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私の好きは重い。
同じ好きという言葉でも、馬希はずいぶん軽々しく好きという言葉を使っていた。それは王子に対しての憧れであっても、食べ物や娯楽であっても、妹の鹿乃さんや私に対しても。
『最近思ったけど由仁ってチョロいめだよね。そういうとこ好き』
『宿題見せてくれてありがと~う愛してるよ由仁~』
思い出せば愛を囁かれたことはそこそこある。そのたびに私は、似合わない愛想笑いを浮かべてふざけんなと一蹴していたものだ。
私はいまだに好きなんて簡単には言えない。
馬希に自分の気持ちがバレて、そしてなんとか元の鞘に収まったところでも、私が好きと言うことはそんな関係をあっさりといつか破綻させる気がしたからだ。
馬希は私が馬希のことを好きなのを知っている。愛していると知っている。さながら今の関係は綱渡りのようだった。私が一歩でも踏み外せば、また以前のように馬希に見放されるような、馬希と離れ離れになるような。
私は馬希にフラれた。私は馬希を諦めた。その前提があってようやく今の関係になったのだ。完全に戻れたわけじゃないけど、だいたいは元に戻ったというわけだ。
フラれたから諦める。そんな簡単なことなのに。
「由仁お姉さん、お帰りなさい!」
「なんでまたいるの……」
最近の鹿乃さんは私よりお母さんと仲が良さそうだ。たぶん将を射んとすれば馬を射よ、みたいなやつだろうけど。私が帰るたびにきらきらとした目で出迎えてくれるから、もううちの子みたいになっている。
「由仁お姉さんのことが好きだからですよ~」
うっとりした表情で抱き着いて胸元に頬を擦り寄せてくる。好きの軽さは、スキンシップの多さも馬希譲りか。……ということは馬希の恋人ってこういう風にされるのかな、なんて。
想像しただけで顔が熱くなってくる。愛しているなんて、好きだなんて馬希から言われたらどうにかなってしまう。
ただ、最近の馬希はもうそういうことは言わなくなってしまった。私に遠慮している雰囲気を覚えるけれど、きっと馬希なりに私に配慮しただけなんだと、私が困惑したり勘違いしないようにした結果なんだろう、と信じる。そうじゃなくて単に私を前より好きじゃなくなったとかなら死ぬ。
「あの、うれしいですか?」
「え、なに? ごめん考え事してた」
「お姉ちゃんのことでしょ! もう! もうもうもう!」
抱きしめるのはやめて服をぎゅうぎゅう掴んで駄々をこねる。こういうところはガキらしい。ガキらしくて嫌いなところだ。
でも、もう中学生になるというのならきちんと話をしなければならない。
電車なら大人料金になるのだし。
「鹿乃さん、私は馬希にフラれて、馬希を諦めたの。ただの友達としてやっていく。それと同じで鹿乃さんももう諦めて私のことは姉の友達程度に思って」
「そんなの、できるわけない! だって好きだから……好きで、お姉ちゃんよりずっと好きなのになんで!?」
「私が好きじゃないから」
答えはあまりに簡潔だった。恋愛というのは双方の理解あっての関係であって、片思いの感情が報われることなんてあるわけないのだ。
それでも、私はまだ報われている方だ。この子と違って。
「それでも……好きっていう。好きだから、隠さない、嘘も吐かない。それが、由仁お姉さんの……」
なんと言ったらよいのか。
その価値観の話を、確かに馬希の家で言ったことがある気もする。私の今までの基本姿勢、人を厭って孤独な中で、ただ馬希だけに受け入れられていた価値観。
それをこの子は聞いていたのか。聞いていて、だから私に今までこんな風にしてきたのだろうか。
あまりに、私とは違う。私はこの子とは違う。ただ人を嫌い、離れるための題目として唱えていたような私の価値観を、好きな人に近づくために真摯に取り組んでいた鹿乃さん。
心が溶けるような感覚だった。今まで持っていた苛立ちや疎ましさのような感情が胸の中ですとんと落ちて、ただそこにいるまっすぐな綺麗さを持った少女に眩暈がした。
子供は、だからどうも苦手だ。自分が汚れた大人になったと感じてしまう。
「……またお姉ちゃんのこと考えてます?」
「いや、いや……鹿乃さんのこと」
ガキだと言って憚らない青い若々しさに好感を抱いたのは初めてだろうか。自分の姿と重ねずに懸命な片思いをする姿を、初めて一人の個として見た気がする。
