8話 ポーター
掲示板は、人の熱気と欲望でむせ返っていた。壁一面を埋め尽くす羊皮紙の依頼書。その前で、屈強な戦士たちが
「このオーク討伐は俺たちのパーティがもらった!」
「馬鹿野郎、早い者勝ちだ!」
と怒鳴り合い、軽装のシーフたちが目にも留まらぬ速さで依頼書を剥がしていく。酒と汗と、微かな血の匂いが混じり合った空気が、僕の喉をひりつかせた。
圧倒的な熱量に気圧されながらも、僕は人垣の隙間を縫って、なんとか掲示板の前までたどり着いた。
「ゴブリンキング討伐、推奨等級3以上、報酬金貨一枚!」
「ワイバーンの巣調査、飛行可能なメイジ急募!」
「迷宮五階層、未踏破エリアのマッピング、報酬応相談」
綺羅星のような依頼が並ぶ中、僕が探すのはただ一つ、『ポーター募集』の文字。
しかし、その数はあまりにも少なく、冒険者たちの熱狂の輪から少し外れた、掲示板の隅の方に、数枚がひっそりと貼られているだけだった。
途方に暮れ、立ち尽くす僕の肩を、不意に誰かがぽんと叩いた。
「坊主、そんな隅っこで鳩が豆鉄砲食らったような顔して、どうしたんだい」
振り返ると、そこに立っていたのは、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、中年の男だった。使い込まれた革のベストに、あちこちが擦り切れたズボン。腰には短いナイフが一振り。冒険者にしては軽装だが、その佇まいには、そこらの駆け出しとは比較にならないほどの年季が感じられた。何より印象的だったのは、その目だ。全てを見透かすような、鋭く、そしてどこか優しい光を宿していた。
「あ、あの……」
「ん? おお、そのギルドカード、まだインクの匂いがしそうだ。今日登録したばかりか」
男は僕が握りしめていた銅のカードに目をやり、ニヤリと笑った。
「ポーターの仕事でも探してるのか? その歳で、戦闘スキルもなしにこの街に来るってことは、そういうことだろう」
「……はい。シェルパ、と、言います」
「俺はゼルガだ。見ての通り、この街でかれこれ20年、ポーター稼業で糊口を凌いでる」
ゼルガと名乗った男は、僕の隣に立つと、掲示板の喧騒をどこか達観したような目で見つめた。
「まあ、立ち話もなんだ。あっちで一杯付き合えや。ポーターの世界のイロハくらいは教えてやる。奢りだ、心配すんな」
ゼルガさんは有無を言わさぬ様子で僕の背中を押し、ギルドの隅にある酒場のテーブルへと導いた。運ばれてきたエールを一口呷り、彼は「ぷはぁ」と満足げな息を吐いた。
「さて、シェルパ坊主。お前さんは、ポーターにどんなイメージを持ってる?」
「えっと……パーティの荷物を持って、迷宮に同行する……仕事、ですよね?」
「まあ、大雑把に言やあ、そうだな」
ゼルガさんは木製のジョッキをテーブルに置いた。
「だがな、ポーターと一口に言っても、その生き様は三つに分かれる。天国と地獄、そしてその中間の荒野、とでも言うかな」
彼の言葉に、僕は思わず身を乗り出した。
「まず一つ目は、『専属ポーター』。特定の、それも4等級から上の有力なパーティに専属で雇われる連中のことだ。こいつらはエリートだ。給金は月給制で、そこらの貴族の騎士様より稼ぐやつもいる。パーティの一員として信頼され、最高の装備と安全が保証される。だがな、この席に着けるのはほんの一握り。圧倒的な実力と経験、そして何より『コネ』が必要だ。俺たちみてえな下々のポーターにゃ、雲の上の話さ」
ゼルガさんは自嘲気味に笑い、エールをまた一口飲んだ。
「二つ目が、俺みてえな『契約ポーター』だ。その日暮らし、と言やあ聞こえは悪いが、まあ日雇いの傭兵みてえなもんだ。掲示板の依頼を見てパーティと交渉し、一日か、あるいは数日間の契約を結ぶ。腕と交渉術次第で稼ぎは変わるが、新人は買い叩かれるのがオチだ。それに、組むパーティが悪けりゃ、命の保証はねえ。ゴブリンの群れに突っ込む脳筋ウォリアーどもの後ろで、矢の雨に晒されることもある。かと思えば、慎重なパーティと組んで、大した危険もなく一日が終わることもある。安定はしねえが、まあ、自由っちゃ自由だ。ほとんどのポーターが、この契約ポーターとして生きてる」
彼の話は、僕が漠然と想像していたポーターの仕事そのものだった。しかし、彼の口から語られると、それは途端に生々しい現実味を帯びてくる。
「そして、三つ目」
ゼルガさんの声のトーンが、少しだけ低くなった。
「俺たちは蔑みを込めて『はぐれポーター』とも呼ぶ。こいつらは、どのパーティにも属さねえ。ソロで迷宮に潜り、他のパーティが倒したモンスターの素材や、持ち切れずに捨て置いたアイテムを拾って稼ぐ連中だ。迷宮のハイエナさ。モンスターだけじゃねえ、他の冒険者からも獲物をくすねるんで、忌み嫌われてる。だがな、一番危険なのは、他のパーティとのいざこざだ。『横取りされた』と因縁をつけられて、殺されるやつも少なくねえ。まともな冒険者なら、絶対に足を踏み入れねえ修羅の道だ」
専属、契約、そして、はぐれ。天国、荒野、修羅。僕は自分の置かれた状況を改めて理解した。僕が進もうとしているのは、危険と隣り合わせの、不安定な荒野なのだ。
