9話 初仕事①
夜明け前の空気は、インクを溶かした水のように冷たく澄んでいた。
僕は『木漏れ日の宿』を静かに出て、まだ眠りの中にあるアマーリアの石畳を西門へと急いだ。
革袋の中には、万が一のために金貨数枚と、今日の食事代として銅貨をいくつか。しかし、それ以上に僕の心を支えていたのは、昨日ゼルガさんからもらった「銅貨二枚」という初めての仕事への期待と、未知なる迷宮への恐怖が入り混じった、張り詰めた緊張感だった。
西門の前には、すでにゼルガさんが壁に寄りかかって煙管をふかしていた。僕の姿を認めると、彼は紫煙を細く吐き出しながら片手を上げた。
「おう、来たか、新人。寝坊助じゃなくて安心したぜ」
「おはようございます、ゼルガさん! 今日はよろしくお願いします!」
「ああ。だが、俺にじゃねえ。今日お前の雇い主になる旦那方に挨拶しろ」
ゼルガさんが顎で示した先には、見るからに歴戦の冒険者といった風情の四人組が待っていた。
最初に口を開いたのは、全身を分厚い鋼鉄の鎧で固めた、パーティのリーダーであろうナイトだった。
厳つい顔つきだが、その瞳には冷静な知性が宿っている。
「俺が『鉄の拳』のリーダー、セルブだ。こいつがうちのエースアタッカー、戦士のギーグー」
セルブさんに紹介されたギーグーさんは、僕の倍はあろうかという巨漢で、背中には身の丈ほどもある両手斧を背負っていた。僕に一瞥をくれると、無言でこくりと頷いただけだった。言葉の代わりに、その全身から発せられる威圧感が彼の強さを物語っている。
「私は後衛の魔術師、マリーよ。よろしくね、シェルパ君」
優雅なローブをまとった知的な女性、マリーさんが微笑んでくれた。その笑みとは裏腹に、彼女の視線は僕の持つ古びたバックパックを鋭く観察しているようだった。
「よぉ! 俺は赤魔導士のロバート! 攻撃も回復もこなす万能の天才ってな! ま、よろしく頼むぜ、坊主!」
最後に、赤い帽子を目深にかぶった軽薄そうな男、ロバートさんが陽気に声をかけてきた。
僕は四人を前に、背筋を伸ばして深く頭を下げた。
「シェルパです! 今日一日、見習いポーターとして精一杯務めさせていただきます! よろしくお願いします!」
セルブさんは僕の挨拶に小さく頷くと、ゼルガさんに向き直った。
「ゼルガ、こいつは使えるのか? 見たところ、まだガキにしか見えんが」
「まあ、見てなって。こいつの『マジックバッグ』は掘り出し物だ。あんたたちが今日一日で掘れる鉄鉱石なんざ、全部飲み込んでもまだ余裕があるだろうよ」
ゼルガさんの言葉に、パーティの面々の視線が再び僕のバックパックに集まる。期待、疑念、好奇心。様々な感情が入り混じった視線を受け、僕はごくりと唾を飲んだ。僕の冒険者としての初仕事が、今、始まろうとしていた。
迷宮の入り口は、巨大な獣の顎のように黒々とした口を開けていた。ひんやりとした湿った空気が、僕の頬を撫でる。一階層は、まだ外の光が届く比較的安全なエリアだと聞いていたが、それでも壁から染み出す水滴の音や、どこか遠くで響く不気味な鳴き声が、僕の不安を煽った。
「シェルパ、ぼうっとするな。ポーターの仕事は荷物持ちだけじゃねえぞ」
先頭を行くセルブさんとギーグーさんのすぐ後ろ、僕の隣を歩きながらゼルガさんが低い声で囁いた。
「周囲の警戒を怠るな。特に足元と天井だ。トラップや奇襲は、大抵そういう場所から来る。それから、常にパーティとの距離を一定に保て。離れすぎれば孤立するし、近すぎれば戦闘の邪魔になる」
ゼルガさんは、まるで教科書を読み上げるように、ポーターとしての心得を次々と僕に叩き込んでいく。
「それから、これだ」
彼は懐から羊皮紙の地図と方位磁石を取り出した。
「パーティのリーダーが進路を決めるが、俺たちポーターも常に現在地を把握しておく必要がある。万が一はぐれた時、リーダーが倒れた時、道を知っているかどうかで、パーティ全員の生死が分かれることもあるんだ。ポーターはな、シェルパ。ただの荷物運び屋じゃねえ。パーティの生命線をいくつも担う、縁の下の力持ちなんだ。それを肝に銘じておけ」
