3話 ロックウルフ
朝、目が覚める。視界に入るのは、見慣れた天井板と木の香り。いつもの家、いつもの自室、いつものベッド。
けれど胸のどこかが「ここ、いつもと違うよ」と小さく囁く。そうだ、昨夜は隣村へ向かう道中の開けた野っ原に、家ごと【リリース】して野営したのだった。
旅人っぽい? いや、家ごとなのは旅人っぽくないかもしれない。
顔を洗い、リビングへ。朝ご飯は、簡単サンドウィッチ一択。焼いた食パンに薄く切った干し肉をのせ、刻んだ玉ねぎとピーマンを散らし、トマトソースをたっぷり。もう一枚でぎゅっと挟めば、はい完成。
かぶりつけば、干し肉の旨みと酸味が口いっぱい。おかわり? するに決まってる。
……のだが、食べながら脳内在庫アラートがピコーンと鳴る。干し肉のストック、減ってる。
体感ゲージで言うと、あと二週間でゼロ。これはマズい。冬が来る前に食料確保、絶対。隣村で調達しないと、わりとシャレにならない。
皿を片づけ、軽くストレッチ。よし、出発準備だ。玄関で深呼吸。それから、いつもの合言葉。
【ストレージ】
家と四隅の魔物避けの魔道具を、まとめて収納。外に家がなくなった野っ原は、ちょっとだけ風通しがよく感じる。
肩を回して、歩き出す。道は平坦、でも油断すると足首をくじくタイプのゴロ石だらけ。
中には「それ、城の飾りですか?」ってくらい大きい、トン単位の岩までごろり。うん、拾っておこう。
【ストレージ】【ストレージ】【ストレージ】
転がる巨石も、そこらの小石も、片っ端から収納。容量の限界? 今日も姿を見せない。試しに投げかけてみる心の声
「ねえ、どこまで入るの?」
に、インベントリーは今日も無言で応える。
「どこまでも」
そんな妄想がふくらむ。が、収納に夢中になって歩くのは、フラグだったと後で知ることになる。
視界の端で、灰色の影がちらり。もう一度。ちらり。三度目は、はっきり。狼だ。しかもロックウルフ。
毛皮が岩みたいに硬くて、群れで行動する、厄介ランキング上位のCランク魔物。大人でも囲まれたらただでは済まないやつが、こちらの様子を伺いながらつかず離れず走っている。
どうしよう。正直に言おう。僕は弱い。
剣術は父に習ったけれど、十歳の僕に武勇伝はまだない。「才能はあるけど筋力がない」と言ってもらえるほどでもなく、たぶん凡庸。
弓は母から教わったが、強弓は引けない。使えるのは軽い弓。威力は……うん、控えめ。
それでも、やることはひとつ。走りながら【リリース】で弓と矢。
構え、息を整え、狙う。放つ。
カキーン!と矢が乾いた金属音を立てて弾かれる。
わかってたけども! とはいえ、走りながら当てたのに褒める人がいないのは理不尽だと思う。
狙いを変える。毛皮のない場所――目だ。
しっかり見て、矢をつがえ、放つ。スッ、と吸い込まれるように矢が通って――命中!
「キャウーン!」
ロックウルフが転がる。が、すぐに立ち上がった。ダメージは入ったけれど、致命傷ではない。矢の威力が足りず、脳まで届かなかったのだろう。
悔しい。でも止まれない。他の個体もじりじり距離を詰め、ついに並走をやめ、こちらを包囲するように広がった。舐められている。完全に、子供一人と見切られている。
二匹が同時に飛び込んできた。矢は一本ずつしか放てない。母なら二本同時も余裕なのに。
狙って、放とうとした瞬間――もう一匹が正面から牙を剥いて飛ぶ。避けきれない。間に合わない。考える暇もない。このとき、口が勝手に動いた。
【ストレージ】
昨日から連発していた合言葉が、条件反射みたいに飛び出した。
ぎゅっと目をつむる。……痛くない? おそるおそる瞼を開くと、目の前にロックウルフの大口。が、感覚がない。
いや、噛まれてる。ガシガシいってる。なのに、痛くない。
どういうこと?
さらに横からも、後ろからも、ガシガシガシガシ。
え、囲まれ噛みつかれ放題。おおう。見た目のインパクトがすごい。第三者が見たら絶対引く。というか僕なら引く。
でも、やっぱり痛くない。頭の中の目録に、新しい項目がぴょこっと増えた。「咀嚼」。
ガシガシのたびに、数字がカチカチ上がる。これってつまり、噛む力だけを【ストレージ】している? ロックウルフがガブリするたび、嚙むという行為の力を奪って蓄積している――そんな解釈がしっくりくる。
もしそうなら、攻撃に転用できるのでは? 試す価値はある。
最前面で噛みついている一匹に向けて、咀嚼を【リリース】。一回分。ロックウルフの体がビクリと跳ねる。が、すぐにまたガシガシと噛みついてくる。うーん、一撃じゃ毛皮を貫けないか。数が足りない。
目録を見る。咀嚼の数値は50を超えていた。え、もうそんなに噛まれてるの? 無傷とはいえ、精神的にくるやつ。よし、まとめて行こう。首元を狙い、咀嚼を十回分【リリース】!