「坊主、お前さんはどの道を行きたいんだ?」
ゼルガさんの問いに、僕はすぐには答えられなかった。
「僕には……スペルがありません。でも、このマジックバッグは、たぶん、すごくたくさん物が入ります。だから、契約ポーターとして、少しずつ経験を積んでいきたい、です」
僕は自分の唯一の武器であるバックパックを指し示した。ゼルガさんは僕のバッグを一瞥したが、特に驚く様子もなく、ただ静かに頷いた。
「そいつはいい武器になるな。だが、それだけじゃ食っていけねえのがこの世界だ。……よし、ついてこい。今日の『現実』ってやつを見せてやる」
ゼルガさんはジョッキを空にすると、再び僕を連れて依頼掲示板の前へと戻った。彼は掲示板の隅、ポーター向けの依頼がまとめられた一角を顎でしゃくった。
「あれを見てみな。あれが、今日の契約ポーターの現実だ」
そこには、数枚の依頼書が残っていた。しかし、その内容は、初心者の僕にはどれも厳しいものだった。
『迷宮三階層まで同行。スパイダーシルク運搬。日当銅貨四枚。経験者のみ』
『スライムジェリー50樽運搬。重量物運搬経験者優遇。報酬銀貨一枚』
『急募! 明朝出発のドレイク討伐隊に同行。頑健な者求む。日当銅貨八枚』
三階層なんて、今の僕には未知の世界だ。重量物運搬の経験もない。ドレイク討伐なんて、考えただけで足がすくむ。僕が応募できる依頼は、一つもなかった。
僕が落胆していると、ギルド職員が新しい依頼書を数枚、掲示板に貼り出した。冒険者たちがそれに群がり、あっという間に数枚が剥がされていく。その中に、一枚だけ誰にも見向きもされない依頼書が残っていた。
『薬草採取補助兼ポーター募集。迷宮一階層、半日。日当銅貨三枚。初心者歓迎』
日当銅貨三枚(3,000円)。ギルドの提示した最低ランクよりさらに低い。しかし、僕の目には「初心者歓迎」という四文字が、まるで後光が差しているかのように輝いて見えた。これだ。これなら僕でもできるかもしれない。まずは経験を積むことが何より大事なんだ。
僕は決意を固め、その依頼書に手を伸ばした。羊皮紙のざらりとした感触が、指先に触れる。その、瞬間だった。
「待ちな、坊主。そいつは罠だ」
僕の手は、ゼルガさんのごつごつとした大きな手に、そっと制された。
「え……?」
「依頼主の名前を見てみろ。『赤髪のゴードン』。聞いたことねえか?」
僕が首を横に振ると、ゼルガさんは吐き捨てるように言った。
「ありゃあ、てめえみてえな右も左も分からねえ新人を使い潰すことで有名なクソ野郎だ。薬草採取なんざ真っ赤な嘘。実際は危険なモンスターがうろつくエリアに新人を連れ込んで、囮や盾にする。運良く生き残っても、難癖つけて報酬を払わねえのが常だ。その依頼書がいつまでも残ってるのには、ちゃあんと理由があるんだよ」
背筋が凍る、という感覚を、僕は生まれて初めて味わった。ただ仕事を探すだけなのに、そこにはこんな悪意に満ちた罠が仕掛けられているのか。この街の、冒険者ギルドという場所の本当の恐ろしさを、僕は今、垣間見た気がした。
「……僕、何も、知らなくて……」
「まあ、無理もねえさ。俺も駆け出しの頃は、ああいうのにまんまと引っかかったクチだがな」
ゼルガさんは苦笑すると、懐から一枚のくたびれた羊皮紙を取り出した。
「いいか、シェルパ坊主。この世界でポーターとして生き抜くための一番の武器は、大容量のバッグでも、頑丈な足でもねえ。誰を信じて、誰を疑うかを見極める『目』だ。その目を養うまでは、絶対に一人で仕事を探すんじゃねえぞ」
彼はそう言うと、その羊皮紙を僕に見せた。
「俺が明日受ける仕事だ。パーティは『鉄の拳』。まあ、口は悪いが腕は確かな連中だ。まだポーターが決まってねえから、俺一人で受けるつもりだったが……見習いとしてなら、連れてってやらんでもない。どうする?」
『鉄鉱石運搬、迷宮二階層。パーティ「鉄の拳」』
「ただし」とゼルガさんは続けた。「見習いのお前に払える日当は、銅貨二枚だ」
銅貨二枚。2,000円。宿代の半分にも満たない。しかし、僕の心は不思議なほど晴れやかだった。金貨百枚の財産も、規格外の【インベントリー】も、この街の罠の前では何の役にも立たない。僕が今、本当に求めているのは金じゃない。この厳しい世界で生き抜くための知識と、経験だ。そして、それを教えてくれるという師が、目の前にいる。
僕は迷わなかった。
「お願いします! やらせてください!」
僕が深く頭を下げると、ゼルガさんは満足そうにニヤリと笑った。
「よし、決まりだ。明日の夜明け、西門の前に集合だ。絶対に遅れるなよ、新人」
ゼルガさんはそう言い残し、僕の肩を一度だけ強く叩くと、ギルドの喧騒の中へと消えていった。
僕は一人、その場に立ち尽くし、手の中にある銅のギルドカードを強く、強く握りしめた。日当は銅貨二枚。しかし、その価値は金貨百枚にも勝ると思えた。絶望から始まったはずの僕の冒険は、今、確かな希望の光に照らされていた。
迷宮都市アマーリアでの初日。金貨百枚の財産を持つ少年は、日当銅貨二枚の見習いポーターとして、ようやく本当の第一歩を踏み出したのだった。