その言葉は、日当銅貨五枚の荷物持ち、というギルドでの評価に打ちのめされていた僕の心に、温かい火を灯してくれた。そうだ、僕はただの荷物持ちじゃない。パーティを支える重要な一員なんだ。
道中、数体のゴブリンや巨大な蝙蝠に遭遇したが、『鉄の拳』の連携は見事だった。セルブさんが盾で攻撃を受け止め、ギーグーさんの大斧が敵を薙ぎ払う。その隙を突いてマリーさんの氷の矢が敵の動きを止め、ロバートさんの火球がとどめを刺す。戦闘はあっという間に終わり、僕の出番はなかった。
やがて僕たちは、より険しい岩場が続く二階層へと続く階段を降りた。空気はさらに冷え込み、湿り気を帯びてくる。目的の採掘場所は、巨大な地下空洞の一角にあった。壁面には、鈍い銀色の光を放つ鉄鉱石の鉱脈がいくつも走っている。
「よし、着いたな。ギーグー、始めろ」
セルブさんの合図で、ギーグーさんが背中の大斧をツルハシに持ち替え、鉱脈に向かって振り下ろした。ガツン、ガツン、という硬い音が洞窟に響き渡り、拳ほどの大きさの鉄鉱石が次々と剥がれ落ちていく。
「シェルパ、お前の出番だ。ギーグーが掘ったそばから、そいつをバッグに詰め込んでいけ」
「は、はい!」
僕はギーグーさんの足元に転がった鉄鉱石を拾い集め始めた。ずしり、と腕にのしかかる重さ。一つだけでも相当な重量だ。これを何十個も運ぶのだから、普通のポーターならすぐに音を上げるだろう。
僕はパーティの面々に背を向けるようにして、古びたバックパックの口を開き、そこに鉄鉱石を入れるふりをした。そして、意識を集中させ、鉄鉱石を【インベントリー】の中へと転送する。手の中の重みがふっと消え、鉄鉱石は音もなく僕だけの空間に収納された。
一つ、また一つと、僕は作業を繰り返していく。
「おいおい、ゼルガ。お前の言った通りだな。あの坊主、とんでもねえ量を詰め込んでやがるぜ」
ロバートさんが感心したように口笛を吹いた。
「見た目はただの布袋なのに、あれだけの鉄鉱石を入れても全く膨らまない……かなりの高級品ね、そのマジックバッグ」
マリーさんも、冷静な声色の中に隠しきれない驚きを滲ませていた。
いつもなら数回に分けて地上と往復するか、諦めて置いていくしかない量の鉄鉱石が、僕のバックパック(に見せかけたインベントリー)に次々と吸い込まれていく。ギーグーさんの採掘ペースは落ちるどころか、むしろ楽しむかのように上がっていく。パーティの雰囲気が、目に見えて高揚していくのが分かった。
「よし、シェルパ! 休憩だ! 腹ごしらえするぞ!」
ゼルガさんの声で、僕は顔を上げた。いつの間にか、足元には小山のような鉄鉱石が積み上がっている。
「ポーターの仕事、その二だ。戦闘後の後始末と、食事の準備。これも俺たちの腕の見せ所だ」
ゼルガさんは手際よくモンスターの死骸から素材を剥ぎ取ると、携帯コンロ型の魔道具に火をつけ、鍋に水と干し肉、それに硬いパンを割り入れて煮込み始めた。僕もその手伝いをしながら、彼の無駄のない動きに感心する。やがて出来上がった熱いスープを皆で分け合って食べた。質素な食事だったが、冷えた体には何よりのご馳走だった。
食事中、セルブさんが初めて僕に直接話しかけてきた。
「シェルパ、お前のバッグは気に入った。今日の成果次第では、うちの専属にならないか、ゼルガと相談しようと思っていたところだ」
「え……!」
専属ポーター。ゼルガさんが言っていた、ポーターの最高峰。まさか初仕事でそんな話が出るとは思ってもみなかった。
「やったな、坊主!」
ロバートさんが僕の背中をバンと叩く。僕の胸は、喜びと達成感で張り裂けそうだった。自分の力が、このすごい冒険者たちに認められたんだ。
順調すぎたのかもしれない。目標量を遥かに超える鉄鉱石を確保し、誰もが浮き足立っていた。その油断が、命取りになった。
「そろそろ引き上げるか」
セルブさんがそう言った、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴ……!
