放課後
出張の折には公休日を一日加え、東京を歩く。年に七、八回、そのペースで五年ほど続いている。
高校を卒業するまで東京で暮らしたが、十代の行動範囲など知れている。まして町歩き、散策なんて趣味もなかった。だから。
上野、鶯谷、日暮里の下町風情や、もんじゃストリートから江戸の空気が感じられる佃島、柴又帝釈天の参道を冷やかし矢切の渡しの前で一服して、浅草六区だの門前仲町だの三ノ輪だの。歩いても歩いても見知らぬ表情の東京が私を迎えいれてくれた。
その日、今日は何処を歩いてみようかと山手線車内から外を眺めていたが、ふと駒込で降りてみる気になった。
小さな商店街を歩き、記憶を辿って聖学院の前に着いた。私の在学した高校である。坂の途中にあった正門の位置が変わっていて、その校舎にも面影がなく感慨も湧かない。四十年も前の校舎は記憶の中にしかなかった。いや、それも曖昧で霞みが掛かっている。
踵を返して坂を下りようとした時、三人の学生が私を抜いた。そのまま歩いたが、学生たちも前を私と同じ速度で歩く。その距離は近い。聖学院の制服は四十年前と変わらない紺色のスーツで、今の私の恰好とそう変わらず、遠目には四人のグループに見えたかもしれない。
雨の気配はないが、雲は厚く風も吹かず少し息苦しい。
坂を下りたところで「こっち」と聞いた。三人のうちの一人が言ったので、それに従って後をついた。道は線路に行き止まり、また左に折れ坂を上る。駒込駅とは反対方向で巣鴨方面に向かっている。
「今日のレコード良かったな」という言葉が聞こえた。
「ああ、おれもスッゲエ良かった」
音楽コースのクラスで先月から「生徒が皆んなに聴かせたいレコード」を聴く授業が始まった。今日、その二回目の授業があった。
「あれ高橋だろ?」と言いながら、吉田が私の方に振り向く。
「あ、そう、おれ」
「なんつったっけ、名前」
「キース・ジャレット」
「おう、それそれ」
「バカ真野とスー、ずっと笑い堪えてたろ」斎藤が言った。
「唸り声聴こえた時な。あいつらホントだっせぇンだ」吉田が言う。
「キース・ジャレット、のなんていうの?」と林が聞いた。
「ケルン・コンサートだよ」
「おれも買おう」
「林、テープに録ってよ」と斎藤が言う。
坂を上りきり、くねった車道を渡った。傍らの陸橋の下を電車が音も立てず走った。「こっちね」と吉田は狭い路地に入った。新し目の住宅ばかりが両側に軒を連ね、百メートルほど先で洒落た二階建ての団地が並んでいた。が、人の気配がない。団地にまだ住人はないのかもしれない。そう思うとふと、そういえば私たちはここまで誰かとすれ違ったりしただろうかと妙な気分がした。
「高橋、タバコある?」と吉田が不意に立ち止まって聞いた。「没収だぜ? 丸山のヤロウ」
胸ポケットからタバコとライターを出して吉田に手渡した。
吉田が白い煙りを吐いたその向こうに空が広がっていた。
高台の行き止まりにいた。低く、錆びついたフェンスの下には幾本もの線路が走っている。
「すごいな」と私は言った。
「何が?」と林が聞く。
「眺めがさ」
「あれ、高橋初めてだっけ?」吉田が言う。
「うん」
雲がじっとしたままでいる。その空の下でジオラマのように町が広がっていた。そう大きくないビルが点々とし、電柱は隠れている。銭湯の煙突があったが、煙りは出ていない。真っ直ぐ先は北だろうか。どこまでも町は続いている。東にも西にも広がって、見渡す限り空との境目が分からなくなるまで続いている。
「海みたいだな」と私は言った。
「海?」
それから小一時間、吉田と斎藤と林とそこにいた。空が少しばかり色を変え始めていた。