神との接触
草木も眠る丑三つ時――とまではいかない、午後十時頃……一人の女性が明かりの少なくなった病院から出て来た。彼女の名は、アシュリン・クロフォード。この病院で法医学医をしている女性である。
「ふう……」
アシュリンは小さく息を吐くと、そのままバイクに跨り、エンジンをかける。
「さて、帰るか」
そう呟き、アクセルを踏み込もうとした瞬間、目の前に人影が現れた。
「うおっ!」
驚いて急ブレーキをかけたアシュリンだったが、少し遅かったようだ。
「痛っ!」
「す、すみませんっ!」
アシュリンが慌てて謝ると、そこには先程まで一緒に話をしていたエレノアの姿があった。
「エ、エレノアか……びっくりさせないでくれ」
「ごめんなさい……」
何事もなく立ち上がるエレノアに対して、アシュリンは一瞬キョトンとなった。
「……ちょっと待て。どうして君がここにいる? 家に帰ったんじゃないのか?」
「あの……先生と一緒に帰ろうと思って……」
……アシュリンはそれを聞いて苦笑した。
「……分かった。一緒に行こう。お守りは持っているな?」
「…っ! はいっ!」
エレノアの手には、確かに二つのお守りが握りしめられていた。
※
そして十数分後、エレノア達は一連の現象が起きた地点の近くに来ていた。
念のため、アシュリンはバイクを手押しで進む。
「エレノア、ここからは徒歩で行くぞ」
「はい……」
二人は並んで歩いていく。そのまま、例の地点まで歩いていく二人……そこはまさに、二人が昼間に調査した神社の近くにあった。
「……なんだか、雰囲気が変わっていませんか?」
「……認めたくないけど、ね……」
二人の眼前に広がる、一本の道路……左側に居酒屋などの飲み屋、右側には電車の線路と踏切に雑木林など、その風景自体は変わっていない。
しかし……二人はそこに流れる空気の変化を、確実に感じ取っていた。
「っ!?」
「きゃっ!?」
突然、二人の目の前で物音が聞こえた。
「ん? どうしたの、お二人さん?」
そして、少し前の居酒屋『花』から店の店主と思われる中年の女性が引き戸を開けて二人の前に姿を見せた。彼女はエレノア達と道路を交互に見つめて『あぁ……』と嗚咽する。
「あなた達、やめた方が良いよ」
「え?」
その女性が発した言葉は、この場所で起きること、そしてこれまで起きたことを完全に理解している口ぶりだった。
「あ、あの…ここのこと、知ってるんですか?」
「当たり前だよ。もう二十年以上もここで商売してるんだから」
そう言うと女性は店に戻っていき、すぐにまた顔を出した。
「はい、これあげる。持っていきな」
「これは……お守り?」それはお守りだった。
「うん、お守り。それと、こっちはお水。お姉ちゃん達に渡すから、しっかり持っておきなよ!」
それだけ言って再び引っ込む女性。
「あ、あの……」
まごつく私の横を通り過ぎて、アシュリン先生は颯爽と引き戸を開ける。
「ん? なんだい? まだ何か用かい?」
女性の問いかけに対して、先生は少しイラついた様子で言った。
「あなたは、ここで起きることを知っていますね? それでお守りと水を渡した。それなら、どのように対処するのかも、教えてくれませんか?」先生の言葉に、女性は目を丸くした。
「……やっぱり、言っても聞かないかい…」
「そうですね」
先生の有無を言わさない迫力に押されたのか、女性は淡々と話し始めた。
「いいかい? アタシはここで起きることが何なのか分からない。でも過去に、お守りと水を持ってた人がこの道を通った時、それが起きた。
その時、持っていたお守りに念じたり、逃げる時に水の入ったペットボトルを落としてふたが空き、中身がこぼれると難を逃れたらしい……アタシはそういうのには関わりたくないからね。もしやられちゃっても、恨まないでおくれよ」
「…貴重なご意見、ありがとうございます」
先生と一緒にお辞儀をして、私達は女性の店を後にする。引き戸を閉めて少し通りを周囲を見渡し、先生は言った。
「……いまさら言うのもなんだが、覚悟はいいか?」
「……はいっ!」
先生に問われるまでもなく、私の覚悟は決まっていた。もはや怖いから遠回りするという感覚は、私にはなかった。むしろ、なんとしてもこの現象を解明してみたい……そのような、一種の科学者魂に火が点いていたのだ。
「よし……それじゃあ行こう」
