第10話 月下の震え
孤児院のリビングは、夜中の静寂に沈んでいた。古いテレビの画面が青く明滅し、家庭崩壊のドラマの音が部屋に響く。殴る音、叫び声、父親が娘を床に叩きつける重い衝撃音が、月光に照らされたソファに青い影を投げる。窓から差し込む月光が、埃っぽいカーテンを揺らし、冷たい木の床にまだらな光を落とす。俺、如月隼人、13歳は、ソファの端に座り、リモコンを手にチャンネルを変えようとしていた。だが、頭の片隅で、別のことが引っかかっていた――美菜。
(昨日、屋根裏であのコイツの呟き…「謝ることしか知らなかった」って。あいつの過去、どんな傷なんだ…。)
突然、ソファの隅から小さな震える声が漏れた。
「やめて…!」
美菜の声だった。俺の背筋が凍る。彼女はソファの端に縮こまり、膝を抱えて震えていた。月光が彼女の乱れたポニーテールを照らし、薄いパジャマの袖を握る手が白くなるほど力を込めている。彼女の瞳が、テレビの明滅に揺れ、涙で濡れている。
「やめて…離して…!」
彼女の泣きじゃくる声が、ドラマの暴力的な音を掻き消すようにリビングを切り裂く。
(なんだよ、この泣き声…。コイツ、こんな風に怯えるなんて…。テレビの音が、なんかやばいもんを思い出させたのか?)
「美菜、落ち着け! ただのテレビだろ!」
俺は慌ててリモコンでテレビを消す。画面が暗くなり、殴る音と叫び声が途切れる。月光だけがリビングを照らし、静寂が重く戻る。美菜のすすり泣きが、木の床に反響する。俺は彼女に駆け寄り、肩を掴む。
「おい、大丈夫か?」
彼女の瞳は、月光に濡れて揺れ、恐怖で縮こまっている。いつもキラキラした笑顔のあの美菜が、こんな風に震えているなんて。俺の胸がズキンと痛む。鼓動が、静寂の中でやけに大きく響く。
美菜が俺の腕にしがみつき、
「離して…やめて…!」と呟く。彼女の小さな体が、ガタガタと震え、涙がソファの布に染みてかすかな音を立てる。月光が彼女の濡れた頬を照らし、細い影が床に揺れる。俺の頭がぐちゃぐちゃになる。
(「離して」…? 何だよ、この言葉。テレビのあの音が、過去の何かと重なったのか…? コイツ、どんな傷を抱えてるんだ…。)
俺は無意識に彼女をぎゅっと抱きしめる。彼女の髪からシャンプーの匂いが漂い、細い肩の震えが俺の胸に伝わる。
「もう大丈夫だ。テレビは消した。誰もお前を傷つけねえ。」
声が震えるが、必死で落ち着かせようとする。
美菜の泣き声が、少しずつ小さくなる。
「隼人おにぃ…」
彼女が俺のシャツを握り、月光に照らされた顔が俺を見上げる。涙で濡れた瞳に、恐怖と安堵が混じる。彼女の頬に残る涙が、月光にきらりと光る。俺の心臓がドクンと跳ね、頭が真っ白になる。
(なんだよ、この顔…。こんな時でも、こんな風に…義妹だろ、なのに、なんでこんなに胸が締め付けられるんだ。)
「お前…急に泣くなよ。心臓に悪いだろ。」
ぶっきらぼうに呟くが、顔が熱い。
彼女が小さく頷き、「…うん、平気、だよ。」と震える声で呟く。そのか細い声が、静寂の中で俺の心をかき乱す。3年前、草むらで花冠を渡した時の笑顔が頭をよぎる。あの時、彼女は初めて笑った。でも、今の彼女の瞳には、触れられない影がある。俺は無意識に彼女の乱れたポニーテールを整える。月光に揺れる髪の柔らかさが、指先に残る。
「もう泣くなよ。ビビらせんな。」
ぶっきらぼうに言うが、声が掠れる。
美菜が俺の手をそっと握り、涙に濡れた顔で小さく笑う。
「隼人おにぃ…ここにいてくれて、よかった。」
その小さな手の温もりが、冷たい木の床とは裏腹に、俺の心を締め付ける。テレビの消えたリビングに、月光が彼女の涙を照らす。俺は気づいてしまった。この気持ちが、ただの義兄貴のものじゃないかもしれないことに。だが、彼女の心の傷――あの泣き声と「やめて」という言葉の奥にあるものに、俺はまだ触れられない。無力感が、俺を静かに苛む。
「もう何も怖くねえよ。」
俺は彼女の額に手を置き、そっと呟く。美菜の震える声と小さな笑顔が、月下のリビングに響き、俺の心に深く刻まれる。