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第二部 親水
数年後。
澪は町の資料館に勤めていた。
地域の言い伝えや民俗資料を扱う部門で、古い記録を掘り起こし、新たに言葉として残す仕事。
今、澪の机には一冊の小冊子が置かれていた。
タイトルは「水に名を与えてはならない」。
筆者名は記されていない。
だが、その物語の中には、かつての澪の記憶と一致する記述があった。
「ある少女は、自らの名を水に与えた。
水はそれを鏡にし、少女の影を写した。
だが少女は、影を愛することで、名を手放さずに済んだ。
その日から、町では水に名を呼ばせる者はいなくなった。
水は、ただ水として存在し続ける。名前を求めることなく」
澪は冊子を閉じ、ふと窓の外に目をやった。
雨が降っていた。
だが、その音はもう、怖くなかった。
——そして澪は知らなかった。
その冊子が、ある夜、濡れた手の誰かによって図書館から抜き取られ、どこか遠くの町へ運ばれていたことを。
次に名を呼ばれる水が、誰を鏡に映すのか——それは、まだ語られていない。