モブでも少女Aでも出せないはずの輝きがそこにある。
「なんていうか……射場鹿乃」
「……はい?」
「射場鹿乃って感じ」
「えっと、射場鹿乃、です」
「明浦由仁です」
「知ってます」
「うん」
ぽつんと世界から取り残されたみたいに静まり返った。泣きそうだった鹿乃さんも静かに立ち尽くしている。
今なら、対等に話し合える気がした。小学生相手に対等っていうのも変だけど、それはようやくガキという一つの色眼鏡を外して一人の射場鹿乃という人間として私が認識したという話である。
「話そっか」
「は、はい」
おっかなびっくりと鹿乃さんはリビングについてきた。馬希曰く、昔は大人しかったけど最近は手に余るやんちゃというか勢いがあるという。まったくその通りだけど、ただ私の前だけ、こういう風に大人しい姿を見ることができる。お母さんも鹿乃さんには手を焼いているらしいし。
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由仁お姉さんが変。
話をしよう、なんて初めて言われた。普段はトゲトゲしているのに、今はなんだかぼーっと別のことを考えているみたいだった。
けど、リビングのおこたみたいに布団を挟んだ机に座ると大人しく口を開きました。
「私は、まだ馬希のことが好き。諦めきれないかもしれない。でも諦めるって決めた」
「……じゃあ、私のことを好きになってくれるんですか?」
「それは一生ない」
「なんでそんなこと言うんですか!? 年齢だったらすぐじゃないですか!」
「いや追いつけないし……、っていうか馬希を好きなのに鹿乃さんと付き合うなんて惨めったらしくてありえない」
「うっ、お姉ちゃんがお姉ちゃんじゃなかったら……」
「そしたら会わないじゃん」
お姉さんはロボットみたいに、感情がないように答えていきます。前もこんな風に理論的に告白をかわされて、ハイ論破なんて言われたこともあったかな。
「……諦められないんですか?」
「……まだ、全然。いつも馬希のことばかり考えてる」
私を見ているようで、私を見ていない。私の中にいるお姉ちゃんを、由仁お姉さんは見ている、そんな遠い目。
「……まだチャンスがある、なんて思っているのかな。馬希が王子にフラれて、フリーになったって。鹿乃さんみたいに、恋人じゃなくてもいいから一番近くにいて、何かしらいろいろしてくれるって、そんな都合のいい関係になりたいって……口に出したらすごい実感出てきた。私もそういう関係でいいや。そういう関係になりたい……」
「す、ストップストップ。それはズルですよ」
「ズルくない」
喋れば喋るほどお姉さんの言葉はハリを得て、そうしたい気持ちがありありと出ていました。本気でそうする、って由仁お姉さんの強まる目を見ればすぐにわかります。
でもそれはたぶん由仁お姉さんにとっての嘘の関係で、何より私のパクリ。パクリはズルい。
「それだったら私にもそうしてくださいよ! お姉ちゃんが由仁お姉さんを可愛がる仲良しの関係なら、由仁お姉さんと私もそういう関係になれるじゃないですか! 恋人じゃ、ないんですし」
「それはダメ。まだ鹿乃さんは子供だし」
「ズルい! ズルいズルいそんなの! 子供だからって何でもかんでもさ!」
「私は……えっと、子供にしてはダメなことをしてもらうから」
「裸で……」
「こら、しー、しー。お母さんいるから」
やっとお姉さんが感情的な姿を見せました。慌てて私の口をふさごうとする。私だって、エッチくらい知っているし授業で習った。女の子同士でするのは知らないけど……、それを二人でするなんて恋人じゃないとできない。
「また嘘吐きました! エッチって恋人同士で……」
「わー! 鹿乃!」
なんてロマンチックじゃない名前の呼び捨てなんでしょう。
おばさんが来て、その後めちゃくちゃ怒られて家に帰されました。
「お姉ちゃんは恋愛しないの?」
「フラれた上にテストも惨敗した私に何を言う」
部屋で、お姉ちゃんはいつものようにしていました。わがまま言って作ってもらった自分の部屋を漫画本や勉強道具やらで散らかして、唯一綺麗なベッドの上でごろんとスマホを見て。
「由仁お姉さんはまだお姉ちゃんのことが好きで、私は由仁お姉さんが好き」
「で私はこんなに妹思い。綺麗な三角関係だ」
