も来てくれなくて……。誰か、遠くで呼んでる声がしてたけど、届かなくて……。やめて、って叫んでも、誰も……。」


美奈の声が途切れる。彼女の大きな目が、月明かりに濡れて光る。涙か、ただの光の反射か、分からない。だが、その目は、テレビの殴る音に泣きじゃくったあの夜と同じ怯えを映している。6歳の子供が、こんな恐怖を抱えているなんて。腹の底から熱いものが込み上げる。怒りと、やり場のない焦り。


(大丈夫じゃねえだろ……。お前、怖くて言えねえんだな。)


口には出せず、俺は拳を握りしめる。あのちっちゃい体を守りたい。「隼人おにぃ」と呼ぶ笑顔を、絶対に守りたい。でも、俺なんかにそれができるのか? 不安が胸を締め上げる。美奈が絵本を胸に抱きしめる姿を見て、俺はそっと彼女の頭に手を置く。細い髪が、指の間を滑る。


「なぁ、美奈。俺、いつもそばにいるからな。……何かあったら、絶対言えよ。約束だ。」


美奈は小さく頷き、俺の袖をぎゅっと掴む。その小さな手が、頼りなげに震えている。俺は彼女の小さな背中を見つめ、胸の奥で何かが燃えるのを感じた。守らなきゃ。このちびを、絶対に。


夜の孤児院の外。闇の中に街灯がぽつりと光る。古びた建物の影に、ひとつの人影が立っていた。黒いロングコートをまとい、帽子を深く被った女性。顔は影に隠れ、月明かりに照らされた口元だけが、薄く歪んだ笑みを浮かべている。彼女の手には、くしゃくしゃに折り曲がった紙が握られている。紙には、乱暴な字で孤児院の住所が書かれていた。彼女の長い指が、紙をさらに強く握り潰す。爪が紙に食い込み、かすかな破れる音が闇に響く。


彼女の目は、孤児院の窓をじっと見つめる。図書室の小さな明かりが、遠くに揺れている。その視線は、まるで闇そのものが命を持ったかのように鋭い。コートの裾が夜風に揺れ、衣擦れの音が不気味に響く。彼女の足元には、枯葉が積もり、踏まれるたびに乾いた音を立てる。まるで、彼女の存在自体がこの場所の静けさを侵食しているようだ。


彼女の首が、かすかに動く。図書室の窓に映る小さな影――美奈の姿を捉えた瞬間、彼女の口元がさらに歪む。笑みとも、憎しみともつかぬ表情。彼女は一歩踏み出し、孤児院のフェンスに近づく。指がフェンスの鉄格子に触れ、冷たい金属をなぞる。まるで、獲物を前にした獣が爪を研ぐように。彼女の息が、白く夜気に溶ける。低く、囁くような声が漏れる。


「……見つけた。」


その声は、風に掴まれて消える。彼女はもう一歩踏み出そうとするが、突然立ち止まる。孤児院の窓から漏れる明かりが、彼女の影を長く伸ばす。彼女は帽子をさらに深く被り直し、闇に溶けるように踵を返す。足音が、ゆっくりと遠ざかる。だが、その足音は、まるで孤児院全体を包むように、いつまでも響いているようだった。街灯の光が、彼女の背中に伸びた影を映し出す。その影は、まるで孤児院を飲み込むように、ゆっくりと揺れていた。


俺の声が、頭の中で響く。


「美奈の過去……。俺は何も知らなかった。あいつの小さな笑顔の裏に、どんな闇があるのか。でも、俺は……。」


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