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直前にどんな会話をしていたのかも、何の問題を解いていたのかも思い出せないくらい当たり前の日常の中で。
かろうじて思い出すのは、明浦由仁を家に呼んで部屋でテスト勉強しているということ。
そして突然、妹の鹿乃が入ってきて開口一番。
「由仁お姉さん、好きです! 恋人になってください!」
なんて、言い出したこと。
一体、何事か。妹の鹿乃は女だし、由仁ももちろん女だし、第一、鹿乃はまだ小学生だし、そんな恋愛を焦るような――
なんて色々考えてパニクっていると由仁は頭を下げて「ごめんなさい」と切り出した。
「あなたを恋人にしたら私が犯罪者になってしまうじゃない」
それは、まあ、そうだ。由仁が再びノートに目を向けると、鹿乃は震えながら私の方を見た。どういう感情か既に泣き出しそうなのをこらえている様子だけれど、これはフラれたのか。フラれたってことか。
「えっと……」
「犯罪者になっちゃうの?」
「あなたは小学生ですから」
「中学生になったら……」
「ダメです」
結局鹿乃の問答に由仁が答えてるけど、随分ハッキリバッサリだ。確かにその通りだけどもう鹿乃がしゃくりあげ始めたから私がつい割って入った。
「由仁、そういう言い方はないんじゃない? まだ小学生なんだし……」
自分でも諫め方に自信がなかったけど、由仁は口を結んで、整って並んでいる眉を逆ハの字にして、珍しく怒りを示したようだった。
「小学生じゃなかったらこんなこと言わない」
「いやそれはそうだけど。まだ子供なんだから優しく、さ」
「だって馬希の妹のことなんか何も知らないし」
「そりゃそうだけど……まだ子供だよ? 可哀想とかって思わない?」
「……同情で付き合ってあげるの? 恋愛の真似事だなんて言って」
「そうは言ってないじゃん」
「……馬希ってそういうこと言うんだ」
「そういうことってどういうこと?」
「自分の胸に聞いてみて。私はその子には付き合わない」
そんな風に私までバッサリ切られると、鹿乃は部屋から出て行って、私も勉強という気分じゃなくなった。いや、そりゃ付き合わないだろうけど。
ただ一人、勉強に集中し始めた由仁を、ぼーっと見つめて、前もこんなんあったなと思い出す。
由仁と出会ったのは去年の春、高校に入学した時だった。
彼女は、誰とも仲良くなろうとしない、そんなクラスのムードを険悪にするためにいるような厄介者で、たびたびいろんな人と喧嘩するみたいに言い合いをしていたのを覚えている。誰も手を出さないから先生も注意できないし、どっちの言い分も感情論みたいなものだから。
私はそんな由仁を妙に気に入って、由仁もそんな私を否定しないでなんか二人で仲良くやってるけど。
仲良く……やってるのかな……?
「まぁ、私は妹思いの優しいお姉ちゃんでしかないですけど」
「あ、そ」
そっけない。仲良くはないのかもしれない。
それはそれで、仕方ないかもしれない。
「ま、ちょっとは優しくしてやってよ。私の可愛い妹なんだし」
「はいはい」
変わらずそっけなく答えるけど、由仁は元からそっけない子な気がするからどうでもよくなった。
べんきょーべんきょー。
――――――――――――
女同士の関係が気持ち悪くて仕方なかった。
空気を読むとかおべっかを言うとか社交辞令とか、全部まとめて嘘、嘘、嘘。みんなと仲良くしましょうっていうのはイコール自分を殺して嘘を吐きましょうっていうことだと感じた。
私はハリネズミのように誰も近づけなかった。クラスから孤立して誰からも無視されるような状況になっても、それが私の望んだ自衛の結果で、勢いよく敵意を向ける奴らはみんな睨み返したし、誰も寄せ付けなかった。
面倒なのはゆっくりと心を溶かすように近づく奴、でも先生なんてクラスの雰囲気とかいじめ問題とか、自分の仕事に差し支えがあるから注意するだけ。嘘ばかりの社交辞令、私の嫌悪する人間だった。
違ったのは射場馬希だけだった。
彼女は傍目から見ても器用だった。しょっちゅうクラスのあちこちで誰かと話していて、喧嘩してたり気まずい雰囲気があればそこに行って仲裁してやり、そんな調停役をしている印象が強かった。
私が一番嫌いなタイプだと思った。喧嘩なんてさせればいいのに、場の空気とか雰囲気のためにあくせく働いて、下らない人間だと。
『なんで私に構うわけ?』
『明浦面白そうだから』
『は? 面白そうだから、ってなに?』
『一番仲良くなれそう』
何度か馬希と話してから、そんな会話をしたことを印象強く覚えている。