「茶化さないで!」
「ご、ごめんなさい」
邪魔……一言でいえばお姉ちゃんが邪魔だ。お姉ちゃんさえいなければ私は由仁お姉さんときっと結ばれる。だってお姉ちゃんの存在が由仁お姉さんの気がかりで、そのせいで何もせず今のままだから。
お姉ちゃんをどうすれば、いいのか。
「お姉ちゃんさえいなければ……」
「そんな邪悪なこと考えない。私は死にませ~ん死ぬまで死にませ~ん」
「ううぅ、なんでそんないじわる言うの」
「私の生存権はいじわるか……鹿乃のがだいぶいじわるなこと言ってるけど」
「どうしたらいいと思う?」
たしかに、私が意地悪を言っている。とは思うけど私にはもうそれ以外の方法がわからなかった。
だから、素直に尋ねた。お姉ちゃんもようやくベッドの上にあぐらをかいて、うーんと空を仰ぐみたいに首をひねった。
「いや諦めた方がよくない?」
「好きなの!」
「由仁かぁ、うーん………………、由仁って案外気が強そうに見えてしおらしいところあるし、じゃあ鹿乃がもっとバリバリ行った方がいいのかもしれない。なんて」
「……やっぱり?」
私も以前は由仁お姉さんは強くてかっこいい人だと思っていたけど、お姉ちゃんに触られたいって思ったり、泣き出す姿を見たり、女性らしさもある人だと思った。
彼女と彼女、ってなんだかわからないけど、恋愛なら私がリードしなきゃ! って思ったりもした。
「そうと決まれば……」
「あと六年くらい待ったら? 十八なら、まあ、一応結婚できる年齢だし、由仁も年齢で文句言わなくなるよ」
「……その間に由仁お姉さんが他の人を好きになったりしたら?」
「知らない」
「だから!」
だから、今のうちに好きになってもらわないと困る。由仁お姉さんが私のことを忘れないように、大事に想っているうちに、由仁お姉さんが私の成長を待ち遠しく思ってくれるようになってもらわないと駄目なのだ。
お姉ちゃんは私がわがままを言っている、なんて呆れているけど、私は切実だ。現実を見ているからこそ必死なんだ。
私が由仁お姉さんを好きで居続けることは、簡単とか難しいとか、いつか変わるとか、そういうのじゃない。今の私の全部だ。
だから、だから、私の全部だから。
「本当に、好きなんです。大好きなんです。絶対に、絶対に」
手を取って、由仁お姉さんの目をまっすぐ見て。
誠心誠意を伝えて、気持ちが伝わるように、口づけも……。
「だからないって」
頭を抑えるようにお姉さんに離される。キスすれば、きっと伝わるって思っているのに。
「私にとって、確かに鹿乃さんは一人の人間になった。それはすごいことだよ。特別だと思う。でも、違うから」
由仁お姉さんは少し考えてから、指を一本立てました。
「鹿乃さん、幼稚園児から好きって言われて真に受ける?」
「……そんなの」
「赤ちゃんに指握られても、恋愛はしない。私にとって鹿乃さんはまだそんな存在なの。小さすぎる。恋愛するとかじゃない。可愛いかもしれないけどわがままで手を焼く。そんなどこにでもいる子供の一人。私は鹿乃さんのことが一人の人間だって認識できたけど、それでもまだ鹿乃さんは一人の子供でしかない」
お姉さんは――
――まっすぐ、私を見つめて言いました。
嘘のない言葉で、何よりも真摯に向き合ってくれました。
「……絶対ですか」
「うん。……ごめん」
子供ってなんなんでしょう。周りとまだ差がないとか、差ができたら恋愛していいのでしょうか。大人になったらどうして恋愛していいのでしょうか。別に高校生だって、みんなが出産するわけでもないのに。
どうして私はダメなんでしょう。子供だから、なんでしょうか。
今は、きっとそう。そうなんでしょう。
「………………私、育つの待っててくれますか?」
「……そっちにその気があったらね」
「絶対! 絶対です! 私は絶対に……好きで居続けます」
由仁お姉さんは軽く息を吐きました。かかる吐息はやや熱っぽいですが、由仁お姉さんは目を閉じて無表情で、それは呆れているのか、なんなのかはわからないもので。
「……一応、待っといてあげる」
「……はい!」
きっと、諦めない。
何年経ったらいいのだろうか。五年、六年、今まで私が生きた半分くらいの年月。
きっと変わらない。だって今、こんなに燃え続けているのだから。
こんな感じで終わろうかと思っていたけど