先生は近くに止めてあったバイクを押しながら、路地に向かう。私も先生の後に続いた。
……先ほどまで、店主の女性とにぎやかに話していたはずなのに、その店を少し離れただけで、私は周囲に漂う不気味な雰囲気に気圧されていた。
一見すれば、何の変哲もないアーケード街の一角のはずだが、これまでの経験か、それとも私の第六感が冴えているのか……いずれにせよ、この辺りは初めて来た時よりも一層不快な雰囲気をまとっていた。まるでこの先に、地獄に続く門があるかのような錯覚を覚える……そんな場所になっていた。
そして、少し路地を進んでアーケード街を一望しながら反対側まで行こうとしたその時――。
『ガサガサッ!』
突然、右側に見える近くの林の中から大きな物音が聞こえてきた。
「ひっ!」
思わず声を上げる私に対して、アシュリン先生は冷静に声をかける。
「大丈夫だ、エレノア。あれは木が揺れただけだ」
「え? そ、そうなんですか?」
「ああ、見てみろ」
そう言って、先生が指し示す先には、確かに風に揺れる木の葉が見えた。
私は一瞬安堵したが、この状況……初めてあの体験をしたときに似ている。
「幽霊の正体見たりなんとやら、だ」
「で、でも、気をつけて進みましょう」
「もちろん」
先生がそう言って歩み始めると、商店街の物陰から再びガサゴソと音が聞こえてくる。
「ひゃっ!」
「エレノア、落ち着いて」
私が怯える一方で、アシュリン先生は平然と進んでいく。
「うぅ……」
正直、自分が情けないとは思うが、これが本来の私なのだ。
だが……しばらく進むと、私の体は金縛りにあった。
「先生――」
慌てて後ろにいるであろうアシュリン先生に振り返って声をかけるが、先生の姿はそこにはなかった。私達が乗って来たバイクもだ。
異常な事態に陥ったことは明白……私は先ほどまでいた居酒屋まで戻ろうとするが――。
(か、体が……)
どれだけ力を込めても、私の体はピクリとも動かず、その場に立ち尽くすばかりだった。
そして……私の全身を、あの不快な感触と生暖かい風が撫でていく……。
来た……咄嗟にそう判断した私は必死に体を動かそうとした。しかし……やはり動かない。
「だ、誰か……」
恐怖で震えながらも、どうにか声を出す。すると、私の目の前に見える、街灯の光さえも届かない暗闇から、ぼんやりと人影が見え始めた。
「あ……あぁ……あぁあぁぁ……」
徐々にこちらに近づいてい来る人影……やがて街灯や月明かりに照らされて鮮明になるその姿に、私は言葉にならない悲鳴を上げた。
そこに現れたのは、黒いモヤをまとった、人間のような輪郭をした存在だった。
目も口も無い、いや、見えないというべきか……ただの黒一色の存在だったが、それが恐ろしい存在であることだけは直感的に理解できた。
『隠神』
私の脳裏に、そのよう文言が浮かんだ。
その思考を読み取ったのか、あるいは偶然か……それは私に向かって手を伸ばしてきた。
『……』
それは何かを言うわけでもない。ただ、無言で私に手を伸ばそうとしてくるだけ。
そして、その手が私に触れようとした瞬間――。
「い、嫌です!」
思わず叫んでしまった私。それを聞いたそれは、伸ばした腕を引っ込めた。
「こ、来ないでください……」
懇願する私に対して、それは何も言わずにジッと私を見つめていた。まるで品定めをするかのように。
それから、それはまたゆっくりと私に手を伸ばす。今度は避けることもできず、私は目を瞑った。
「きゃっ!?」
次の瞬間、それは私の腕をグッと掴んで、引っ張る。
私は思った。もしこの存在に連れていかれたら……二度と、この世界には戻ってこれないと。
絶対に連れて行かれてたまるか……そう思って抵抗した。その時――。
「うわっ!」
突然、私の視界に閃光が走り、相手もそれに驚いたのか、パッと手を放す。
そして、私の手にはいつの間にか三つのお守りが握られていた。
(も、もしかして)
私は半信半疑ながらも、一つ目のお守り――アシュリン先生からもらったお守りをそれに向けて掲げた。
「助けて!」
そして、願うように言った私の言葉に応えたのか、お守りから光があふれ出し、周囲を明るく照らす。
だが……目の前にいる存在は、その中においても自身の存在を漆黒にまみれさせている。
私は二つ目のお守り――居酒屋のオバちゃんからもらったお守りを掲げた。
「もういっちょ!」
二つ目のお守りも、私の願いに応えてくれたようで、眩く輝く。
