雪に触れる
どうも、三次審査が突破できない星野紗奈です。
今年も残すところあと一か月。
応募していた賞の結果が出るやら公式イベントの時期が近付いてくるやらで、ぼちぼち投稿数が増えてくる時期になってまいりました。
ここで沢山の作品を発表できるのは嬉しいのですが、自分の実力不足で結果が出せず喜びきれないのも事実……。
まあ何はともあれ、最後まで頑張っていきたいと思います。
そんなわけで、本作もお楽しみいただければ幸いです。
それでは、どうぞ↓↓
「……よし。あとは、これを運んだら一旦休憩かな」
デスクワークに区切りをつけ、僕は十分に伸びをしてから腰を上げる。歳のせいか、急に動くと体のあちこちが悲鳴を上げてしまうのだ。僅かに風が起きてしまったのだろうか、ぱさりと音をたてて落ちた紙を一番上に戻す。うずたかく積まれた書類に乾いた笑いを洩らしながらも、「よっこらしょ」なんておじさんくさい掛け声とともに僕は腕にぐっと力をこめた。いくら紙とはいえ、これだけの量ともなればこの重量感にも納得である。事務室まではそう遠くない。少しばかりの辛抱だ。
精一杯首を伸ばして、紙の山の向こうを見定めながら慎重に進んでいく。生徒たちは皆部活中で、廊下はがらんとしているから、きっと衝突の危険性はないだろう。
開放的な図書館の通路に足を踏み入れると、一人の生徒の姿が目に入った。名前は知っているが、いつも教室の隅にいるような子で、個人的な話をしたことはほとんどなかった。偶然彼女が顔を上げたタイミングに目線がかみ合ったので、僕はなるべく自然に笑顔を向けた。すると、彼女は怯えたように肩を揺らし、慌てて本に目を戻した。忙しなくページの端を擦っているのが見えた。あまり話しかけて欲しくなさそうだったので、それ以上声をかけることはしなかった。
人見知りなのかな、なんて考えながら歩いていると、ふと事務室の方面へと続くテラスの扉が閉まっているのを見つけてしまった。扉といってもノブはなく、ガラス戸のようなものであるから、手いっぱいのこの状況ではどうしようもない。あいにく司書もいないようだし、彼女の邪魔をするのも悪いから、ここは一度引き返して、別の先生にでも声をかけてみよう。
前向きにそう決めて踵を返そうとしたとき、ず、とガラス戸のずれる音がした。冷たい空気が頬を撫でる。あれ、と思って確認すると、先ほどまで距離を取っていたはずの彼女が隣にいた。その細い腕を辿っていくと、確かにガラス戸に手を掛けている。
「ありがとう」
僕がそう伝えると、彼女はまた気まずくなったのか、軽く頭を下げるとすぐに無言で元の場所へと戻っていった。
事務室へ書類の山を運び終えると、僕は休憩がてら再び図書室を訪れることにした。なんとなく、彼女の様子が気になったのだ。ガラス戸を開けると暖かな空気に誘い込まれ、僕はそっと目を瞑った。ぬくもりが逃げないようしっかりと扉を閉めた後、僕は図書館の様子を改めて確認した。しかし、先ほど見た彼女の姿はもうなかった――――代わりに、随分と目立つ容姿の少女を残して。
少女は、海中に差し込んでいるような柔らかな光の筋を背景に、本棚と本棚の間に立ち尽くしていた。先ほどの彼女とは違い、少女は本を読んでいるわけではなく、本の隙間を泳いで何かを探し続けているようだった。揺れる白髪のところどころは、赤く濡れている。小さな体と幼さを残す動き、そして制服とは縁遠いくたびれた純白のワンピース。どうも少女が高校生であるようには見えなかった。どんなに高く見積もっても、おそらく中学一年生といったところだろう。
「何か、探してるの?」
突然声をかけたからか、少女は体を縮こまらせながらゆっくりとこちらを振り向いた。海を閉じ込めた宝石みたいな、綺麗な青色の瞳が僕を捕まえる。予想通り幼い顔立ちだが、そこには彼女の面影があった。少女はきょろきょろと辺りを見回した後、仲間がいないと悟ったのか、びくびくした声で僕の質問に答えた。
「えっと、あの。え、エイさんが、いなくなっちゃって」
「エイさん?」
「う、うん。あのね、きらきら、ガラスみたいでね。栞なんだけど、栞じゃないの。ちゃんと鞄の中に一緒にいたはずなのに、泳いで逃げちゃったの。だから、会えないかなーって、探してるんだけど……」
少女はそこまで言うと、ぐっと唾を飲みこんで何かをこらえたようだった。「大丈夫だよ」と肩を寄せようとして、僕は戸惑った。
