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彼と彼女の恋愛風景_あるデートのこと⑤



 後悔先に立たず。その言葉を編み出した先人達に、大きな拍手と握手を求めたい。なんと、身と心に染みる言葉を作り出してくれたのだろう。後悔という言葉もいい。後に悔いる。端的だ、起こしてしまった事象に対してしか起こせない感情である、と暗に告げている。あれ、そうなれば後悔先に立たずなんていわなくても、後悔という言葉のみでその意味を伝えられるではないか。



(いやいや、そういう使い方ってわけでなく…って、もっと違う!)



 あまりの後悔に支配された頭は、現実逃避を斜め上にしてくれているらしい。わたしはその情けなさに、がっくりとうなだれた。髪が肩から滑り降りたせいで、日差しにさらされた首筋が熱く感じる。その熱さが妙に心地よくて、嫌な気分になった。



『理子、外だ』

『来る、絶対来る、わたしの後ろにいる、きっと家までついてくる、じっと居る』

『そこまでついてくるスタッフは、もはやストーカーだ。大丈夫、俺が全力で守る』

『すたっふ? ああ、スタッフね。アトラクションだもんね、違うの、そういうものを心配してるんじゃなくて……』



 思い出したくない、思い出したくない、と口の中で呟く。けれど脳髄は延々と鮮明に再生を繰り返す。彼の優しい声と手、そして取り乱した自分の失態を、何度も、何度も。

 なんで、正気に戻る瞬間が訪れてしまうのだろう。混乱した頭が平静に戻るのが喜ばしいことであると、あの瞬間を強制的に繰り返す頭はどうしても思えなかった。いきなりぽかんと殴られたように真っ白になった頭が、ようやく網膜の像をスムーズに視神経から受け取り始める。明るい日差し。眼はとっくに明順応を起こしていて、初夏の日差しの助けを借りて、鮮やかな風景を認識させてくれた。

 ここはどこ? わたしはだれ? ここはデート先のテーマパーク。わたしは鈴木理子。あまりにもベタな質問をクリアして現状を認識する。どうしてこんな風にベンチに座っているのだろう。周りの人が、妙に微笑ましそうにこちらを見ているのはなぜだろう。なんとなく、嫌な予感しかしなかった。だって、この自分が抱きしめて離さない腕の正体なんて、予想できる人間が一人しか居ない。

 そして呆然として見上げた先の彼は、優しい笑顔でわたしの頭を撫でてくれていた。



『? どうした』

『ご、ご、ご、ごめんなさいっ!!』



 身を離すももう遅い。やらかしてしまったことは消えないのだ。真っ赤になっていただろうわたしの顔を見て、ほっとしたように甘く笑った彼の笑顔にときめいてしまった、なんてことはさておいて。

思い出しても身悶えする。人間とは、正気に戻る瞬間異常に頭の中が空っぽになるらしい。できたら、『誰も居なくなったおうち』を出て日の光を浴びた瞬間、その間にやらかした全てのことが溶けて消えてしまえばよかったのだ、と真剣に八つ当たり気味で考える。

 苦手であるとは、知っていた。分かっていた。当たり前だ、小さいころからその手のものを避けてきたのだから。ホラー映画なんて絶対見なかった。心霊特番なんてどうしてあるのか分からない。不思議な話は好きだが、なんであんなに不気味な恐怖話が面白いという評価を受けているのか。父や弟に楽しげにそれらのものを見せられるたび、真剣に縁を切ろうか考えるほどである。

 それなのに、どうしてお化け屋敷に入ろうと思ったのか。一時間以上、どうしたって無理な場所に行こうと思ったのか。

 考えなくても分かる。



(正宗くんが、だって、入ってみたいっていうから…っ)



 それを本人に言うつもりはない。なじるように聞こえてしまっては台無しになってしまう。そう、つまりは下らなくもかわいらしい乙女心、というやつだ。冷静な自分が腹を抱えて爆笑している声が聞こえる。わたしって、そんなにいじらしかったっけ? 