クラスの奴らと話して、やっぱり私が一番だと彼女は言ったのだ。嘘だとも思ったし、事実ならかなり変なやつだとも思った。
だって私、性格悪いし。
自覚はある。協調性はないしクラスの和は乱すし誰とも仲良くならないし、でも私はそんな自分で良いと思っているし、そんな自分が嫌われることも分かっている。
だから当然、そんな自分に友達なんてできないとも思っていた。
『馬鹿じゃないの?』
『明浦も馬鹿じゃないの?』
『ばっ……私頭良いし!』
そんな風に怒ったら、馬希は楽しそうに笑った。
嬉しそうに、楽しそうに。
『私さ、嘘とか吐かないよ。社交辞令とか遠慮とかそういうのもしたくない。そういうのって嘘の関係だと思うから』
『へー。私もそういう面倒なの嫌だけど』
『そんなことない。だってみんなそうしてる』
『みんな嫌われたくないんだよ。知らんけど』
私は真剣だった。大マジになって、わざわざ家に彼女を呼んで、自分の部屋で、二人きりで、そんな話をした。私はまっすぐ馬希を見つめて言っているのに、彼女は珍しそうに本棚の中身なんて覗いて、余所見していた。
『真剣に聞いてる!?』
『聞いてるよ。でもそういうのって嘘吐こうと思って出るんじゃなくて、相手を傷つけないように、嫌われないようについ言っちゃうんじゃない? 私は目くじら立てるほどじゃないし、嘘吐かれても隠し事されても構わないかな』
『私は嫌! そういうのは関係を薄っぺらくする……、なあなあの関係になって、信用できなくなって、すぐに別れるみたいな下らない、意味のない関係』
『重いね~。浮気とか許せなさそう』
『約束して。嘘も隠し事もないって』
『いいよ』
『軽くない?』
自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はあったし、そんな自分だから友達も作らなかったし、一人でいるようにしていた。
だからもう馬希と会わなくても済むように、いざ顔を見ても辛くならないように別れを切り出すくらいのつもりで言った。
――でも、馬希ならこんな風に受け入れてくれるかもって思っていたのも事実だった。
『でも思ったこと何でも言うとかは面倒臭いから、質問されたら全部正直に答えるってことでどう?』
『本当に良いの? 社交辞令も許さないから今度遊ぼうって言われたら遊ぶし、出かけようって言ったら絶対だよ?』
『いやそれぐらいするよ。私をなんだと思ってるの? 友達じゃん』
馬希は笑っていた。嬉しそうに、楽しそうに、笑ってくれたのだ。
馬希は、本当に嘘を吐かなかったように思う。隠し事もしてないと思う。
『好きな食べ物は?』
『甘いもの全般。でもあんこよりはチョコかな』
『好きな男とかっている?』
『いない』
『じゃ、じゃ、この中で一人選ぶなら?』
『え~? ん~、君かな』
『そういう冗談はいらないから!』
『いや、そのくらいどうでもいいって言うか、恋愛を考えたことないっていうか。まあスキンヘッドはないかな』
『私のこと好き?』
『そりゃあね』
『……恥ずかしいやつ』
『自分で言わせたじゃん!!』
馬希はきっと嘘を吐かなかった。全部正直で、それが全部私には耳ざわりの良い言葉だった。
私は馬希と一緒の生活に凄く安心していた。家族ともろくに会話しないのに、馬希のことだけは信じることができたし、私の理想的な関係に付き合ってくれる馬希とはずっと一緒にいられるとも思った。
『……私のこと、嫌いにならない?』
『んー、未来のことは分からないから約束はできないね』
『じゃあ約束して、嫌いにならないって』
『じゃあ明浦が絶対変わらないって約束してくれるなら、私も絶対好きで居続けるよ。明浦が別人みたいになっちゃったらわからないからね』
その時はとても魅力的な提案だと思えた。絶対に変わらない関係、二つの約束を結んで私と馬希は誰よりも深い、誰にも侵せない関係になるのだと。
だから私は約束したのだ。
『わかった。変わらない、私は』
『じゃ、私も明浦のこと、ずっと今みたいに好きでいるよ。好きで居続ける。……我ながら自信ないなぁ』
『ちょっと!』
『冗談、冗談』
『冗談も禁止!! 私がそういうの……』
そういう、社交辞令とか嫌いだって言おうとした時だった。
いつもよりどこか優しくそっと撫でるように抱きしめて、かるくぎゅうと腕を背中に回して。
『よろしくね、由仁』
彼女には妹がいて、そういうスキンシップなのだと後から知ったのだけど。
私は、もうその瞬間に約束を破ってしまった。
変わってしまった。
変えられてしまった、のだけれど。
『……よろしく』
私はずっと馬希に隠し事をしている。
長くない話にしたい。エタりたくない…