白くて、赤い。いつの間にか絡められていた少女の両手が、強く握りこまれている。浜辺にある貝殻のように小さな爪が、白くなるほどの力でその柔い肌に突き立てられているのだ。さらにまじまじと見れば、爪の付け根の部分がささくれ立っている、というよりかは、何度も抉られているようだった。
結局僕は少女に触れるのはやめて、中途半端な所で手を引っ込めた。それを見て少女は僅かに息を吐き両手を解いたので、この判断はきっと間違いではなかったのだろう。
「名前は、なんていうの?」
このまま放っておくのも心苦しいので、僕はしゃがみ込んで目線の高さをあわせてから、なるべく優しい口調で少女にそう尋ねた。すると、わざと目線を逸らされた後、小さく「エス」と口を動かした。
「エスさん。僕でよければ一緒にそのエイさんを探したいと思うんだけど、どうかな?」
「先生、忙しくないの?」
少女はまるで僕のことを知っているかのようにそう聞き返してきた。僕は少し変な感じだった。
「休憩だから大丈夫」
「休憩しないの?」
「やりたいことがあるわけじゃないし、ほら、じっとしててもつまんないから」
少女はそれを聞くと、こくと頷いて、マイペースに歩き出した。僕はどうするのが正解かよくわからなくて、少女を怯えさせないよう細心の注意を払いながら、隣で少女の目線を追って「エイさん」とやらを探すのだった。
本の間を縫って少しずつ進んでいく少女は、白いワンピースのなびきも相まって、なんだか海月のようだった。実際には、少女の目には確かに「エイさん」に対する意思があるように見えるから、思考性の乏しい生物を例に挙げるのはきっとふさわしくないのだろう。しかし、回遊魚のように生き急いでいる感じもなければ、熱帯魚のような鮮やかな生命感も感じられず、僕の頭ではそう表現するしかなかった。どこからか、水の音がこもって聞こえてくる気がする。
気が向いたのか、少女は唐突に話し始めた。
「エイさんはね、お友達からもらったの」
「何かのプレゼント?」
「おみやげ。沖縄の水族館、だって」
「あ、美ら海水族館?」
「多分そう」
子どもたちが自ら話しかけてくれる瞬間というのは、いつになっても嬉しいものだ。きっと多くの教師は、こういうところにやりがいを感じてこの職に就いたに違いない。そんなふうに喜びに浸って、うっかり口元を緩ませてしまったのがいけなかったのだろうか。
「そっか。仲良しのお友達なんだね」
「わかんない。もうずっとお話もしてないから」
僕の微笑ましい解釈に向けられたのは、幽霊のように温度の無い言葉だった。髪の上で揺らめく赤が、鈍く輝く。
「私がこんなふうだから、エイさんもどっか行っちゃったんだろうなあ」
少女は遠い目でそう呟いた。どこか幻想的な空間で、幼い少女を目の前に、その発言だけがひどく大人びていた。何もかもが、かみ合っていない感じだった。
「どうして、エイさんを探してるの?」
「どうして?」
こんな言い方もおかしいが、少女は急に子供に戻ったかのように、こてんと可愛らしく首を傾げた。
「その、例えば、僕だったらね? 大事なお友達なら探さなきゃ、って考えると思う。だけど、もう仲良くないお友達なら、捨てちゃったっていいんじゃないかなー、って……」
自分で言いながら、ひどく後悔した。こんなにも幼い人生の後輩に話すべき内容ではなかった。僕は思わず頭を抱えそうになったが、少女はそれを特別深刻にはとらえていないようだった。
「もらったものは、なくしちゃダメ。それをくれた人が、偉いか偉くないかとか。大事か大事じゃないかとか。そういうのは、関係ないかなって、思ってた。……けど、先生の言うことも、あってるのかも」
また、あの達観したような口ぶりだった。白い髪が輝きながら、波に揺らぐ。
「大事、だったのかな」
どこからやってきたのか分からない潮の匂いが、鼻につく。この空間の奇怪さは既に十分承知していたが、それでも僕は少女を置いてここを離れる気はなく、一緒に図書館の中を彷徨い続けていた。二人とも、だんまりだった。決して悪い意味ではない、と、言い切るには少し自信が足りない。どちらかといえば気にしていたのは僕の方で、少女は本当に独り言を呟いただけのようだった。
「本は、好き?」
「わかんない。ちょっとずつ読むようになったばっかりだから。でも、嫌いじゃないかも」
「そっか。もしよかったら、面白かったお話とか、教えてくれない? 先生、今新しい本探してるんだ」