その輝きは私とその存在を照らし、相手は僅かに後ずさりしていた。そして、最後となった三つ目は……神社で出会った、あの少女からもらったもの……。
「くらえ!」
私はそう叫ぶと同時に、そのお守りをかざすと、今までよりも強く激しい光を放った。その強烈な光の奔流の中で、目の前の存在が苦しんでいるのを感じる。
次の瞬間、その人影は炎に包まれた。まるで、太陽のコロナのように。
「わ、私を連れていこうなんて、百年早いんだよ!」
思わずそんなことを叫んだ私の前で、それは苦しみ悶えるような仕草を見せたあと、闇夜に消えていった。
「や、やった……」私は安堵のため息をつく。
すると、周囲に漂っていた空気は一気に晴れ、周囲の風景がハッキリと見えるようになった。
私は恐る恐る周囲を確認するが、特に変化はなく、いつも通りの商店街が広がっているだけだった。
「……な、なんだったんだろう」
私は呆然としながら呟いた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
すると、後ろから驚きの声が聞こえて来た。振り向くと、そこにはバイクを押すアシュリン先生の姿があった。
「エ、エレノアッ!? ど、どこにいっていたんだっ!? 今どこかに行ったと思っていたのにっ!」
「せ、先生こそっ!」
「いや、私は少し目を離していたら目の前にいたはずの君がいなくなっていて……」
「私だって、先生が急にいなくなったから……あ……」
そこで、私は気づいた……姿を消していたのは、私の方なのだと……。
「エレノア…?」
「先生……私、ここで起きた謎の現象の原因を突き止めたかもしれません」
「なにっ!?」
街灯に照らされたアシュリン先生は、今まで見たこともない驚愕の表情を浮かべていた。
※
「……なるほど、それなら、君が姿を消したのも納得……は、しないが、一応そういうふうに考えておこう」
その後……私はあのオバちゃんが営む居酒屋に先生を誘い、当時の状況を説明した。
最初は半信半疑といった様子で聞いていた先生だったが、私が話している最中に突如として消えたことや、謎の人影の話をすると、少しずつ理解を示し始め、最終的には受け入れてくれることになった。
「あの……信じてもらえますか?」
「まぁ、エレノアの言うことだし、信じるよ」
そう言って微笑みかけてくる先生。その笑顔を見て、私はホッとした。
「ありがとうございます」
「それで、これからどうする? 明日、一緒に警察にでも行くか?」
そう言われて、私は考えた。警察に行って説明してもわかってもらえるだろうか。いや、無理だろう。
「……やめときます」
「そうね……」
先生も、あらかじめ分かっていたんだろう。私と同じようにため息を吐く。
「じゃあ、エレノアの話を信じるとして……どうするかなぁ……」
「とりあえず、今日は帰りましょうか……」
「そうだなぁ……」
そう言いながら、二人は会計を済ませて店を出た。『またおいでよっ!』というオバちゃんの声が、私が今いる世界が間違いなく日常の現実世界であることを再確認させてくれる。
そして、私たちは再び帰路につく。しばらく無言で歩いていたが、ふいに先生が口を開いた。
「エレノアは……怖くなかったのか?」
「えっ……」
私は一瞬、何のことかわからなかったが、すぐに気がついた。
先生はきっと、先ほどのアレのことを言っているのだ。
「正直、怖かったです」
「そっか……私なんか、今も足が震えているぞ」
そう言って笑う先生の顔は、いつも通りで、少し安心した。
「私、あんな化け物みたいな存在が、この世に存在するとは思わなかったんです。それに……もしかしたら、私自身がああなっていたかもしれないと思うと……」
「うむ、そうだな……」
いつもの先生なら『そんな馬鹿な』と鼻で笑うのだろうが……なぜか、今日のアシュリン先生は私の突拍子もない話に相槌を打ち続けてくれた。そうして歩いているうちに、家が見えてきた。
「さて、着いたぞ。それじゃあ、私は帰るから……」
そう言った先生の腕を掴んで引き留める。
「あ、あの、先生!」
「ん、なんだ?」
「……泊まっていってください」
私の言葉に、先生は驚いて目を見開いたが、すぐに『フッ』と笑みをうかべると、「ああ、わかった」と言ってくれた。
そうして私と先生は、その夜は私の自宅で夜を明かした。