 いじらしくもなるだろう。そう反論したい。似合わないという意見は甘んじて受ける。そんな可愛らしい人間ではない。だが、ちゃんとそういったものを表に出せる程度の打算はある。なんとかしがみついている彼女が、しがみついていたい彼氏にそういわれたら当たり前だろう。いや、本当は打算などというそんな面倒くさいものではない。そんな水に濡れれば破れるような薄っぺらい下心に満ちた気持ちではなくて。ただ、叶えてあげたくなったのだ。



『入ったことがない。評判がいいと聞いたので、この機会に体験をしてみたかった』



 そう言い放った涼やかな目元を見て、すぐに躊躇いを捨てる決意をした。お化け屋敷に一度も入ったことがない、といった彼のために、恐怖とかどうでもいいと思ったのだ。そんな無理だと叫ぶように怯える自分を無視することくらい、平気だと思ったのだ。結局、それが上手くできなかったのだけれど。



(正宗くん、小さいころから色々大変そうだったもんね)



 おじさんとおばさんが仕事にかまけて放置している、とかそんな家庭事情ではない。むしろ、よく世話をし、構い、慈しんでいた。お手伝いさんは雇っていたが、その人たちに預けきりという印象はない。家族で楽しげに出かける様子を週末はよく見たことがある。愛情に溢れた、いい家族なのは確実だ。ただ、一般庶民から見れば優雅さ溢れるかまい方で、なんとも普通の子どもとはかけ離れていたことを知っている。

 簡単に思い出せるだけで、美術館、オペラ、オーケストラ、舞台。彼が週末に出かけてきた後のお土産は、そういった関係のものばかりだった。CDや絵葉書など、他の同年代からはちょっともらえないタイプのものを貰ってとても嬉しかったが、キャラクターもののストラップだのを中学生になるまで貰ったことがない。本人がそれを悲観している様子は微塵もないが、こうした場面でそれを主張されると、多少の興味はあったのだろうと思ってしまう。

 そういったことを知っている、予想してしまうからこそ、自分の恐怖くらいどうってことないものだと考えたのだ。それが彼に迷惑をかけるという結末をもたらしたわけだが。



(凄く、がっしりしてたなあ)



 ふと、そう思った。自己嫌悪に苛まれた頭が程よく蕩けだしたのかもしれない。それでもいいか、とわたしは思う。自虐に慣れてはいるが、こういった恥ずかしさに悶えることには慣れていないのだ。逃げる手段があるならば、それを選んでしまう程度に、わたしは情けないし弱い。

 よくよく考えてみれば、初めて腕を組んだということになるのかもしれない。ぎゅっと抱きしめた彼の腕は、思っていた以上にがっしりとしていて、とても温かかった。少しだけわたしよりも低く、けれどわたしよりも強い男の人の温度が、まだ体に残っているように感じる。そういうと非常にいやらしい。 そこまで考えて、愕然とする。

 違う、わたしは紛れもなく彼にいやらしいことをしてしまったのだ。簡単に考えてみれば、男の人の腕を、女である自分の体にぎゅうぎゅうに抱きしめて押し付けたということである。相手の了承も得ずに。

 実際は、抱きしめる、というロマンティックな表現よりか、離すものかという決意に漲った、恋の香りがする甘さとは無縁な、しがみつくといった方が正しいかもしれない。あのときのわたしには、絶対に彼の腕が必要だった。あの暗闇を脱出するのに、彼の腕を逃がすものかと思っていた…と思う。記憶が曖昧なので、その点は仕方ないだろう。とにかく、あの空間で生きるためには、彼のあの筋肉質な腕の安心感が、本当に必要だったのだ。

 だが、体の中心に、抱き込むようにしたしがみつき方。よくよく考えれば、胸だの腹だの中々際どいところを全力で押し付けていたような気がする。そしてそれは、気のせいではないだろう。

これはもう痴女ではなかろうか。いくら恋人同士でも同意のない性的行為は犯罪であり、なにより唾棄すべきことだ。最低の行為である。罵られてもなんらおかしくはない。



(き、嫌われたらどうしよう…っ)



