第一話 夕陽とスープの距離
孤児院の食堂は、夕暮れの柔らかな光に染まっていた。木の長テーブルに並んだ皿とスプーンが、子供たちのざわめきに合わせて小さく響く。騒がしいのに、どこか温かいこの場所で、俺、如月隼人は、いつもと同じように端の席に座っていた。目の前には、焼きたてのパンの香りと、湯気の立つスープ。そして、俺の視線をどうしても奪ってしまう存在――美菜。
美菜はテーブルの中央で、スープをひと口飲むたびに小さく首をかしげる。「ん、ちょっとしょっぱいかな?」と呟き、長いポニーテールを無造作に指で梳く。その仕草は、まるで夕陽の光を絡めとるようにキラキラと輝く。彼女の無垢な笑顔は、食堂の喧騒を一瞬だけ静かにする力を持っている気がした。俺はパンをかじりながら、なぜか胸の奥がざわつくのを感じる。
(なんでコイツ、こんな風に笑うんだ…。ただスープ飲んでるだけなのに、目が離せねえ。義妹だろ、ただの義妹。こんなドキドキするのは、おかしいよな。)
俺、如月隼人、16歳。この孤児院の最年長として、子供たちの面倒を見るのが日課だ。3年前、叔母の虐待から逃げてきた美菜がこの食堂に飛び込んできた日から、俺の日常は少しずつ変わった。当時3歳だった美菜は、「わたし、美菜!」と叫びながら俺に突っ込んできた。あのちっちゃなガキの無垢な笑顔が、俺の心を掴んで離さない。今も、義妹としてそばにいる美菜の「隼人おにぃ」呼びが、俺の胸を妙に締め付ける。彼女が笑うたび、俺の心は理由もなく波立つのだ。
「隼人おにぃ、これ、食べてみる?」
美菜の声にハッとする。彼女はスプーンにスープを少しすくって、俺の方に差し出してきた。ニコッと笑う顔が、近すぎる。スープの温かな香りと、ポニーテールから漂うシャンプーの匂いが混ざり合い、俺の鼻をくすぐる。心臓が一瞬、大きく跳ねた。彼女の瞳は夕陽を映してキラキラ光り、まるで俺の心を見透かすようだ。
「い、いらねえよ。自分で食え。」
慌てて顔をそむけ、パンを乱暴にかじる。だが、頭の中は美菜の笑顔で埋め尽くされている。
(落ち着け、俺。義妹なんだから。こんな近くで笑われたら、誰だって…いや、誰だってじゃない。俺が、俺がおかしいんだ。)
喉に詰まったパンを無理やり飲み込むが、胸のざわめきは収まらない。
美菜は少し不思議そうな顔でスプーンを戻し、「えー、美味しいのに」と呟く。その声が、柔らかくて、妙に耳に残る。彼女はスープを飲みながら、ふと俺を見上げる。
「隼人おにぃ、今日、なんか元気ないね? 大丈夫?」
彼女の大きな瞳が、俺をじっと見つめる。無自覚なその視線が、俺の胸を締め付ける。まるで、俺が抱えるモヤモヤを全て見抜いているかのようだ。
「別に…大丈夫だよ。」
気まずく呟きながら、俺は無意識に美菜の乱れたポニーテールを手で整える。指先に触れる髪は、柔らかすぎて一瞬動きが止まる。心臓がまた跳ねる。
(なんだ、この感触…。ただの髪だろ。義妹の髪。なのに、なんでこんな…。)
指が離れる瞬間、美菜の髪が夕陽に揺れて、俺の視界を一瞬奪う。
「隼人おにぃ、優しいね。ありがと!」
美菜がパッと笑って、俺の腕にスッと抱きつく。彼女の体温とシャンプーの匂いが一気に押し寄せ、俺は完全に固まる。温かくて柔らかい感触が、俺の理性を揺さぶる。「お、おい、離れろ、バカ!」と叫ぶが、声が裏返る。顔が熱い。美菜は「えー、なんでー?」と笑いながら、腕を離さず少しだけ体を揺らす。その無垢な仕草が、俺の心をさらにかき乱す。
(コイツ、なんでこんな無防備に笑うんだ…。こんな近くで、こんな笑顔見せられたら、俺、頭おかしくなるだろ。義妹なのに、なんでこんな気持ちになるんだ? ダメだろ、こんなの。)
夕陽が食堂の窓から差し込み、美菜の笑顔を一層輝かせる。俺は「うるせえ」とブツブツ呟きながら、心のどこかでその笑顔を焼き付ける。子供たちのざわめきも、皿の音も、全部遠くなる。ただ、美菜の無自覚な笑顔が、俺の心を今日も乱し続ける。
食堂を出た後、俺と美菜は孤児院の裏庭を抜けて寮の部屋に戻る道を歩いていた。夕暮れの空はオレンジから紫に変わり、遠くで子供たちの笑い声がまだ聞こえる。美菜は俺の隣で、軽い足取りで歩きながら鼻歌を歌う。彼女のポニーテールが風に揺れ、時折俺の肩に触れる。そのたびに、俺の胸はまたざわつく。
(なんでこんな些細なことでドキドキすんだ…。ただ一緒に歩いてるだけなのに。)
「隼人おにぃ、今日のスープ、しょっぱかったよね」と美菜が笑う。彼女は立ち止まり、くるっと振り返って俺を見上げる。「でも、なんか楽しかった! 隼人おにぃと一緒にご飯食べるの、好きだよ。」
その言葉が、俺の心に刺さる。無邪気な笑顔と、夕暮れの光に照らされた瞳が、俺を捕らえて離さない。俺は一瞬言葉に詰まり、目を逸らす。「…まぁ、別にいいけど。毎日食ってるだろ。」ぶっきらぼうに答えるが、声が少し震えた。
(好きだよ、って。なんでそんなストレートに言うんだ。義妹なんだから、普通のことだろ? なのに、なんで俺、こんな…嬉しいんだ?)
美菜はまた鼻歌を再開し、俺の服の裾を軽くつかんで歩き出す。
「隼人おにぃ、明日も一緒にご飯食べよ! 約束ね!」
彼女の指が裾を握る感触が、妙に鮮明だ。俺は「はいはい、分かったよ」と呟きながら、胸の奥が締め付けられるのを感じる。美菜の笑顔が、俺の頭から離れない。
(義妹だ。義妹なのに。なんで俺、こんな気持ちになるんだ? ダメだろ、こんなの。)
裏庭の小道を歩きながら、俺は美菜の背中を見つめる。夕陽が彼女の髪を金色に染め、まるでこの瞬間だけ時間が止まったように感じる。美菜の無自覚な笑顔と、俺の制御できない心が、この夕暮れの中で静かにぶつかり合う。