「こっち」
そう言うと、少女は水の泡を踏み台にしたような感じで、軽やかに迷いなく先を行く。僕はぎこちない足取りで、少女の後を追った。
少女が行き着いたのは、少しくすんだような、古めかしい色彩たちが並ぶ場所だった。てっきり、サブカルチャー的要素を備えた単行本やらお洒落なハードカバーやら可愛らしい表紙の絵本やらを目にすると思っていたものだから、少女の思考はますます海底に沈んだように見えなくなってしまうのだった。
少女は本棚の低い位置に並ぶ背表紙をじっと眺め、やがて一冊の分厚い本に手を掛けた。やや埃をかぶっているのか、か弱い力では何度も指を滑らせるばかりだったので、代わりに僕がそれを引き出す。特定の作家の全集かと思ったが、どうやらテーマに合う話を選び収録した短編集らしい。
僕が表紙を開くと、少女は滑らかな手つきでページをめくった。宙に浮く紙の一枚一枚が、波に揺れる海藻のように見えた。
「これがね、好きなの」
目的のページに達すると、少女はそう言って題名部分を指さした。『死なない蛸』と書かれている。作者の名前は聞いたことがあるが、この作品と出会ったのは初めてだったので、僕は内容にざっと目を通した。これを好む少女は、随分な物好きだと思った。
少女の指先は、しばらくの間、ページの端を擦っていたはずだった。しかし、僕は自分が思う以上にこの短い作品に夢中になっていたのか、気がつくとそれは視界から消えていた。一通り読み終えたこともあって、ふっと顔を上げる。少女は案外すぐそばにいた。
僕と目があったとき、少女はまたぐっとこらえるように目を瞑った。僕が疑問を抱いて間もなく、少女の腕がぐるんと勢いよく一回転した。それは、一般的な人間としてはありうる動きではなかった。一度では足りなかったのか、もう一度同じ動きが繰り返されると、その細い腕は華奢な体から無理に引き剥がされた。少女は、時折口をはくはくと動かしながらも、決して声をあげることはなく、ただ必死に耐えていた。分離した腕は彼女の真上を目指して漂い上っていったかと思うと、ありとあらゆる箇所が捩じられ、圧迫され、引き絞られていく。それが血色を失って骨のようになっていくにつれて、彼女の髪色は赤い輝きを増していった。一連のことが終わると、それが当然の自然の摂理だとでもいうように、腕だったものは粉のようになって徐々に形を失い、波に流され散り散りに消えていった。
少女に対する冒涜的な行為は、何度も繰り返された。僕は制止したかもしれないし、しなかったかもしれない。わかるのは口を少しばかり開いていたことだけで、その空間において音という音は何一つ確認できなかった。
残すは、胴の上部と耳の無い頭部である。とはいえ、胴については真白なワンピースの揺らめきの奥に隠されており、視認できているわけではない。鮮やかに灯された赤髪を揺蕩わせながら、少女はまだ何かをこらえているようだった。
僕はほとんど動くことが出来なかった。駆け寄って少女を守ろうとすることも、常軌を逸する力の主に訴えることも、何も、出来なかった。存在を知ってから小一時間も経っていない少女が、目の前で残酷にも分解されていく。言葉にしてしまえば至って単純だが、それを目にするのがこんなにも恐ろしいとは思わなかった。しかし、不思議なことに、少女から目を逸らすことも出来なかった。汚いだとか醜いだとかは一切思わず、寧ろ神聖で高貴で、ひどく美しいような気がしていた。
少女はふと、薄く目を開いた。空想的な場所であるがゆえに、まだ意識があるのだろうか。僕と目があうと、少女は顔を強張らせた。少女は、確かに僕に怯えているようだった。それは、僕の持つ何かしらの属性に怯えていると同時に、自分の消滅を見届ける存在に対する怯えでもあるようだった。僕が見ていたのは、彼女と最初に出会ったときの、あの目だった。
いよいよ少女の首が捻られ始めた。少女の最後の表情を見届けると、僕の視野は眩しい熱に侵されていく。赤く染め上げられた一つ一つの線が、僕の視界を少しずつ塗りつぶしていく。それはゆっくりと眩暈を引き起こし、僕は足元が覚束無くなる。まるで本当に海中に放り出されたみたいに、息が詰まる。そして再び少女の顔面と向かい合うかといったところで、僕は世界を遮断した。
ちりちり、と脳が焼けるような痛みで意識が浮上する。僕の耳にごん、という鈍い音が届いたのは、それからだった。
「だ、大丈夫、ですか」