 加えて、かなり大声で叫んでいたような気がする。うわああ、だの、ぎゃああ、だの、何の慎みも女性らしさも色気もない声で。なぜあそこで、きゃあ、だといやああ、だの可愛らしい声で叫ばなかったのか。いやいや、そういうことではなく。

 とにかく重要なのは、やや現実味の欠けた薄暗い記憶の中で、理子は何か驚き要素が降りかかるたびに、大声で反応していたということである。正宗の腕をがっしりと抱え込み、取り乱して叫び、すくんだ足は動きが鈍く、苦手なくせに脱出に手間をかけさせた。最後のほうは半ば彼に引っ張ってもらっていた形だったように思う。



(なんて傍迷惑な…っ!!)



「落ち着いたか? 理子」

「え?」



 日向で無防備に転がる子猫をみて、思わず声をかけた。

そんな形容ができるような、声だった。ふわりと柔らかく甘く、そしてひれ伏したくなるほど優しい。愛いものを愛でるのに何か理由が必要だろうか。そんな問いかけすら聞こえてきそうな、生クリームとカスタードのシュークリームのような声。つい、と当たり前のように視線を合わせると、彼がわたしを見て笑っていた。触れるのもおこがましいほどの端正な顔を、彼にしか象れない美しい笑みで彩っている。ああ、なんてかっこいい。なんて、愛しい。

 陶然と彼を見つめるわたしに、冷静な自分がため息をついて脳みそを小突いてくる。今がどんなときなのか分かっているのか? 当たり前のことを言われ、思わず憤然と反論する。分かっているさ、もちろん。わたしは、最愛の彼氏とデートの最中だ。いや、ちょっと待て。

 とろんとした蜂蜜のような思考が、自覚という冷気でかちかちに固まっていく音を聞いた。それは、ざぁ、と血の気が引く音ととてもよく似ていた。



「ご、ごめん正宗くん!」

「何を謝る?」

「だ、だって、折角のデートなのに、彼氏ほっといてこんなっ!」



(最低だ、最低だ、最低だっ!!)



 涙が滲むのを感じる。なんて気持ちの悪い。折角のデートを。折角の一緒の時間を。折角の思い出を。いつか失ったとき、大切におずおずと覗き込んでため息をつくための宝石を。全て、馬鹿みたいなわたしの行動で水をさしている。それ以上に、大切な彼に迷惑をかけてしまっている。

 その事実にようやく思い当たり、愕然とした。彼氏を放っておいて、デートを忘れて、自己嫌悪で身もだえするなんて。そんなの一人でも十二分にできることなのに、どうしてここでやってしまうのか。思い出に溝を作るなんて、どうしてそんなことができるのだろう。

 彼と一緒に過ごすこの瞬間を、ただ、ただ何よりも大切にしたいのに。どうして。



「理子」



 混乱と自己嫌悪の峠で、世を儚むように視界を滲ませているわたしを、ふわりと彼の香りが包んだ。すっきりとした、けれどどこかどきりとする、彼の匂い。香水、ボディソープ、整髪材、色々な可能性を考えられるけれど、そのどれであっても構わない。ただ、彼の香りがひどく心地よくて、甘えたくなる優しいものであることが、わたしの中の絶対だ。

 その香りが、優しくわたしを抱きしめてくれる。ついさっきまでしがみついていた腕が、わたしを出口まで連れて行ってくれた体が、泣いた赤ん坊をあやす様にわたしの体をすっぽりと柔らかく覆う。ほわんと広がる人の体温に、思わずほとりと息を漏らした。ほんの少しの隙間を有して密着している体が、とても心地よくて、思わず甘えるように擦り寄ってしまう。恥ずかしいとは何故だか感じない。

 父や母、友人とも違う熱の温度に、どこか怯えてしまいそうになるけれど、これはわたしを傷つけないだろうという安心感が勝っていた。理由は分からない。分からなくても良いように思う。ただ、何よりも今大切なのは、自己嫌悪にゆれるわたしの目をじっと見つめて、甘い手のひらで頭を撫でてくれる彼の仕草だ。