洞窟全体が不気味に震動し、壁や天井の岩陰から、五体のロック・スコーピオンが僕たちを包囲した。
「シェルパ! 俺の後ろから離れるな!」
ゼルガさんが僕の前に立ち、腰のナイフを抜いた。
「いいか、ポーターは戦うんじゃねえ! 何があっても生き残って、パーティの荷物を守り抜くのが仕事だ!」
その言葉が、僕の頭に叩きつけられる。戦闘は熾烈を極め、一体が僕たちポーターを目掛けて突進してきた。僕は咄嗟に【ストレージ】から鉄鉱石を取り出し、モンスターの顔面に投げつけた。
「ぐぎゃっ!」
不意の一撃にモンスターが怯み、ゼルガさんがとどめを刺す。
「坊主、よくやった!」
だが、安堵したのも束の間だった。激しい戦闘の衝撃で、僕たちの足元に大きな亀裂が走った。
「まずい、足場が崩れるぞ!」
ロバートさんの絶叫が響く。僕が立っていた場所が大きく傾ぎ、バランスを崩した僕は、暗い亀裂の向こう側へと滑り落ちていく。
「シェルパ!」
崖っぷちで、僕の腕をゼルガさんの力強い手が掴んだ。僕の体は宙吊りになり、眼下には底知れぬ闇が広がっている。
「くそっ……! 今、引き上げてやる!」
ゼルガさんは歯を食いしばり、渾身の力で僕を引っぱり上げようとする。しかし、無情にも亀裂はさらに広がっていく。このままでは、二人とも落ちてしまう。
「ゼルガさん……! もう、いいです! 手を離して!」
「馬鹿野郎! 弟子を見殺しにできるか!」
僕のせいだ。僕が余計なことをしたから……。僕がそう思った瞬間、ギリギリで僕を支えていた岩の突起が、ボロリと崩れた。
「しまっ……!」
その衝撃で、僕の手はゼルガさんの手からすり抜けた。 僕の目に最後に映ったのは、信じられないという表情で、虚空に伸ばされたままのゼルガさんの手と、彼の背後で絶叫するパーティの面々の顔だった。
「シェルパーーーーーーッ!!」
師の悲痛な叫びを最後に、僕の体は浮遊感に包まれた。視界が急速に暗転していく。すぐそこに、ごつごつとした岩壁が迫る。死ぬ。そう思った、その刹那。
意識が途切れる寸前、脳裏に閃いたのは、あの奇妙な能力のことだった。 【咀嚼】や【斬撃】という物体のないものを収納できるのなら、この体に叩きつけられる【衝撃】という現象も、あるいは――!
ダメ元だった。ほとんど祈りに近い思考で、僕は【ストレージ】を意識した。収納対象は、僕の体に加えられる、あらゆる【衝撃】。
ゴッ、と鈍い音が、頭のすぐ横で響いた。岩壁に激突した音だ。しかし、僕の体には何の痛みもなかった。まるで幻のように、ぶつかるはずだった衝撃が、僕の体に触れる寸前にふっと消え去り、【ストレージ】の中へと吸い込まれていく。信じられない感覚だった。落下は続いているのに、僕の体はまるで静かな水の中にいるかのように穏やかだった。
そして、ついに奈落の底が迫る。地面に叩きつけられる――その瞬間も、僕は強く【ストレージ】を意識し続けた。
ドンッ!!
凄まじい轟音が響き渡り、もうもうと土煙が舞い上がった。数秒後、その土煙が晴れると、そこには信じられない光景が広がっていた。僕だ。ピンと背筋を伸ばし、まるで一枚の羽毛のように静かに着地した僕が、そこに立っていた。服は土埃で汚れているが、体にはかすり傷一つついていない。
僕は呆然と自分の両手を見つめた。あの高さから落ちて、無傷。自分の能力が、ただ物を収納するだけの便利な魔法ではないことを、僕は今、骨身に染みて理解した。これは、物理法則すら捻じ曲げる、規格外の力だ。
しかし、助かったという安堵は微塵も湧いてこなかった。 あるのは、仲間を危険に晒したまま、自分だけがこうして無傷でいることへの、焼け付くような罪悪感だけだった。僕のせいで、ゼルガさんたちは僕が死んだと思っているだろう。どれほど心配しているだろうか。
僕は無意識に、背負っていたバックパックを強く握りしめた。この中には、みんなが汗水たらして掘った、大量の鉄鉱石が入っている。みんなの大切な財産だ。
「……帰らなきゃ」
震える唇から、か細い声が漏れた。
「生きて帰って、無事だと伝えて、これを届けなきゃ……!」
涙を拭い、僕は立ち上がった。鉄鉱石とういう財産と、この世界でただ一つの僕だけの力【インベントリー】がある。 絶望の闇の底で、僕は一つの決意を固めた。