ず、と戸がずれる音がして、すぐにそう話しかけられた。図書館から流れ出る温かい空気が冷気にとけて消えていくのを肌で感じ、僕は初めて自分がまだテラスにいたことに気がついた。彼女は先ほどの音を聞き、読みかけの本を持ったまま、慌ててこちらへ来てくれたようだった。
「ごめんごめん、大丈夫。ありがとう」
寒さを自覚して急に痛みを感じ始めた指先を擦り合わせながら、僕は彼女が開けてくれたガラス戸の枠を越えようとした。そのとき、足の裏にじ、と感覚が伝わる。何か踏んでしまったようだ、と急いで足を上げて見れば、そこにはなんだか聞き覚えのあるステンドグラス調の栞が落ちていた。砂に擦れたのか、色鮮やかなパネルのそれぞれに数本の筋が刻まれている。彼女の方を盗み見ると、気まずさげに本に目を落としながら、僕が通過した後に戸を閉めるのを待っていた。彼女がこちらを見ていないのをいいことに、僕はそれを静かに拾い上げ、ポケットにしまい込んだ。ざらついた指先が、少しだけ不愉快だった。
「邪魔しちゃったかな。ごめんね」
「あ、いえ、別に」
「何読んでたの?」
既に言葉を交わしてしまったからか、彼女は僕を無視して元の場所へ戻ろうとはしなかった。しかし、緊張して言葉が出てこなかったのか、俯きながら本の表紙をこちらに向けてくれた。それは、少女によって導かれた、あの古びた色味の短編集だった。
「あ、それ」
反射的に出かけた言葉に、彼女はすっと顔を上げた。少しだけ、目に星が宿っているのが見えた。
「『死なない蛸』ってやつは、ちょっとだけ読んだよ」
「そうだったんですね」
「今読んでるのは違うやつ?」
「『山月記』を読み始めたところです」
「あー、国語の教科書に載ってるやつだ」
僕の言葉を聞いて、彼女は僅かに口元を緩ませた。つられて、僕もひっそり微笑む。
「あ、そうだ。これ誰のか知ってる? 落ちてたんだけど」
やや唐突に、そんなことを言いながら、僕は素知らぬ顔でポケットから栞を取り出して見せた。数秒とはいえ隠し持っていたのにこんなことを言うのはおかしいが、僕が持っていても仕方がないような気がしたのだ。何より、少女と彼女を同一視している僕にとって、今目の前で笑う彼女からは少女のような不安定さがさほど感じられなかったのである。
「多分、エイの栞だと思うんだけど」
「マンタです」
僕が言い訳がましく続けた言葉に、彼女は間髪入れずにそう答えた。僕は少し驚いて、思わず「え」と声を洩らす。
「私も、最初はエイだと思いました。けど、くれた友達がマンタだって、そう言ってました」
柔らかい口調ながらもはっきりと告げられたことに、僕は唖然として「マンタ」と彼女の言葉を反復した。すると、彼女も幼げに笑って、「そうです。マンタです」と繰り返した。
「そっか。マンタだったんだね。……って、これ、あなたのだったの」
「……どう、なんでしょう。私が失くしたのは、もうずっと前のことですし」
「いいんじゃない? 本当の持ち主が見つかるかも分からないし。まあ、ちょっと傷が入っちゃってるみたいだけど」
「あ、ありがとう、ございます」
彼女の声は、自信なさげで、あの少女の惑い方にどこか似ていた。しかし、僕が栞をそっと差し出せば、彼女は案外迷いなくそれを手に取った。ほんの少しだけ触れた指先が冷たくて不安になったが、ほのかに桃色に照る傷跡の無い肌が目に映って、僕は密かに安堵した。
ふと僕が窓に目を向けると、彼女もそれを追うように外の景色を見た。青空はぼやけ、美しい夕焼け空に変わり始めている。今は何時だろう、と僕が考え始めたとき、静かだった図書館にまで鐘の音が響き渡った。彼女はひくと肩を揺らしたが、それ以上の驚きは見せなかった。
「あ、もうこんな時間か。戻らないと」
「あ、すみません。私が引き留めたみたいで」
「いやいや、話しかけたのは僕の方だし。それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい。ありがとうございます」
「さようなら」
「さようなら」
彼女は栞を本に挟み、それを大切そうに抱えながらもう一度だけ礼をした。僕がひらと手をふると、彼女はくるりと背を向け、置き去りの鞄を目印に席へと戻っていった。遠ざかっていく革靴の音が、ひどく心地よかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました(/・ω・)/




