プロローグ
深夜三時。ボロアパートの一室。エアコンのタイマーはとっくに切れ、PCファンの回転音だけが部屋に響いている。
窓は分厚い遮光カーテンで閉ざされ、モニターの光だけが6畳一間の空間を青白く照らしていた。
机の上には飲みかけのエナジードリンクが並び、カップ麺の空き容器が床に散らばっている。
壁に貼られた就職活動のスケジュール表は、何年も前のまま。その横には、かつて高校時代、ゲーム研究部の卒業制作で受賞したときの写真が、埃をかぶっている。
ここには、夢も希望もない。ただ、一人の冴えない男、28歳のフリーター、アリモリが、椅子にもたれてキーボードに手を置いているだけだ。
⦅文明ターン、4281。社会幸福度99.8%。技術的特異点まであと17ターン⦆
⦅次の実績を獲得しました。感情持ちAIの参政権取得⦆
けれどこの部屋の中には、もうひとつの世界がある。
世界構築型シミュレーション≪Project Eden≫は、AI技術と量子演算を組み合わせた、次世代型の超人気ゲームだ。
文明、宗教、技術、環境、経済、戦争――そのすべてをプレイヤーの手で創造できる、終わりなき箱庭。
特徴は、すべてのNPCが“意識”を持っていること。
最先端の量子演算AIが、それぞれの人生、感情、選択肢をリアルタイムでシミュレートしており、彼らは自分をNPCだとは認識していない。
神など存在しない。すべては偶然に成り立ち、自然に変化している――
そう思い込んでいる者たちが暮らす、“もうひとつの世界”。
「もうやる事が無いほど完璧すぎるんだよなぁ。VRモードで散歩でも・・・はぁ・・・」
画面のポップアップを見て、思わず乾いた笑いが漏れる。
視線の先には、美しく輝くメガロポリス。
空中庭園に、天気制御タワー、歌う市民達。
人々は病気にも飢えにも苦しまず、ただ幸福に満たされていた。
「このまま保存して公開すれば、また賞取れますよ。ところでマスター?目の下のクマ酷いですね?」
弾んだ声が響く。モニター右下に銀髪の少女の姿が表示される。
少し幼い整った顔立ち。白いワンピースドレス。どこか知的な雰囲気もありつつカワイイその外見は、明らかに狙って設計されている。
「いらない。もうそう言うの飽きたんだよ。つまらないよ」
「でしょうね。あなたが文明を完成させたのは、これで十七回目。“自己満足の極北”で検索したらマスターの動画が出てきますよ(笑)」
「・・・お褒めにあずかり光栄です。ハナ」
『ハナ』は、アリモリが独自にチューニングした存在だ。
AIアシスタントは、シミュレーションゲーム《Project Eden:Extended》で拡張AIサポートシステムとして実装された。
このシステムでは、公式が提供する基本ナビゲーターに対し、プレイヤーが自作スクリプトや性格アルゴリズムを組み込み、完全オリジナルのAIを構築できる。
アリモリは、その仕様を最大限に活用し、戦略支援だけでなく、毒舌とヨイショも兼ね備えた“自分専用の秘書AI”を、いや、リアルには居ない話し相手を育てあげていた。
「・・・・で、そろそろ壊すんですか?例の魔素MODで?」
「察しがいいね。今回はテスト運用。成功すれば、マーケットに出してみようかと思ってる」
「世界を一気に崩壊させ、市民たちに強制的な進化を促す。今までの人生で得たものを絞り出させ、進化ポイントに変換。ポイントの足りない市民は魔素に汚染されて死んでいくという・・・」
「ま、全員死んでリセットになるとは思うけど。思いがけない進化と、文明が生まれる可能性もあるかもね」
進化。それが必要なのは本当は僕なんだけど。
親の期待という重荷から逃げ出して三年。大手IT企業への就職を蹴った選択は正しかったのかと、ふと思う。今の自分には、この箱庭の神様でいることしか残されていない。
「・・・相変わらず悪趣味です。でも、それが最高にあなたらしくて素敵ですね」
画面下のコマンド群から魔素を選び、ロックを外す。
一瞬、キーボードの上で指が止まる。
この一手で、500時間分のプレイが――
「まぁいいか。神を必要としなくなった完璧な世界には壊れてもらって、次の世界を作ろう」
エンターキーが、鋭い音を立てて押し込まれる。
その瞬間、画面の中の美しいメガロポリスに、黒い雨が降り始めた。
市民の感情インジケーターが一斉に赤く染まる。
「恐怖」「混乱」「怒り」――そして「祈り」。
「やっぱり凄いよなこのゲーム。本当の人間みたいだ」
僕は画面を見つめながら魔素MODの効果を確認する。
心の奥で、何かが疼く。
「・・・マスター、未知の魔法文明が生まれました。あっ、一瞬で崩壊しました。おっ、既知の科学文明が・・あ~消えました」
僕はハナの実況に答えず、ベッドに身を投げた。
天井のシミが歪んで見える。
頭がガンガンする。視界がぐらつく。
「世界人口の8割が死滅しました。生き残った人類が未知の種族に進化を試みています。あ~ダメか・・どんどん死んでます。あれ?マスター・・寝るんですか?」
「うん・・・ちょっとだけ・・・寝たら・・・また・・・」
まぶたが閉じかけたそのとき、モニターに赤い警告メッセージが点滅しているのが見える。
その意味を、僕はもう理解できなかった。
暗い闇の底に落ちていく途中で、ハナの声が聞こえた気がした。
そして、世界が、途切れた。