第一部 水無村
水の音が耳の奥に響いていた。
それは蛇口から漏れる水滴の音ではない。静かな雨のようでもなく、滝のように激しいものでもない。もっと、ずっと古くからそこにあった音——たとえば、地の底でずっと流れていた地下水の記憶のような——そんな音だった。
篠原澪は助手席の窓に額を預けながら、その音の残響に似た錯覚を覚えていた。
「……この辺り、携帯も通じなくなるんだな。」
運転席の恩師・津久見教授がつぶやいた。60代半ばの彼は、かつて澪が学部生だった頃からの付き合いで、今回の調査も彼の強い推薦によるものだった。
【水無村】。
その名の通り、水に縁がない土地だと地図には記されていた。しかし、実際には村の中央に「親水池」と呼ばれる清水が湧いており、それが澪たちの今回の調査対象だった。
「……ここだけ、異様に湧水量が安定してるんですよね。上流にもダムはないし、人工的な水源も確認できないのに。」
教授は、助手席の澪に言った。
「それに、ここの水——どこか“生きてる”ような気がしてならないんですよ。」
澪はその言葉に違和感を覚えたが、教授の目は真剣だった。
やがて車は村の入口に差しかかった。標識も錆びつき、朽ちかけた鳥居が山道の奥に口を開けていた。
車が村の中心部に近づくと、見渡す限りの静寂が広がっていた。
無人の家々は瓦が落ち、壁が苔むし、窓には古新聞が貼られていた。人の気配はまるでなかった。
だが、不気味なことに、どの家も綺麗に掃き清められているように見える。草は刈られ、玄関先に粗末な花が供えられていたりもする。
「——人、住んでるんですよね?」
澪が訊ねると、教授は肩をすくめた。
「住んでるはずですよ。公的には、十数世帯ほどの高齢者が暮らしてるって話だった。……ただ、どうも外から人を寄せ付けない土地柄らしくてね。」
そう言いながら、教授は一軒の民家の前で車を止めた。
古びた木造家屋の玄関には、手書きで「調査関係者様 ご自由にお入りください」と記された札が下がっていた。
「これが……村の自治会長さんのご厚意ってわけですか?」
「そう。水無村はね、役場からの要請で【水源保護指定地域】に再調査を受けてるんだ。その一環で我々も招かれた。少なくとも、敵意はない……はず。」
教授は苦笑しながら車を降り、澪もそれに続いた。
湿った空気が肌にまとわりつく。遠くでカエルの声がしていたが、他には何も聞こえない。
玄関を開けると、土間の向こうに質素な畳部屋があり、そこにはすでに誰かが滞在していたような気配
——茶碗と湯呑みがひと揃い置かれていた。
「……他に調査隊員が来てたんですか?」
「いや、我々が最初のはず。おかしいな……。」
教授が周囲を見回す間に、澪は奥の間に目を向けた。
ふと、床の間にかけられた一幅の掛け軸が目に入った。
それは墨一色で描かれた女の絵だった。
髪は濡れて肩に張り付き、瞳のない顔からは水が滴っているように見えた。
「…‥これ……。」
「……澪君、気になる?」
教授が澪の肩越しから声をかけた。
「これは【濡女】の伝承でしょうな。水無村に伝わる水神の化身だそうですよ。古文書にもわずかに記録が残ってる。」
澪は視線を逸らした。
その女の絵の中の目のない顔が、自分をじっと見つめているような錯覚が拭えなかった。