ドシュッ――という、鈍い音がした。ロックウルフの首元に目に見えない噛み跡が一瞬で刻まれ、血しぶきが弧を描く。そのまま、どさり。倒れる。
「や、やったー! 倒せちゃった!」
歓声を上げた瞬間も、なおガシガシされ続けている現実。嬉しいけど状況はカオス。
慌てて左右の個体にも十咀嚼ずつを【リリース】。二匹、三匹と、次々に崩れるように倒れていった。見ていた他のロックウルフが、はっと距離をとる。警戒、というより混乱。目の前の獲物が、触らずして仲間を噛み砕いたも同然。そりゃ混乱もする。
僕もこの膠着のうちに、できることをやらないと。とりあえず、倒した個体を【ストレージ】。距離があっても吸い込める。
さすが我がインベントリー。死骸がふっと消えるたび、ロックウルフたちは目に見えてビクッと反応した。仲間の亡骸が消えていくのを見れば、焦るよね。
さらに【ストレージ】【ストレージ】【ストレージ】 機械的に、淡々と、跡形もなく。
そのとき、群れの奥から一際大きな影がすっと前に出た。他の個体を押しのけて、一直線にこちらへ飛ぶ。肩の厚み、牙の長さ、目の光。たぶん、いや間違いなくボスだ。
空気が一瞬、ぴんと張る。迫力に、思わず体が反応する。噛みつきが届く寸前に、僕の口が先に動いた。
【ストレージ】!
次の瞬間、ボスの巨体が、影も形もなく消えた。風が残り香だけをさらっていく。頭の中の目録に、静かな文字が増える。「ボスロックウルフ 1」。それだけ。余韻も派手な効果音もなく、事務的に。
残ったロックウルフたちが、一斉に尻尾を下げた。小さく唸り、じりじりと後退し、そのまま、ぱっと散る。森の陰へ、岩陰へ、四方八方へ蜘蛛の子を散らすように。
群れを束ねる存在がいなくなれば、秩序は瓦解する。僕はその場に立ち尽くし、胸を上下させた。遅れて、膝が震える。怖くなかったわけじゃない。むしろ、今になって怖い。
深呼吸。ゆっくり、吐く。頭の中の目録をもう一度開く。咀嚼の数はまだ残っている。戦闘の形に使えることはわかった。
でも、これは強すぎる。便利すぎる。使い方を誤れば、危ない。そう肝に銘じる。僕のインベントリーは、ただの荷物入れじゃない。力の倉庫だ。取り出す責任が、必ずついて回ると思おう。
ふと、服の袖口を見た。ロックウルフの血が、点々と乾きかけている。匂いが他の魔物を引き寄せるかもしれない。ここでのんびりはできない。袖をつまんで、小声で唱える。
【ストレージ】
布に染みた血だけが、すっと消えた。目録に「血液」がちょこんと増えたのは、あとで気づいて苦笑する。万能、というより融通が効きすぎる。よし、移動だ。
足元の石をひとつ蹴る。空は高く、風は乾いている。さっきまでいた我が家は、今は僕の中にある。畑も、道具も、そしてロックウルフの牙も爪も、素材として安全に眠っている。次にそれを取り出すのは、隣村か、その先の迷宮都市か。考えるだけで、胃のあたりがふわっと少し軽くなる。この感覚、きっと前に進んでいる証拠だ。
歩きながら、目録をもう一度確認する。「咀嚼」の残量は、さっきの戦闘でかなり減ったが、まだ余裕はある。次に同じ状況に陥っても、慌てずに対処できるだろう。できれば、もう噛まれ放題の絵面はごめんだけれども。
道の先、緩やかな丘の稜線の向こうに、木柵の影がかすかに見えた。隣村の外れ。あと少し。干し肉、買えるといいな。できれば塩も、小麦粉も。そうだ、店の人がびっくりしない程度の量にしなきゃ。家まるごと持ち歩く子供が、常識まで持ち歩けないなんて言われないように。
ポケットの中の何もない空気をつまむみたいに、僕は胸の内の倉庫に意識を伸ばす。そこには、家族の記憶も、さっきの恐怖も、倒せた時の高鳴りも、ぜんぶ入っている。必要なとき、必要な分だけ取り出す。そうできたら、たぶん、このチートめいた力とも上手に付き合える。
「よし」
小さく呟いて、歩幅をひとつ広げた。今日の予定は、食料の調達、村長さんへの挨拶、そして……インベントリーの追加テストは、控えめに。
いや、ほんと控えめに。できれば控えめに。たぶん控えめに。
自分に言い聞かせながら、僕は風の匂いのする方へと歩いていった。空っぽになったはずの手は、なぜかとても、満たされている気がした。