 そろそろと探るように、手繰るように、わたしを愛しいと囁くような指先がひどく優しくて、丁寧で、なぜだか泣きたくなるほど胸を締め付ける。

 ああ、なんて尊い。



「俺は、気にしていない。むしろ、俺を頼る姿が可愛かったし、嬉しかった。気にするのはこちらの方だ。これを選んで、すまなかった」

「ち、違う、ちゃんと言わなかったわたしが、」

「理子」



 顔が近い。わたしの弱いところまで覗き込むような、遠慮のない強い眼がわたしを捕らえる。何故だかその眼は、昔読んだ童話の、蜘蛛に食べられる蝶が思い起こさせた。蜘蛛に焦がれた美しい蝶が叶わない恋に選んだのは、自ら巣の中へ飛び込んでからめとられるという結末だった。あの時に理解できなかった気持ちを、今なら優しくうなずくことができる。わたしもきっとそうだ。愛しい貴方に全てを食べてもらえるならば、こんなに幸せなことはない。

 奇妙に狂ったわたしの頭を宥めるように、彼の言葉が鼓膜に落ちてくる。



「俺は、お前の彼氏だ。お前の強いところ、弱いところ。全てをひっくるめて好きだと伝えているはずだろう。気に病むな。さみしくなる」



 聖職者のように伝えられる綺麗な言葉が、なんだかひどく腹立たしくなる。許せなくなる。羨ましくなる。まだ、わたしはどこかの螺子が抜けている。

わたしを責めるでもなく呆れるでもなくそういう彼が、眩しくて仕方ない。愛しくて仕方ない。手放したくなくて仕方ない。この温もりが他に行くことなんて考えたくない。考えなければいいじゃないか。こんなに今が幸せなのに。

 ぐちゃぐちゃに乱れる思考を放り投げて、わたしは笑った。ただデートを彼と一緒に楽しみたい、それだけの気持ちなのに、どうしてこんなに空回りして遠回りして、迷惑をかけてしまうのだろう。彼に楽しんでもらいたいのならば、まずはわたしが切り替えなければならないのだ。当たり前のことを当たり前にできないわたしは、彼の隣にいるには相応しくない。

 でも何故だろう、今すぐ放り出したいなんて、絶対に思えないのだ。



「……正宗くん、かっこいい……」

「惚れ直したか?」

「……うん」

「そうか。ならば喜ばしい」



 彼の隣に居る限り、わたしが考えることをやめることなんてないだろう。甘い慕情も、苦い恋情も、口の中に詰め込まれ続ける。息が止まりそうになりながら、それを飲み込んで彼の隣にいるのだ。それでも、傍にいたい気持ちが消えることがないから。

 彼の手に縋っているのは、今も昔も本当は変わらないから。



「ところで、正宗くん。そろそろ抱きしめるの、離してくれないかな」

「何故だ」

「…恥ずかしいでしょ? 色々視線が痛いしさ」

「たかが視線だ。殺されるわけではない」

「わたしは恥ずかしさで死ねそうだよ」



 ねえ、正宗くん。

 唇に乗せられない台詞を、奥歯でかみ殺す。いったい何を殺したのか分からないけれど、それはか細い悲鳴のような小さな欲望だったように思う。言葉にしてしまえば、きっと何もかも壊す呪いのような祈りだった。でも、いっそ言ってしまえばよかったのだと思うわたしもいる。それを口にしてしまえば、後悔すると知っているくせに。



(絶対に言わない)



「じゃあ正宗くん、次はどうする?」

「昼でも食べるか。そろそろ混む時間帯も抜けてきただろう」



 わたしは、彼に綺麗なところだけ見ていて欲しい。彼の記憶にとどまるわたしが、一番美しい形でないとならない。いつか来る終わりに、振り返られる過去に、醜く残っているなんて耐えられない。

 だから、絶対に言えるはずがないのだ。


 わたしを離さないで、なんて浅ましい気持ちは。



 難産でした。上手くまとまらなかった印象が強いです。でもこれが今の限界だったので、投稿します。

 これ、はたから見ると単なるバカップルですよね。そして正宗くん、ちゃっかり理子ちゃんと初ハグです。むっつりの本領発揮ですね。

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